四回目(クアドラ)の空白
プロローグ:欠落の予感
何かを、失くしたような気がする。
それは、ポケットからこぼれ落ちた小銭のような微かな音も立てず、ただ、最初からそこになかったかのように、僕の意識から削り取られていた。
五月の風が、松本市立城山中学校の渡り廊下を吹き抜けていく。
右手に持ったままの、飲みかけの炭酸飲料。アルミ缶の結露が、僕の指をじっとりと濡らしている。
(……僕は今、何をしにここへ来たんだっけ?)
数秒前の記憶が、霧に包まれたように不鮮明だった。
ついさっき、教室で悪友の健太と下らない話をしていたはずだ。それから、一瞬だけ視界が白く光り、気づけば僕は、この静かな渡り廊下に立っていた。
初めての経験ではない。
物心ついたときから、僕の世界には時折、こういう「ズレ」が生じる。
階段を踏み外した直後、なぜか踏み外す前の段に立っていたり。
テストの答えを書き間違えたと思った瞬間、白紙の答案用紙を前にペンを握っていたり。
周囲の大人たちはそれを「集中力が切れている」とか「ただのデジャブだ」と笑ったけれど、最近のそれは、もっと鮮明で、意図的で、そして――残酷だ。
「瞬、またぼーっとしてんのか?」
背後から声をかけられ、僕は肩を揺らした。
そこには、いつもと変わらない暢気な笑みを浮かべた健太と、その隣で少し心配そうに僕を覗き込む美月がいた。
「……あぁ、ごめん。ちょっと、眩しかっただけだ」
僕は適当な嘘を吐き、アルミ缶を口に運んだ。
自分が誰であるかも、ここがどこであるかも、まだ覚えている。
でも、心臓の奥が、警鐘を鳴らすように速く脈打っていた。
僕が望めば、世界は僕に従う。
でもそのたびに、僕の中の「大事な何か」が、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。
一日に四回まで。
今の僕が、自分なりに理解しているこの「力」の限界。
空は不気味なほど真っ青で、遠くの北アルプスが刃物のように鋭く世界を切り裂いていた。
この完璧な日常を、僕はいつまで持ち堪えさせることができるのだろう。
廊下の突き当たり、保健室のドアの向こうから、僕を呼ぶ「誰か」の視線を感じた気がして、僕は無意識に拳を握りしめた。
第1章:秒速の全能感
世界は、僕の指先ひとつでどうにでもなる。
そう確信したのは、中学二年生になってすぐのことだった。
「――よし、この問題。時枝、解いてみろ」
教壇に立つ「ヒゲダルマ」の指が、僕を指した。
僕は眠そうな目をこすりながら、ゆっくりと立ち上がる。黒板に踊る数式は、今の僕にとってはただの幾何学的な模様に過ぎない。予習など、一秒もしていない。
「おい、瞬。三十二ページの一番下だ……」
隣の席の**健太が、教科書を隠しながら必死に囁いてくる。
前方では、クラス委員の美月**が「大丈夫?」とでも言いたげに、不安そうな瞳をこちらに向けていた。
僕は心の中で、微かな笑みを漏らす。
焦る必要なんてない。僕の脳内には、誰も知らない「やり直しスイッチ」があるのだから。
僕は意識を集中させる。脳の奥底、普段は開かない「蛇口」をひねるイメージ。
――カチリ。
視界が白く反転し、五秒前の「名前を呼ばれる直前」へと意識が滑り落ちる。
「――よし、この問題。時枝……」
教師が口を開く一瞬前、僕はすでに、前の席の優等生がノートに走り書きした解答と、美月が差し出してくれていた教科書のヒントを網膜に焼き付けていた。
「答えは \sin\theta = \frac{1}{2} です」
教室内を「おぉ」という小さなどよめきが駆け抜ける。
「……正解だ。座れ」
驚きを隠せない教師を尻目に、僕は椅子に深く腰掛けた。
これが僕の力。一秒、あるいはコンマ数秒単位で時間を巻き戻す「タイムリープ」。
一日に四回。その「カード」をどう切るか。それが僕の日常における、唯一の攻略法だった。
放課後。
「瞬、マジですげーな! お前、最近予知能力でもあるんじゃねーの?」
