第1話 「転落の先の貴族館」
白い天井。
消毒液の匂い。
規則的な電子音が、静寂の病室に響いていた。
藤露海斗は、ベッドの上で淡々と点滴の滴る様子を眺めていた。
今日も変わらない、病院の一日。
季節は春のはずだったが、窓の外の景色に色彩はなかった。白衣の医師たち、機械の音、漂う消毒の香り。
21歳にして、彼の世界は四角い天井で切り取られた小さな箱に収まっていた。
肺の病を患って以来、海斗の人生は「療養」と「検査」に塗りつぶされていた。大学も休学状態で、友人とも疎遠。
夢を見ることさえ、いつしか止めていた。
しかし、その日は何かが違った。
検査を終えて病棟の階段を降りる途中、足がふらついた。
視界が揺れ、白い階段が反転する。
ああ、転ぶ。そう思った瞬間、世界は音もなく崩れた。
次に目を開けたとき、彼は柔らかな感触の上に倒れていた。
「……ん、どこだ、ここ……?」
眩しい。
カーテン越しに差し込む光は、病室の蛍光灯よりもずっと暖かく、黄金色に輝いていた。
ゆっくりと身体を起こすと、そこは病院ではなく、見たこともない豪奢な寝室だった。
深紅のカーペット。金の装飾が施された家具。壁には油絵。
天蓋付きのベッドに、香りの良いリネン。
まるで絵本の中の王侯貴族の部屋だ。
混乱する頭で立ち上がり、鏡に映る自分を見た瞬間、海斗は言葉を失った。
そこにいたのは、やせ細った青年ではなかった。
金色と栗色の中間のような髪を後ろに流し、端正な顔立ちの青年、しかも、鍛え上げられた体躯。
頬をつねると、痛みもある。夢ではない。
「……え、誰……?」
背後のドアが開き、執事のような老人が慌てて入ってきた。
「お目覚めになられましたか、エリクス様!」
「え、エリクス?」
「ご気分はいかがですか? 本日は“スキル鑑定の儀”の日でございます。お支度を。」
スキル鑑定?
エリクス?
老人の口調はまるで、彼がこの世界の誰かであるかのように当然だった。
鏡に映る「自分」は、たしかにエリクス=ロザミネートという貴族の青年なのだと、直感が告げていた。
混乱の中でも、不思議と心の奥に"この身体の記憶"のようなものが流れ込んでくる。
ここは、異世界だ。
そう理解するのに、時間はかからなかった。
衣装係の侍女たちに着替えを手伝われながら、海斗、いや、今の彼、エリクスは状況を整理しようとエリクスの中の記憶を辿る。
ロザミネート家。
大陸でも名のある貴族の名門。
当主の座は長子が継ぐが、「スキル鑑定」で認められなければ継承権は失う。
この世界では、生まれつき誰もが“スキル”を持つ。
戦闘、外交、芸術、その種類と強度で人生の価値さえ決まるという。
「スキル鑑定の儀」は、貴族の子弟にとって最初の試練。
そして今日は、エリクス=ロザミネートの未来が決まる日だった。
白亜の大広間に、貴族たちのざわめきが満ちていた。
中央に置かれた水晶、“魔晶石”が淡い光を放つ。
「では、エリクス=ロザミネート様。手をお置きください」
司祭が静かに促す。
エリクスは緊張の面持ちで手を伸ばした。指先が魔晶石に触れた瞬間、青白い光が瞬き、魔法陣が床に浮かぶ。
周囲の視線が一斉に集まる。
彼の心臓が高鳴る。
(何が出る……? 剣術? 魔法? それとも――)
次の瞬間、魔晶石が光を失い、司祭が小さく目を見開いた。
「……え?」
「……判定結果を」
当主が低く促すと、司祭は慎重に言葉を選んだ。
「“食材鑑識”……それのみ、でございます」
ざわっ、と会場が波立つ。
「しょ、食材鑑識……?」「そんなの、下級商人のスキルじゃないか」「貴族の跡継ぎが、それだけ?」
冷笑と失望の声が、エリクスの耳を刺す。
弟のアレンが一歩前に出た。
整った顔に勝ち誇った笑みを浮かべて。
「兄上、残念でしたね。これで正式に、当主は私ということになります」
「……」
胸の奥が熱くなる。
自分は何もできないのか。
海斗だった頃から、病に縛られ、力を持てずにいた。
ようやく強い身体を手に入れても、“スキル”という新たな枷が待っていたのだ。
父の当主が言い渡す。
「エリクス、お前には北東辺境ノルヴァール領を任せる。寒冷地で開拓も進まぬが……無能な者でも守る村くらいはあろう」
それは、実質的な“追放”宣告だった。
エリクスはただ、静かに頭を下げた。
その瞳の奥には、わずかな悔しさと、かすかな光が宿っていた。
数日後。
雪のちらつく北東の空の下、馬車がノルヴァール領へと向かっていた。
窓の外には、凍りついた畑と痩せた人々の姿。
冬が長く、作物が育たぬこの土地は、まさに“辺境の国”だった。
「……冷害、か」
御者から聞いた話では、今年は特に寒さが厳しく、食料不足が深刻らしい。
人々は麦の代わりに木の根や草を煮て生き延びているという。
エリクスは手袋を外し、自分の手を見つめた。
この手はもう、病弱だった頃の自分のものではない。
だが、今の彼にあるのは“食材鑑識”ただ一つ。
「……食材鑑識、ね。どんな無能スキルでも、使いようはある」
そう呟きながら、彼はポケットに何故か入っていた干からびた小麦の穂を取り出した。
魔晶石鑑定のときの感覚を思い出しながら、指先でそっと撫でる。
瞬間、視界に淡い文字が浮かんだ。
【食材鑑識:この穀物は低温環境下での発芽適性を持つ変種。育成地:北方域適正あり】
「……!?」
思わず息を呑む。
ただの枯れ麦に見えた穂が、“寒冷地に適応した特殊種”だと分かったのだ。
心臓が高鳴る。
これが、彼の“無能スキル”の真価。
遠く、雪原の向こうに、ノルヴァールの城塞が見えた。
冷たい風が吹きつける中、エリクス=ロザミネートは静かに微笑んだ。
「無能かどうか、試してやろうじゃないか」
その日、辺境の地に“食材の貴族”が誕生した。
そして彼の小さな一歩が、後にこの大陸の飢饉を救うことになるとは、誰もまだ知らなかった。




