第9話 ノルヴァールの大地、その恵み
ノルヴァールの冬がようやく終わりを告げた。
雪解け水が土を潤し、森の木々が薄緑に染まり始める。
エリクス=ロザミネートは、丘の上に立ち、眼下に広がる自らの領地を見渡していた。
かつては荒れ果て、命の気配さえ薄かったこの土地に、今は確かに“息吹”がある。
復活した井戸、輝く麦畑、そして村人たちの笑顔。
その光景を見つめながら、エリクスは小さく呟いた。
「……水は大地を甦らせる。ならば次は大地そのものの秘密を探る番だな」
春の陽が差す昼下がり。
村の広場に集まった農夫たちは、エリクスが描いた奇妙な地図を囲んでいた。
「この赤い線が、去年豊作だった区画です」
エリクスが指でなぞると、ラドンがうなずいた。
「たしかに、ここは麦がよく育ちました。逆に、北側の湿地は穂が腐ってしまって」
「ふむ。やはり、地質の違いがある」
エリクスは膝をついて土を掬い上げた。
南東の畑の土は、手の中でさらりと崩れ、指先に滑らかに流れる。「この粒の細かさ、シルト質の沖積土か。水はけがいい。粘りがなく、日光もよく通す」
一方、北の畑の土は黒く湿り、指先にぬめりが残る。
「こちらは粘土質。栄養は多いが、冷たく、水を溜め込みすぎる」
ラドンが目を丸くした。
「まるで、土が生きているみたいですな」
「その通りだ。土地は生きている。だからこそ“呼吸”が必要なんだ」
エリクスは鍬を取り、地表を浅く掘った。
「春先に土を起こして空気を入れる。それだけで根の張りが変わる。肥料よりも、呼吸だ」
彼の声に、農夫たちは真剣な表情で頷く。
次に彼が向かったのは、丘の麓に広がる古い葡萄畑の跡だった。
「この蔓、生きているか?」
「ええ、去年までは実をつけませんでしたが、根はまだ残っております」
エリクスは土を払って根元を調べた。
驚いたことに、その根は深く地中へと伸び、乾いた粘土層を突き抜けていた。
「なるほど。大地は貧しくとも、根が深ければ命を繋ぐことができるのか」
彼の心にふと、前世の記憶がよぎる。
大学時代、地理学の講義で学んだ、ヨーロッパの豊穣の地、アルザス地方。
「確か、あそこも川と山に挟まれた土地だった」
エリクスは呟いた。
ノルヴァールもまた、北に氷河湖、南に小高い丘陵、そして中央を流れる清流がある。
「この地形、似ている。まるでアルザスのようだ」
その夜。
村の集会所にて、エリクスは民を前に地図を広げた。
「ノルヴァールの大地は、実はとても恵まれている」
人々のざわめきが広がる。
「王都の貴族たちは、ここを“貧しい北の果て”と呼ぶ。しかし、それは見誤りだ」
エリクスは指で地図を示した。
「山の雪解け水が運ぶ砂と粘土が、長い年月をかけて堆積している。これは“沖積土”だ。肥沃で、水はけもいい。南向きの丘には太陽がよく当たる。風は山を越えて乾燥しており、病害も少ない」
「……つまり?」とリーネが問いかける。
「この土地は、“作物の宝庫”なんだ。正しく使えば、王都をも支える収穫が得られる」
沈黙が訪れたのち、誰かが小さく息を呑んだ。
やがて一人、また一人と歓声が上がり、村は熱気に包まれた。
「では……今年は新しい畑を作りましょう!」
「東の丘を開墾だ!」
「麦だけでなく、野菜や果樹も!」
エリクスはその声を静かに聞きながら、微笑んだ。
この地には、まだ無数の可能性が眠っている。
水を得た大地は、今まさに命を吹き返そうとしていた。
翌朝。
リーネが丘の上で彼に声をかけた。
「エリクス様、あの南斜面、葡萄をもう一度植えてみませんか?」
「葡萄?」
「ええ。お祖父様が昔、そこにワインを作るための畑を持っていたそうです。けれど戦で荒れて」
エリクスはしばらく黙って風を感じていた。
南からの陽射しが暖かく、空気は乾いている。
土は軽く、石混じりで水はけがいい。
「悪くない。傾斜もある。水はけも十分だ。南向きの丘なら、光も風もよく通る」
リーネが目を輝かせる。
「じゃあ!」
「試してみよう。あの丘に葡萄を植えるんだ」
彼の声に、若者たちは歓声を上げた。
村の人々は早速、古い棚を修復し、苗木を植え、石壁を築き始める。
斜面に並ぶ小さな苗たちは、やがてこの地の未来を象徴するように、陽光を浴びて輝いていた。
エリクスはその光景を見つめながら、ひとつの確信を得た。
「ノルヴァールは、アルザスのように“実りの地”になれる」
そう呟いた彼の瞳には、かつて王都で見た虚飾ではなく、本物の“希望”の光が宿っていた。