部活へ向かう健太が、僕の肩を叩いて笑う。
「そんなわけないだろ。……あ、美月さん。さっきはありがとう」
後ろを通りかかった美月に声をかけると、彼女は少し顔を赤らめて足を止めた。
「ううん、時枝くんがちゃんと勉強してたからだよ。……でも、最近少し、疲れてるように見えるけど大丈夫?」
美月の優しい問いかけに、僕は言葉を濁す。
リープを使った後は、脳が少しだけ焦げ付いたような、独特の倦怠感がある。何より、自分だけが「別の時間」を体験しているという孤独が、澱のように胸に溜まっていた。
「……うん、ちょっと保健室で休んでから帰るよ」
健太たちの喧騒を見送り、僕は廊下の突き当たりにある木製のドアを叩いた。そこは、この学校で唯一、僕が「特別な僕」として呼吸できる場所だ。
「失礼します」
ドアを開けると、微かなハーブの香りと、清潔なリネンの匂いが僕を迎えた。
「あぁ、瞬くん。いらっしゃい」
神代美咲先生が、机から顔を上げた。
二十代半ばの彼女は、松本の冷涼な空気を凝縮したような、透き通るような白肌の持ち主だった。軽くウェーブのかかった栗色の髪が、彼女が動くたびにふわりと揺れる。
「また、頭が重いのかな?」
彼女は椅子から立ち上がり、僕のそばに歩み寄った。
彼女の白衣がかすれる音が心地よい。
「……はい。なんだか、大事なことを忘れそうになるんです。リープの後に」
神代先生は僕の額にそっと手を触れた。
吸い付くような指先の冷たさが、熱を帯びた僕の脳を落ち着かせていく。
「それは『可能性』を選びすぎたせいね、瞬くん」
彼女のアメジストのような瞳が、僕を真っ直ぐに見つめる。校内でも屈指の美人として知られる彼女だが、こうして至近距離で僕を「特別な患者」として扱ってくれる時間は、何物にも代えがたい。
「大丈夫よ。あなたが何を忘れても、私が全部、このカルテに書き留めておいてあげるから。……ほら、今日もお薬を飲んで」
彼女は棚から小さな錠剤を取り出し、紙コップの水と一緒に差し出した。
錠剤を飲み込むと、微かな苦味の後に、暴力的なほどの安堵感が押し寄せてきた。
「先生……。僕、先生にだけは、何もかも話せる気がします」
「ええ、それでいいのよ」
神代先生は僕の頭を優しく撫で、そのままカーテンの向こうのベッドへと促した。
「ここは、世界で一番安全な場所。あなたは、ただ私の言うことだけを信じていればいいの」
シーツに身を沈めながら、僕は思う。
健太の明るさも、美月の優しさも、僕にとっては「完璧な日常」を彩る背景に過ぎない。
本当に僕を理解し、導いてくれるのは、この美しい観察者だけなのだ。
窓の外、夕闇に沈みゆく松本の街並みを眺めながら、僕は深い眠りに落ちていった。
第2章:小さな正義と、砂嵐の予兆
新緑が目に眩しい五月の中旬。僕の世界は、かつてないほど輝いて見えていた。
自分の力を「タイムリープ」だと定義してからの僕は、まるで人生という難解なパズルの解答集を手に入れたような気分だった。
健太がふざけて投げた消しゴムが美月の頭に当たりそうになれば、一秒だけ戻って空中でキャッチする。
英語の小テストで単語をど忘れすれば、五秒だけ戻って辞書代わりの単語帳を開く。
一日に四回という制限は、むしろこのゲームを面白くするスパイスのようなものだ。慎重に、かつ大胆に。僕は「完璧な日常」という作品を作り上げる芸術家になったつもりでいた。
美月との距離も、少しずつ縮まっていた。
「時枝くん、最近なんだか……すごく頼もしいね」
放課後の教室、一緒に日直の仕事をしていた美月が、ふとした拍子にそう言って微笑んだ。夕陽を浴びた彼女の瞳が、宝石のようにきらめく。
「そうかな。普通だよ」
「ううん。なんだか、何が起きるか全部わかってるみたいに見える時があるの」
彼女の鋭い指摘に心臓が跳ねるが、僕はそれを余裕の笑みで受け流した。美月の笑顔を守るためなら、一日に数枚の「カード」を切る価値はある。
だが、そんな僕の傲慢さに冷や水を浴びせるような事件が起きた。
1. 「秒」の追跡者
