水の女
今からお話しするのは、本当にあった出来事です。
もう20年くらい前になるでしょうか。その頃、私は、いわゆるブラック企業で働いていました。
まだ入社して半年でしたが、大学を出てすぐに勤めた会社もブラックだったので、一年ほどで辞めて、ようやく再就職した会社でした。
私は、ほぼ毎日残業していました。おまけに朝も、課の誰よりも早く出勤して、先輩社員達の机を拭いたり、ごみをまとめたり、雑用も一手に引き受けていたのです。
のちに、派遣社員の人が来るようになって、いくらか雑用は軽減されましたが、まだ入社して半年の人間に、ここまでやらせるか? というほど、仕事は山積みでした。
会社に行き、仕事して、会社から帰る。それだけの日々。
夜は日中の疲れで、風呂から出ると泥のように眠る。そんな毎日の繰り返し。風呂も、掃除するのが億劫で、シャワーのみ。
そんな生活ですから、部屋はぐちゃぐちゃ。食事も、近くのスーパーやコンビニで調達したものを食べるだけ、といった有様。
奇妙な出来事に遭遇したのは、そんな毎日を送っていた9月の半ばでしたでしょうか。
大きな台風が来て、かなり雨が降った直後の事でした。
その頃、私が住んでいたのは、大都市の隣の政令指定都市です。隣市との境目に山地が連なっており、山は中腹まで開発され、マンションや綺麗な戸建てが建てられていました。
昭和末期に造られた新興住宅地で、少し離れた場所から、それらの土地を眺めますと、こんな山の上まで切り開いているのか! と驚き、不思議な気持ちになったものです。
ただ、私が住んでいたのは、それらの住宅地ではなく、駅からほど近い場所。古くからある住宅街の中の小さなハイツでした。若者に払える家賃は、狭い古いワンルームマンションがせいぜいでした。
その日は思いのほか帰りが遅くなってしまったので、自宅近くのスーパーに寄る事は断念して、駅近くのコンビニに寄ることにしました。
スーパーは、惣菜や弁当の種類も豊富、しかも安い。夜遅くまで開いているのですが、あまり遅くなると、もうほとんど残っていないのです。
仕方なく、コンビニでサンドイッチやおにぎりでも買うかと思った私は、煌々とした灯りが外まで漏れている明るい店舗に向かいました。
中に入り、おにぎりのコーナーを物色していたときのことです。
すぐ後ろに人の気配を感じ、振り向くと、白装束の女性が私のすぐ近くに立っています。びっくりした私は、よろけて陳列棚にぶつかりそうになりました。
その女性は、何かぶつぶつ独り言を言いながら、狭い通路を歩き始めました。
その様子も異様ですが、彼女の服装も異様でした。彼女は白い襦袢姿だったのです。長い髪の毛を一つに束ねていましたが、髪の毛から水が滴り落ちています。彼女が歩いた後には水たまりが出来ている。ありえません。
雨は降っていません。台風一過の空は澄んで、星が綺麗な晴れた夜です。
彼女は一体どこから来たのか?
どうして下着姿なのか?
突然、彼女はピタと立ち止まって、小声で言いました。
「よかった。水が無い」
え? 水が無い?
コンビニには、色んなメーカーの水が売られています。
私は、水のペットボトルが置いてある場所を教えてあげようか迷いました。
でも、この不気味といっていい女性に話しかけるのは躊躇われました。
それに、彼女が呟いた言葉も奇妙でした。
『よかった、水が無い』
彼女は、水が無くて良かった、そう言っているのです。水を買いに来た人が言うセリフじゃない。
しかし、それにしても不思議なのは、コンビニの店内にいる人全員、彼女の存在を気にも留めていないことです。
店員さん、何人かいる客、本当に誰も彼女を見ていない。それは、ヤバい奴に関わりたくない、といった心理が働いているというよりも、ハナから彼女の存在に気づいていないかのように見えるのです。
そういう私も、うつむいて下ばかり見て、彼女を見ないようにしていましたが。
彼女の足元を見ると、何も履いていません。泥だらけの足袋だけです。
それに気づいて、彼女と目が合った瞬間、彼女がにやりとしたのです。その瞬間、私は文字通り震え上がってしまった。頭の皮がチリチリするような感覚に襲われ、もう、いてもたってもいられず、私は外に出ました。
しかし、外に出た途端、次の関門に遭遇したのです!
出入り口で、私は思わず悲鳴を上げそうになりました。
ものすごく近い距離で、男性が立っていたのです。未だに、その顔が思い出せるほどインパクトがありました。
私は未だかつて、あれほど怖い、絶望に満ち満ちた表情の人に会ったことがありません。
男性は無言で、私の真正面に立ったまま。
思わず、私は回れ右をして、店内に戻ろうとしました。ところが、振り向いた私の鼻先に、さっきのあの女性が立っています!
