第3話 命を繋ぐパン
春は、まだ遠い。
それでも、ノルヴァールの風にはほんの少しだけ柔らかさが混じり始めていた。
雪に覆われていた畑には、若草のような薄緑が広がり、人々の顔にわずかな笑みが戻りつつある。
「芽が出たぞ!」
「また一株増えた!」
畑のあちこちで歓声が上がる。
“寒冷麦”、エリクスが見出した新種の麦は、確かに育っていた。
ただ、それでも収穫までには時間がかかる。
備蓄は底をつき、領民たちはまだ飢えの縁に立たされていた。
エリクスは執務室で帳簿を眺めながら、唇を噛んだ。
「麦は育っている。だが、今を生きる糧がない……」
扉を叩く音。
入ってきたのは、厨房を預かる女性、マリアだった。
四十代ほどの女性で、領民の中でも特に信頼の厚い人物だ。
「殿下。炊き出しの列が日に日に長くなっております。配給を増やしたくても、粉が……」
エリクスは顔を上げた。
「残っている粉は、あとどれくらいだ?」
「二日分も持ちません」
マリアの声は震えていた。
「子供たちが倒れております。せめて、口にできるものがあれば……」
エリクスは立ち上がった。
「マリア。残っている材料をすべて見せてくれ」
厨房には、ひんやりとした空気が流れていた。
棚にはほとんど何もない。麦粉の袋は空に近く、乾いた豆や野草、僅かな蜂蜜の壺。
「これだけか……」
マリアがうつむく。
「はい。パンを焼くにも、粉が足りません。スープにしても塩が足りず……」
エリクスは袋の底を覗き込んだ。
中に混ざる茶色い粒――砕けた殻や、未熟な麦。
“普通なら廃棄される”部分だ。
彼は指先でそれを掬い、スキルを発動させた。
【麦殻片:食用不適/乾燥・加熱処理で消化可能性上昇/蜂蜜と混合により安定栄養化】
「……なるほどな」
マリアが首をかしげる。
「殿下?」
「この殻、捨てるには惜しい。蜂蜜と合わせれば、栄養になる」
エリクスは釜の前に立ち、手ずから生地を練り始めた。
麦殻を細かく砕き、少しの粉と蜂蜜を混ぜる。
水を加え、塩の代わりに草の汁を絞った。
粘土のような重たい塊が、ゆっくりとまとまっていく。
「こんなもので……パンが?」
マリアが呟く。
「パンかどうかは分からない。けれど、“命を繋ぐ”ものにはなる」
そう言って、エリクスは小さな塊を火にかけた。香ばしい匂いとは程遠い、焦げと草の混じった匂い。
だが、そこに確かに“食べ物”の匂いがあった。
焼き上がった茶色い塊をマリアに差し出す。
「試してみてくれ」
マリアはおそるおそる一口齧った。
ぱさつきはある。だが、ほんのり甘い。
「……食べられます。これなら……!」
「炊き出しに出そう。皆でこの味を覚えてくれ。」
その日の夕方、広場には長い列ができた。
鉄板の上で焼かれる“茶色いパン”。
香りに誘われて、子どもたちが目を輝かせる。
「これ、ほんとに食べていいの?」
「うん。殿下が作ってくれたんだって!」
マリアがパンを配る手を止め、エリクスに微笑んだ。
「皆、笑っていますよ。久しぶりに」
エリクスはその光景を見つめながら、小さく息を吐いた。
「笑顔……それだけで十分だ」
彼はパンをひとつ手に取り、空を見上げる。
雪雲の切れ間から、わずかに陽が差していた。
“この光を、絶やしたくない”
そう思ったときだった。
奥の後方から、怒声が上がった。
「何がパンだ! 貴族の気まぐれで俺たちの腹が膨れるか!」
人々が振り返る。
声の主は、顔に傷を持つ若い男。農民であり、先月に妻を飢えで亡くしたと聞いていた。
「俺の家族は死んだ! 麦が芽吹くまでに、みんな死ぬんだ!今さら“茶色い泥”なんか喰わせて、何が救いだ!」
マリアが怯え、パンを庇うように抱える。
エリクスは一歩、前に出た。
「……君の言葉は正しい」
男が一瞬、息をのむ。
エリクスはまっすぐに彼の目を見た。
「俺は“殿下”としてここに来た。でも、今の俺には剣も権力もない。できるのはただ、この手でパンを焼くことだけだ」
「パンで、何が変わる!」
「命を一日でも延ばせる。それで十分だ。生きてさえいれば、明日が来る。君の妻が見られなかった明日を、君は見届けられる。」
沈黙が落ちた。
焚き火の音だけが響く。
男の肩が震え、やがて拳を握りしめた。
「……すまねぇ。怒鳴って、悪かった」
「謝ることはない。怒りは、生きている証拠だ」
エリクスは男の手に、焼きたてのパンを差し出した。
その手は、病弱だった頃の自分では到底持てなかった“温もり”に満ちていた。
その夜。
炊き出しを終えたマリアが、静かにエリクスに頭を下げた。
「殿下。あのパン、子どもたちが“命のパン”と呼んでおります」
「……命の、パン」
マリアは微笑んだ。
「どんなに粗末でも、皆、笑って食べています。あの光景を見て、やっと冬が終わる気がしました」
窓の外では、月が淡く雪を照らしている。
エリクスは静かにパンを手に取り、ひと口かじった。
たしかに美味いものではない。
だが、舌に残る甘みが胸に沁みる。
「……俺は昔、病院でよくパンの匂いを嗅いでたんだ」
マリアが目を瞬かせる。
「病院、とは?」
「……いや、昔話さ」
エリクスは微笑みながら窓の外を見つめた。 “この世界に来た意味”が、少しずつ形になり始めている気がした。
パンの香りが、雪の夜に静かに広がる。
その香りは、確かに人々の心を温めていた。
それは、たった一つのスキルが繋いだ命の灯。
そしてその灯は、やがてこの国全土を包み込む希望の炎へと育っていくのだった。