駅前のショッピングモール。テスト明けの開放感で、僕と健太、それに美月の三人は、フードコートで他愛もない話をしていた。
「……ない。お財布がないの」
美月が青ざめた顔でバッグを漁っていた。クラスの集金袋も入っていたという。泣き出しそうな彼女を見て、僕の胸に鋭い痛みが走った。
僕は立ち上がり、周囲を見渡す。人混みの中に、足早に立ち去るパーカー姿の男が見えた。
「美月、ここで待ってて。僕が探してくる」
「えっ、でも、瞬くん……!」
僕は呼び止める声を背に、路地裏へと滑り込んだ。
今日、僕はまだ一度も力を使っていない。残弾は四発。余裕だ。
僕は目を閉じ、十五分前――店に入る直前の時間軸を脳裏に描く。
――カチリ。
視界が白濁し、僕は店に入る前の自分に重なる。
入り口でわざと美月にぶつかっていった男。その鮮やかな手つきを、僕は「二度目の現在」として目撃した。男は路地裏のゴミ捨て場の陰に入り、財布の中身を確認しようとしている。
僕はそれを追った。男の背後から声をかけようとしたとき、男がナイフのようなものを取り出すのが見えた。
恐怖はない。僕はさらに五秒だけ、時間を戻す。
――カチリ(本日二回目)。
男がナイフを抜く直前、僕は足元の空き缶を思い切り蹴り飛ばした。不意を突かれた男の注意が逸れる。その隙を突き、僕は地面に落ちそうになった財布をひったくるように奪い返した。
「……ガキが、調子に乗るなよ」
男は低く唸り、僕を突き飛ばして逃げ去った。
成功だ。僕は財布を握りしめ、勝利を確信する。
だが、その瞬間。
「……え?」
僕は、ゴミ捨て場の前に立ち尽くした。
なぜ、僕はここにいるんだろう。
右手に握っている、この見覚えのある赤い財布は、一体誰のものだ?
そして、僕は今、何をしようとしていたんだっけ。
二回目以降のリープがもたらす、残酷な代償。
僕は「財布を取り返しに来た目的」という、今この瞬間に最も必要な記憶を、ルール③によって失ってしまったのだ。
2. 空白の結末
立ち尽くす僕を現実に引き戻したのは、スマホのバイブ音だった。
画面を見ると、「美月」という名前が表示されている。
「……もしもし、時枝くん!? 大丈夫? 急に走り出しちゃうから……」
電話越しの不安そうな声を聞いた瞬間、脳の奥で火花が散り、記憶の断片が強引に結合された。
(そうだ……美月の財布だ)
冷や汗が背中を伝う。
もし電話が鳴らなかったら。もし、この財布の持ち主の名前を忘れてしまっていたら。
僕は自分が何者かもわからないまま、この路地裏で夜を迎えていたかもしれない。
僕は震える足でフードコートに戻り、彼女に財布を返した。
美月は涙を流して喜び、健太は「お前、マジでヒーローだな!」と僕の肩を叩いた。
だが、僕の掌には、あの男が逃げる際に落とした黒い小さなチップが残っていた。
SDカードのような形をしているが、表面には奇妙な刻印がある。
その日の帰り道。
僕は無意識に、保健室のドアを叩いていた。
いつものように、神代先生は穏やかな微笑みで僕を迎えてくれた。
「あら、瞬くん。今日はなんだか、とても疲れた顔をしているわね」
彼女の美しい指先が、僕の額の汗を拭う。
僕は、今日起きたことをすべて話した。ただし、「タイムリープ」という言葉だけは伏せて。ただ、驚異的な反射神経で泥棒を追い詰めたこと、そして、その直後に襲ってきた激しい「物忘れ」のことを。
「……先生、僕はどこか、おかしいんでしょうか」
「いいえ。あなたは、正義感が強すぎるだけ。脳が情報を処理しきれなかったのね」
彼女は僕が差し出した黒いチップを手に取ると、一瞬だけ、それを光に透かして眺めた。
「これは、私の方から警察に届けておいてあげる。瞬くんは、もうこの事件のことは忘れていいのよ。あなたは、十分頑張ったんだから」
神代先生の優しい声を聞いていると、路地裏で感じたあの底知れない恐怖が、薄氷が解けるように消えていく。
彼女にすべてを任せていれば、僕は「完璧な僕」のままでいられる。