彼女もまた、鬼の形相をしています。
前門の虎、後門の狼。今なら、そんなふうに余裕を持って言えますが、その時の私は絶対絶命、あたふたするしかなかった。
「……ならん」
「え?」
「いてはならん」
女性が口を開いたのです。
「何ですって?」
「水が来た! 今すぐ逃げるのだ。ここにいてはならぬ」
彼女が何を言っているのか分かりませんが、私は彼女の勢いに気圧されて、棒立ちになりました。
何とかしなきゃ。でも、出入り口には、同じように怖い顔をした男性がいる。
私は振り向いて男性に軽く会釈すると、彼の脇をすり抜けるようにして、コンビニ店から離れました。
早足で家を目指して歩く私の足は、尋常でないほど震えていました。冷や汗が、背中を脇を、滴り落ちるのが分かります。
それでも、しばらく歩くうちに、駅前の喧騒を離れ静かな住宅街に差し掛かった頃は、落ち着きを取り戻していました。
さっき、自分が遭遇した奇妙な出来事は何だったのだろう?
百歩譲って、あの男性のほうは、私が不思議な女性に遭遇した事が引き起こした幻というか、勘違いのような気がします。普通の人が怖く見えただけと言っていい。
しかし、あの女性はどう考えてもおかしい。不思議すぎる。
例えていうなら、時代劇の撮影に遭遇したような、何かの番組のドッキリとか? そんな感じです。
ぼんやりと物思いに耽っていた私は、近くで犬が激しく吠え出したのに、飛び上がりそうになりました。
犬だけじゃない。救急車や消防車? パトカーのサイレンが鳴り響いています。
一斉に、そこここの飼い犬が騒ぎ始め、近隣の住宅の窓がガラッと開く音がします。
「火事?」
「何だろう」
開いた窓から、そんな会話が聞こえてきます。
私は元来た道を少し戻ってみました。
「怖いね」
「怖いな、早く帰ろう」
「やべえな」
「マジキチってこと?」
「死人、出てねーよな?」
通り過ぎるカップルや、興奮したように声高に話す若い学生のようなグループの会話に、耳をそば立てます。
何があったんだろう。恐怖心より好奇心が優って、私は点滅するライトで空が明るくなっている場所に、吸い寄せられるように向かってしまいました。
引き寄せられるように辿り着いたのは、駅前のコンビニ。そう、私がさっきまでいた、奇妙な出来事に遭遇した場所です。
救急車やパトカーが、コンビニの駐車場に停車しています。
私は、その場にいた、私と歳が近い感じのサラリーマン風の男性に、「何があったんですか?」と尋ねました。彼は顔を歪めて教えてくれました。
「通り魔みたいですよ」
「通り魔?」
「刃物を持った若い男が、コンビニにいた人に切りつけて、怪我人がいっぱい出てるんですって」
「ええっ!」
私の脳内に、あの怖い男性が浮かんできました。
「まさか……」
「犯人は確保されたらしいけど、切りつけた後、火まで付けたそうで。火はすぐ消されたけど、犯人自身が大火傷したとか」
再びの帰り道、私は呆然となっていました。
その後の報道で、犯人が亡くなったことを知りました。犯人に刺されて重症を負った人が何人もいましたが、全員命は取り留めたそうで、ホッとしました。
報道された犯人の写真を見ても、あの時の怖い男と同一人物かどうか、わかりませんでした。
さらに、被害に遭われた人達の名前や顔(その当時は、大々的に被害者の顔写真も新聞や雑誌に掲載されていました)も見ました。その中に、あの奇妙な女性はいませんでした。
もしかしたら、あの女性の発した「水が来た」という言葉は、「危険が来た」という意味だったのかも。次第に、私はそう考えるようになりました。
それというのも、あの山肌に張りつくように造成されている宅地、あそこはかつて、江戸時代に、里が一つ壊滅したほどの大水害があった場所らしいのです。何日も続く大雨で、ほぼ全ての家が土石流に飲み込まれた、という記録があるそうです。
私が見たあの女性は、もしかしてその水害で亡くなった人で、時空を超えてやって来たのかもしれません。幽霊と呼んでもいいですが。
「ここにいてはならぬ。逃げるのだ」
女性が私に放った言葉。
事件が起きたコンビニ店ではなく、私が置かれている場所、すなわちブラック企業から逃げるのだ、と言われた気がしました。
結局、事件の後すぐに、私は会社を辞め、違う土地で再就職しました。
私達の世代は就職氷河期と呼ばれています。世界的に景気が悪いとか、時代が悪かったとか、当時若かった私は考えもしなかった。会社を転々とする自分を責める気持ちすらありました。投げやりになったこともあります。
しかし、今こうして何とか生きているのは、あの怖い女性の警告のおかげかもしれません。
通り魔に巻き込まれずに済んだだけでも幸運でした。
あの通り魔の顔、ネットでググれば出てくるかもしれませんが、それはしません。
なぜなら、もしかしたら、あのままブラック企業で働いていたら、私が彼になっていたかもしれない。
もちろん、そんなことあるはずないのですが、犯人をググったら、自分の顔写真が出るんじゃないか? などと考えてしまって怖くなるのです……。
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました!