第2話 ノルヴァールの飢饉
冷たい風が頬を切る。
馬車が雪解けのぬかるんだ道を軋ませながら進むたび、車輪が泥を跳ね上げた。
これが、ノルヴァール。
エリクス=ロザミネートは窓から外を見た。
広がるのは灰色の空と、枯れた大地。
木々は葉を落とし、農民たちは土を掘り返して何かを探している。
「……草の根を、食ってるのか」
御者が気まずそうにうなずいた。
「今年は冷害がひどくてな。秋の収穫は半分以下だ。備蓄ももう尽きかけてる」
王都では“無能貴族の左遷”と嘲られたこの辞令が、こんな地獄のような場所だったとは。
だが、エリクスの目はただの同情ではなかった。
この土地を生かせるかもしれない。
数時間後、彼はノルヴァール城に到着した。
石造りの館は立派だったが、どこか寒々しく、人の気配が薄い。
迎えたのは、壮年の男。質素な服に煤けた手。
「ようこそお越しくださいました。当領執政官のグラフと申します」
「グラフ、現状を聞かせてくれ」
グラフは深くため息をつき、分厚い帳簿を開いた。
「畑は凍結。家畜は半分が餓死。交易路は雪で封鎖、援助は届きません」
「……つまり、詰んでいると」
「はい。正直申し上げて、殿下、いえ、閣下には“冬を越えるだけの栄誉ある葬送”を……」
「死ぬ気はない」
エリクスはきっぱりと言い切った。
グラフは言葉を失い、若き領主をまじまじと見た。 「……失礼を。ですが、食料が尽きるのは時間の問題。春まで持ちません」
「食料、ね……」
エリクスは懐から小さな布袋を取り出した。
中には、王都を発つ時に何故かポケットに入っていた“干からびた麦の穂”。
指先でそっと触れる。
淡い光が瞬き、視界に情報が浮かぶ。
【寒冷適応麦:発芽温度−5℃まで可。栽培可能地:北方域、ノルヴァール気候適正あり】
「……やっぱり、こいつか」
その瞬間、心の奥で確信した。
このスキル、食材鑑識は、単なる味覚判定ではない。
“食と命を見抜く力”なのだ。
「グラフ、すぐに人を集めてくれ。実験をする」
翌朝。
雪がうっすら積もる畑に、領民たちが不安げに集まっていた。
「また無駄だ」「殿下は貴族だ、土のことなど分かるまい」
そんな囁きが飛び交う中、エリクスは袖をまくり上げ、鍬を握った。
「俺が見つけたこの麦は、寒さに強い。凍っても発芽する。証明してみせよう。」
冷え切った土を掘り、種をまく。
その傍らで、農民たちは顔を見合わせた。
「……そんなことが、あり得るのか」
「奇跡でも起きぬ限り、芽など出ぬ」
しかしエリクスは構わなかった。
病弱だった日々の経験が教えてくれた。希望とは、信じる人間がいなければ芽吹かないということを。
夜、焚き火の傍らでひとり考える。
「……“食材鑑識”って、つまり生き物の“生の適性”を読むスキル、なのかもしれないな」
指先で小さな石を撫でてみる。
魔晶石のときと同じ淡い光。
【水源:地下五メートル。水脈あり】
「……水脈まで分かるのか」
つまり、作物が育つ“環境”をも見抜ける。
それは、この極寒の地にとって最大の武器だ。
数日後。
畑の一角に、緑の点が芽吹いた。
まだ弱々しいが、確かに生きている。
真冬のノルヴァールで、草が生えることなど本来ありえない。
領民たちは息を呑んだ。
「……殿下、本当に芽が」
「凍った土の上で……!」
エリクスは微笑む。
「“食材鑑識”なんて笑われたが、どうやら腹を満たすには悪くないスキルらしい」
グラフが震える声で言った。
「この種を増やせれば……飢えをしのげます!」
「そうだ。すぐに畑を広げよう。だが条件を一つ。俺の指示に従うこと。方法は俺が決める」
彼の声には、病室のベッドで眠っていた頃にはなかった力が宿っていた。
エリクスは夜を徹して動いた。
水脈を探り、肥沃な場所を特定し、寒冷麦の種を少しずつ分けて植えた。
鑑識の光が、ひとつ、またひとつと輝く。
そのたびに、確かな手応えが胸に宿った。
「俺の力は、戦うためじゃない。生かすための力だ」
やがて、春を待たずしてノルヴァールの畑に一面の若草が広がった。
それは人々にとって奇跡そのものだった。
農民の一人が、涙ぐみながら麦の芽を撫でる。
「こんなに早く……殿下、本当に……」
「いや、まだこれからだ。
育て、収穫し、備蓄して、冬を越えて初めて意味がある」
そう言って笑う青年の顔に、誰もが心を打たれた。
王都で“無能”と罵られた貴族が、最果ての地で命の芽を咲かせている。
その姿は、いつしか領民たちの希望となっていった。
その夜。
執務室で日誌をつけていたエリクスのもとに、グラフが慌ただしく駆け込んだ。
「殿下! 王都からの伝令です!」
「王都? 何があった?」
「大陸南部でも同じ冷害が発生。穀倉地帯が壊滅したとのことです!」
エリクスは顔を上げた。
飢饉は、ノルヴァールだけではない。
窓の外では、雪明かりが淡く揺れていた。
この小さな領地で芽吹いた麦の緑が、いつか大陸を救う日が来るかもしれない。
「……面白くなってきたな」
呟くその声には、かつての病弱な青年の影はもうなかった。
彼のスキルは、戦いではなく“飢えとの戦争”の始まりを告げていた。
 