僕は渡された甘いハーブティーを飲み干し、彼女の瞳の中に吸い込まれるような感覚を覚えながら、深い安堵の中に沈んでいった。
第3章:不可視の境界線
あの日、駅前でチップを拾い、それを神代先生に託してから、僕の周囲には「不穏な影」がつきまとうようになっていた。
それは、放課後の校門前に停まっている黒いセダンだったり、登下校の道すがらですれ違う、耳に通信機をつけた灰色のスーツの男たちだったりした。中学生の僕には、彼らが何者なのか、何を目的にしているのかは分からない。ただ、彼らが僕を「見ている」ことだけは、肌に刺さるような感覚で理解できた。
1. 忍び寄る「大人たち」
五月の終わり、放課後の教室。
健太と美月と、来月の文化祭でやるクラス演劇の台本を読んでいたときだった。
「……あれ?」
気づくと、僕は校門の前に立っていた。
周囲はすっかり黄昏色に染まり、生徒たちの姿もまばらだ。さっきまで教室で笑い合っていたはずなのに、どうやってここまで来たのか、その道中の記憶がすっぽりと抜け落ちている。
(まただ……。でも、今回は「リープ」をした覚えがないぞ?)
ルール②:制限を超えると自動的に元の時間に戻ってしまう。
もしかして、僕は無意識のうちに一日の制限である四回を使い切ってしまったのか。だとしたら、一体いつ? 何のために?
「――時枝瞬くんだね」
不意に背後から声をかけられ、僕は肩を揺らした。
そこには、灰色のスーツを着た、彫りの深い顔立ちの男が立っていた。
「君の身に起きている『違和感』について、少し話をしたい。……君の大切な、美月さんや健太くんの安全に関わる話だ」
男は冷淡な口調で続けた。
「この街では今、ある極秘のプロジェクトが進行している。君のような『特異体質』の子供が、意図せずその引き金になっているんだ。……我々は君を保護したい」
保護。その言葉が、僕には「監禁」と同じ響きに聞こえた。
僕は男を突き飛ばすようにして、学校へと逃げ帰った。向かう先は、一つしかない。
2. 聖域の静寂
「失礼します……っ!」
保健室のドアを乱暴に開けると、そこにはいつもと変わらない、穏やかな微笑みを浮かべた神代先生がいた。
「あら、瞬くん。どうしたの、そんなに息を切らせて」
僕は、校門で見知らぬ男に声をかけられたこと、記憶が飛んでいること、そして得体の知れない恐怖を感じていることを、一気に吐き出した。神代先生は僕の話を静かに聞き、そっと僕の肩に手を置いた。
「怖かったわね、瞬くん。……大丈夫よ。その人たちは、きっと何か勘違いをしているだけ。私が学校側に伝えて、あなたに近づかないように言っておくわ」
神代先生の言葉に、僕は泣きそうなほど安堵した。
彼女は、僕が持っている「力」のことは知らない。それでも、僕の「物忘れ」や「体調不良」を、思春期特有の繊細な悩みとして、誰よりも真剣に受け止めてくれる。
「先生……僕、やっぱりどこか壊れてるんでしょうか。大事なことを、どんどん忘れていっちゃう気がして」
「いいえ。あなたは、周りの空気を読みすぎて、脳がオーバーヒートしているだけよ。……はい、今日もお薬を飲んで。これを飲めば、嫌なことは全部、眠っている間に整理されるから」
渡された錠剤を飲み込む。
彼女の指先が僕の髪を撫でる。その心地よさに、僕は思考を停止させた。
外の世界で何が起きようと、この保健室だけは、神代先生だけは、僕を裏切らない。
3. 暗転する松本
その夜。僕は自宅の部屋で、窓の外を眺めていた。
突然、松本の街を異様な衝撃が走った。
空を裂くような爆鳴。
駅前の変電所が巨大な火柱を上げ、一瞬にして街の明かりがすべて消えた。
闇に包まれた市街地。遠くでサイレンが鳴り響き、複数の場所で黒煙が上がっているのが見える。
『……時枝瞬。実験は次のフェーズへ移行した』
スマホに、知らない番号からメッセージが届く。あのスーツの男からだ。
『君がリセットしなければ、この街は壊滅する。君の愛する日常を救えるのは、君の力だけだ』
混乱が頭を支配する。僕の力が、街を救う?
