第8話 命の水と発酵の知恵
雪解けの川がゆっくりと流れる。
ノルヴァールの春は短い。凍てつく冬の後に訪れる一瞬の温もりは、まるで夢のように儚い。
エリクスは、村の井戸の傍らで木桶を手にしていた。
濾過装置の改良を続けてから数週間、ようやく水は澄み渡り、冷たく清潔な味を取り戻していた。
それでも、彼の心の奥には、まだ拭い切れぬ不安が残っていた。
「清潔な水を手に入れられるのは、ほんの一部の井戸だけ」
彼は独りごちた。
「村の外れの集落では、まだ腹を壊す者が出ております」
側にいたラドンが答える。
「水を煮沸すればいい。しかし薪も限られている。全てを賄うのは難しいな」
沈黙。
遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえる。彼らは新しく作られた木樽の周りで跳ね回っていた。中には、黄金色の液体がゆらゆらと光を反射している。
「エリクス様、こちらを見てください!」
呼び止めたのは、村の若者リーネだ。彼女はエリクスが設けた“食糧管理班”のひとりで、明るく機転が利く娘だった。
「この液体、飲んでみてください」
エリクスは怪訝な顔で木椀を受け取る。
「……なんだこれは?」
「麦汁を、長く放っておいたらこうなったんです。最初は腐ったのかと思いましたが、香りが悪くない」
彼は慎重に匂いを嗅いだ。
わずかな酸味と、麦の甘い香り。
恐る恐る口をつけると、舌に柔らかな泡が触れ、喉を滑り落ちる感覚が心地よかった。
「……これは」
「ええ。少し酔いそうになりますけど、腹を壊す人がいないんです」
エリクスの脳裏に、前世、藤露海斗だった頃に学んだ知識が蘇る。
「発酵、そうか、アルコールだ。麦を煮て、自然酵母が混じったのだろう」
「発……酵?」
「うまくいけば、これが“飲める水”の代わりになる」
その言葉に、周囲の農民たちはざわめいた。
エリクスは続けた。
「煮沸で雑菌が死ぬ。酵母が発酵して、病を防ぐ。酒精は弱いが、子どもでも薄めれば飲めるだろう」
村人たちの目に希望の光がともる。
「エリクス様、それはつまり……“飲むための麦”ということですか?」
「そうだ。食うだけが糧じゃない。“命を繋ぐ水”に変えるんだ」
こうして、ノルヴァールで初めての“発酵水”、麦酒の試作が始まった。
最初の数日は失敗の連続だった。
麦芽を煮すぎて焦がしたり、発酵が進まずに腐ったり。
しかし、リーネやラドンをはじめ、村の女たちが試行錯誤を重ねるうちに、やがて黄金色の液体は安定した風味を帯びていった。
「これはうまいな」
エリクスは新しい樽の中身を口にして、思わず微笑んだ。
「香ばしい。これは、村の誇りになるぞ」
リーネが胸を張る。
「“ノルヴァールの麦水”って名をつけましょう!」
その場に笑いが広がる。
やがてこの麦酒は、村の宴の象徴となり、同時に“衛生の知恵”としても広まっていった。
子どもは薄めた麦汁を飲み、大人は仕事の合間に樽を囲んだ。人々はそれを“命の水”と呼ぶようになった。
ある夜、焚き火のそばで、ラドンがぽつりと呟いた。
「殿、王都では、井戸の水が病を広めていると聞きます」
「やはり、そうか」
「清潔な水は貴族の館でしか手に入らぬ。民は腐った水を飲み、倒れているとか」
エリクスは静かに薪をくべた。火の粉が夜空に舞う。
「彼らはまだ知らないのだ。水を清める方法も、麦を煮て命を守る知恵も」
「この村で起きていることを、王都にも伝えるおつもりですか?」
「いずれは、な」
エリクスの瞳には、決意の光があった。
かつて王都で嘲笑された“食材鑑識”の力。
それがいま、民を救う“命の知恵”となっていた。
春が過ぎ、ノルヴァールの大地に緑が戻り始めた頃。
エリクスは丘の上から領地を見下ろしていた。
彼の足元を、透き通る小川が流れている。
その水は、もう濁ってはいない。
「命を繋ぐとは、こういうことか」
彼の心に、ひとつの新たな興味が芽生えていた。
この土地の大地は、どうしてここまで変化に富んでいるのか。
雪解けの水が流れ、森の腐葉土が養分を与え、谷の風が湿度を運ぶ。
だが、それだけでは説明がつかない。
リーネが草籠を抱えて近づいてきた。
「エリクス様、今年の畑、東側の区画だけ麦の育ちがいいんです」
「面白い。地質が違うのかもしれないな」
エリクスは膝をつき、土を指先で掬った。
細やかで、柔らかく、わずかに赤みを帯びている。
「この土地は……何かを秘めている」
風が頬を撫でた。
遠く、南の地、シーナ地方の名がふと脳裏をよぎる。
葡萄の実る土地、豊穣の象徴。
ノルヴァールもまた、そこへ連なる“恵みの地”なのではないか。
「水を得て、次は大地だ」
エリクスは立ち上がった。
「この土地の力を、もっと深く知らなければならない」
春風が吹き抜け、彼の外套を揺らした。
命の水に続く、次の知恵は、「大地の秘密」。