でも、リープを使えばまた僕は何かを失う。
――でも、美月が、健太が死んでしまったら?
僕は震える指を脳の奥底へ伸ばす。
今日、僕はまだ「意識的には」一度もリープを使っていない。
残りはあと四回。
この地獄をリセットし、明日また、神代先生のいる保健室へ行くために。
「……お願いだ、戻ってくれ……っ!」
――カチリ。
僕は、崩れゆく松本の街を背に、漆黒の過去へとダイブした。
第4章:最後の一週間
目覚めるたびに、世界は少しずつ「薄く」なっていた。
あの日、燃え上がる松本の街を救うために「四回目」のリープを使い切ってから、僕の日常は、まるで砂で作った城のように脆く崩れ始めていた。
街の壊滅は「なかったこと」になった。変電所は爆発せず、信号は青のまま。人々は何事もなかったように生活している。
けれど、僕の中の「何か」は、確実に削り取られていた。
1. 消失する輪郭
「――瞬、お前さ。それ、俺の教科書だぞ?」
教室で、健太が苦笑いしながら僕の手元を指差した。
僕は自分の鞄から取り出したはずの教科書をまじまじと見つめる。そこには、乱暴な文字で『山崎健太』と書かれていた。
「あ……ごめん。間違えた」
「お前、マジでボケすぎだろ。昨日もさ、美月ちゃんのこと『誰だっけ』って顔で見てたし。笑えねーぞ?」
健太の言葉に、心臓が凍りつく。
美月の顔を、忘れた? 僕が?
必死に記憶の断片をかき集める。大きな瞳、優しそうな笑顔、僕を「時枝くん」と呼ぶ声……。
断片は繋ぎ合わさる。けれど、その感情の伴わない知識としての記憶は、僕をひどく不安にさせた。
ルール③。リープの代償は、僕から「最も失いたくないもの」を優先的に奪い去っているようだった。
2. 国家の包囲網
学校の周囲には、あの「スーツの男たち」が溢れていた。
彼らはもう、隠れようともしない。校門、駅のホーム、通学路の曲がり角。至る所に灰色の影が潜み、僕を、あるいは僕の「力」を観測している。
一度、逃げ場を失った僕は、校舎裏で男に捕まった。
「時枝くん、もう限界なのは分かっているはずだ。君がリープを繰り返すたびに、君という個人のデータは純化され、より使いやすい『システム』へと近づいている」
「黙れ……! 僕をどうするつもりだ」
「君は、我が国にとって最もクリーンで確実な『予測装置』になる。君にはもう、名前も、家族も、友人も必要ない」
僕は震える指先で、再び時間を戻した。
本日二回目。
男に捕まる直前の教室へ。
――カチリ。
戻ってきた教室で、僕は自分がなぜ息を切らしているのか、一瞬だけ分からなくなった。
ただ、胸の奥にある「神代先生のところへ行かなければ」という強迫観念だけが、僕を動かしていた。
3. 空白の聖域
「先生……先生……っ!」
保健室へ駆け込む。
神代先生は、いつものように静かにカルテを整理していた。僕の姿を見ると、彼女は驚いたように立ち上がり、僕を優しく抱きしめた。
「瞬くん、大丈夫よ。落ち着いて」
「先生、僕……自分が誰なのか分からなくなりそうなんです。友達のことも、さっきまで何をしていたかも……」
彼女の腕の中は、唯一、時間が止まっているかのように穏やかだった。
「いいのよ、瞬くん。あなたが何もかも忘れてしまっても、私がここにいるわ。私が、あなたのすべてを証明してあげる」
神代先生は、引き出しから一錠の真っ白な薬を取り出した。
「これを飲んで、ゆっくり眠りなさい。目が覚めたら、また新しいあなたが始まるの」
僕はその薬を、聖体拝領でも受けるような敬虔な気持ちで飲み込んだ。
意識が遠のく中、僕は彼女の囁きを聞いた気がした。
「――あと少し。あと一回、『空白』を作れば、完成ね」
4. 運命の「四回目」
目が覚めたとき、街は再び火の海に包まれていた。
いや、これは「あの日」の再現ではない。さらに巨大な、国を揺るがすような連続爆破テロ。あるいは、戦争の始まり。
空は赤く焼け、悲鳴が松本の街を埋め尽くしている。
目の前には、血を流して倒れている健太と、瓦礫の下で僕を呼んでいる美月の姿があった。
「瞬……くん……逃げ……て……」
美月の声が、僕の脳の最後の理性を揺さぶる。
今日、僕はすでに三回のリープを使い果たしている。
残りは、最後の一回。
ルール②。四回を超えれば、自動的に「元の時間」に戻ってしまう。
でも、もしこの地獄をリセットできるのなら、僕は。
「……忘れたくない……けど……」
僕は自分の名前すら、もう思い出せなくなっていた。
ただ、この惨劇を消し去りたいという本能だけで、僕は脳の奥底の、今にも焼き切れそうな「蛇口」を最大までひねった。
世界が、砕け散る。
五秒、十秒、一分、一時間。
僕は記憶の代償を全て投げ打ち、時間の荒波を遡る。
――カチリ。
それが、僕という人間の意識が奏でた、最後の音だった。
最終章:クアドラの空白
柔らかな光が、まぶたの裏を叩いていた。
どこか遠くで、運動会の練習でもしているのか、吹奏楽部の不器用な旋律が聞こえる。
鼻をくすぐるのは、微かな消毒液の匂いと、甘いハーブの香り。
「……ん」
ゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた白い天井があった。
僕は上体を起こそうとして、軽い眩暈を覚える。
「あら、目が覚めた?」
聞き覚えのある、涼やかな声。
横を見ると、そこには白衣を着た美しい女性が、椅子に座って僕を覗き込んでいた。
アメジストのような瞳。優しくウェーブのかかった髪。
「神代……先生?」
「ええ。授業中に貧血で倒れちゃったのよ。覚えてる、瞬くん?」
僕はぼんやりと自分の手を眺めた。
何か、すごく長い夢を見ていた気がする。
街が燃えていて、誰かが泣いていて、僕は必死に何かを……。
けれど、その記憶の輪郭は、手を伸ばした瞬間にさらさらと砂のように崩れ、消えていった。
「……すみません。なんだか、全部忘れちゃいました」
「いいのよ。それはきっと、あなたに必要のない記憶だったのね」
神代先生は僕の額にそっと手を触れた。
ひんやりとした指先の感触が、たまらなく心地よい。
「さあ、もう放課後よ。お友達が外で待っているわ」
言われるままに保健室を出ると、廊下には二人の男女が立っていた。
日に焼けた元気そうな男子と、少しおどおどした様子の、瞳の大きな女子。
「よぉ、瞬! お前マジで焦らせんなよ。保健室のベッドがそんなに気に入ったか?」
「時枝くん、顔色、少し良くなったみたいで良かった……」
僕は二人の顔を見る。
名前は、すぐに出てきた。健太と美月。
クラスメイトで、僕の親友たちだ。……そうだ、そうだったはずだ。
「うん、もう大丈夫。……行こうか」
僕は二人の後を追って、夕焼けに染まる校庭へと歩き出した。
背後で、神代先生が「また明日ね」と優しく手を振っている。
平和だ。
何の悩みもない、どこにでもある中学二年生の日常。
僕は今日、何回「力」を使ったんだっけ?
……力? 何のことだ。そんなもの、僕にあるはずがない。僕はただの、普通の中学生だ。
僕は美月と健太の笑い声に混じりながら、校門をくぐった。
誰もいなくなった保健室。
神代美咲は、窓際で一台のタブレット端末を操作していた。
画面には、複雑なグラフと、瞬の脳波データがリアルタイムで表示されている。
その隣には、彼が今日一日で行った「無意識のリープ」のログが克明に記録されていた。
「被検体No.1(時枝瞬)。最終フェーズ完了。……人格の完全な初期化、および能力のシステムへの統合を確認しました」
彼女は淡々と、通信相手に向かって報告する。
保健室のドアがノックされ、昼間、校門に立っていた灰色のスーツの男が入ってきた。
「ご苦労。これで、我が国の『確定未来管理システム』の心臓部が完成したわけだ」
「ええ。彼はもう、自分が何者であるかも、かつて世界を救おうとしたことも、二度と思い出すことはありません。彼は死ぬまで、この平和な日常というカプセルの中で、私たちのために時間を修正し続ける『部品』になったのですから」
神代は、窓の外を歩く瞬の後ろ姿を見下ろした。
そこには、一人の少女が彼を追い越していく姿があった。
「……さて、次を始めましょうか」
神代の手元にある新しいカルテには、今日転校してきたばかりの少女の写真が貼られていた。
その余白には、赤いスタンプでこう記されている。
『被検体No.2:適合性・高』
松本の街に、今日も穏やかな夜が訪れる。
それが、幾千もの「空白」の上に築かれた、偽りの安寧だとも知らずに。
エピローグ:観測される箱庭
松本の街が、深い夜の底に沈んでいた。
城山公園の展望塔。一般客の立ち入りが禁じられたその最上階には、いくつものモニターが淡い光を放っている。その中心に立つ神代美咲は、昼間の慈愛に満ちた教師の顔を、完全に脱ぎ捨てていた。
「バイタル、安定。記憶の再構築率、98%。……完璧ね」
彼女の指先がモニターをなぞる。そこには、自宅で眠りについている時枝瞬の姿が映し出されていた。
彼は今、幸せな夢を見ているはずだ。健太と笑い合い、美月と少しだけ手を触れ合わせるような、瑞々しくも退屈な日常の夢を。
「彼に与えられた『平穏』という名の牢獄は、今のところ順調に機能しているようです」
背後の闇から、あのスーツの男――国家情報室の査察官が歩み寄った。
「感傷的だな。だが、彼が今日、無意識のうちに書き換えた『未来』を知れば、その価値もわかるだろう」
男が手元のスイッチを入れると、別のモニターに「本来起こるはずだった歴史」が映し出された。
大地震による都市の崩壊。暴徒化した市民。そして、国を揺るがすテロ。
それらすべてが、瞬が「四回目」のリープを行った瞬間に、霧のように消え去っていた。
「彼は自分が救った世界の大きさを知らない。……そして、自分がその世界を維持するための『心臓』にされたことも」
「それでいいのです。自覚はノイズ(不確定要素)にしかなりません」
神代は、カルテの束から一枚の書類を取り出した。
そこには、瞬の隣の席――かつて空席だった場所に明日座るはずの、転校生の少女の情報が記されている。
「No.2を、彼の観測範囲内に配置しました。彼女の能力は『因果の視覚化』。彼女が瞬くんに接触すれば、システムの精度はさらに跳ね上がるでしょう」
「彼に、また過酷な選択を強いることになるな」
「いいえ、査察官。彼はもう『選択』なんてしません。彼が歩むのは、私たちが舗装した、最も安全で正しい一本道だけなのですから」
神代は、窓の外に広がる、まばゆいばかりに輝く松本の夜景を見つめた。
それは、一人の少年の記憶と自由を代償に買い戻された、あまりに美しい、偽物の未来。
「おやすみなさい、瞬くん。明日もまた、あなたの知らない『素晴らしい一日』が始まるわ」
神代の唇が、夜の静寂の中で小さく、弧を描いた。




