私の心の声を聞けば全部解決?そうですか、狙い通りの結果になることをお祈りしておきますね。
「やっと見つけたよ、エナシア」
学園の中庭の奥の奥。低木の間の小さな空間に敷物を広げて本を読んでいた私に、婚約者が呼びかける。誰がバラしたのだろうか。また新しい隠れ場所を探さなくてはならない、とため息をつきながら、私は声の主を見上げた。
「何か御用でしょうか、ラズフィル様」
目は合わせない。口元を一瞬だけ見て、すぐに視線をそらす。
「探したよ。何日も見つけられなかったから、家で顧問契約を結んでいる魔術師に探知魔術を教わったんだ」
顧問魔術師の方は用途を確認したのかしら。そもそも普通に考えて、学院内で見つからない婚約者を探すために探知魔術を教えてって言われて教えるものなのかしら。
「……親衛隊の方を刺激しないために、学院内では話しかけないでいただきたいと、近付かないでいただきたいと何度もお願い申し上げたと思うのですが」
「ははは、可愛いなぁエナシアは。それは僕に『私を見つけて』と言っているんだろう? 君が考えていることはなんでもわかるよ」
……何でもわかるのであれば今ここにあなたがいることが苦痛なのだと伝わらないのでしょうね。もう見つかってしまった以上ここにいる意味はない。離れるべく荷物をまとめる。
「それでは、私が今考えていることは何でしょうか」
「『ようやく私を見つけてくれて嬉しい!』だろう?」
他の人に見つかりたくない。一秒でも早く離れたい。乱暴にお弁当箱や本をカバンにしまい込むと、私はそこから立ち上がった。
「午後の授業が始まるから急いで校舎に戻らなくては、ですよ。残念でしたね」
「そんなに恥ずかしがらなくても良いじゃないか、相変わらず可愛いなエナシアは」
この人は私の一体何を見て可愛いと思っているのか、そのお花畑が咲き誇る頭の中を誰か切り開いてはくれないものか。
学年が違って本当に良かった。しつこく教室まで付いて来た婚約者様をにこやかに見送ると、重力のままに腰を下ろしたい気持ちをぐっとこらえ、スカートの裾をおさえながらゆっくりと席についた。
「見たよーエナシアー、今日もラズフィル様とご一緒だったのね羨ましい」
「……私なんかに構わなくても、もっと他に可愛い女子なんてたくさんいるじゃない」
「そうよ! 可愛い女子なんてたくさんいる。なのにあなたが見初められたんだからそれって素晴らしいことじゃない!?」
素晴らしいものか。どうしてみんなあれに耐えられるのか、本当に不思議だ。
朝は自分で身支度を整え、乗合馬車に乗り登校する。
婚約者の訪問という名の妨害をかわしつつなんとか授業を終えても、結局は放課後婚約者とともに馬車に乗り、侯爵家へ向かう。子爵家の娘である私が侯爵家へ嫁ぐのだ。当然家格が見合わない。しかし嫁ぐためには勉強しなければならない。
そして侯爵家で夕食までいただいてから子爵家まで送ってもらい、泥のように眠りに就く。
これが、天恵の美男子と呼ばれるラズフィル=サビニエル様の婚約者である私の、一年半続いている日常。
***
私、エナシア=セラディーンは貴族学院高等部の二年生だ。家は子爵位。そして私は庶子。
母はセラディーン家の使用人だった。この時点でおわかりだろう、お手付きの末にできたのが私である。
お手付きで身ごもったとわかるや否や、母は邸から追い出された。せめてもの救いだったのは母の両親……私の祖父母がそんな母を受け入れ、生まれた私を愛情たっぷりに育ててくれたこと。
母は、街の商店を切り盛りする男性と再婚し、弟と妹を産んだ。母はいつも明るく笑っている人だけれど、苦労も多かっただろう。父が母と結婚してくれたことに心から感謝している。
茶髪揃いの中で、私だけが金髪。でも、金髪は染めれば良かったし、染めることについて母も父も何も言わなかった。
こんな日常が続いていくのだろうなと思っていたある日、突然セラディーン家の当主となった実父が現れたのだ。私が十四になろうという頃のことだった。
なんでも目に入れても痛くないほど可愛がっていらしたご長女様が真実の愛に目覚めたらしい。しかし婚約破棄の慰謝料として莫大な金額を請求された後、ご長女様は慰謝料を肩代わりしてくれるというご貴族様の後妻として嫁がされ、ご夫人はまだ幼いご長男様を連れて離縁しご実家へ。そこでようやく母を思い出したらしい。
私を見た第一声は『これは使える』。
そして私を引き取らせろ、さもなくばこんな小さな店潰して路頭に迷わせてやると両親を脅したのである。
母と父は反対してくれた。店が潰れてもこの街、この国を出て新しく商売を始めることはできるから、何も心配しなくて良い、と。
ふたりの気持ちはありがたかった。弟妹のことを考えたら、逃げた方が良いのではないかとも思った。でも……ただ権力に屈することは悔しかった。一矢報いたいと思ったのだ。
本当に欲に塗れた奴は美醜など問わないと言うが、私が見ても十二分に美しい母だ。その娘である私も利用価値は十分にあるのだろう。
だから、単身セラディーン家に乗り込むことにした。何かあれば、子爵を殺してでも帰ってくるからと両親を説得して。
こうして連れて行かれた夫人不在のセラディーン家には、子爵の母である先代の夫人がいた。先代夫人は私の顔を見て一つため息をつき、『申し訳ないけれど、それらしい振る舞いを身につけて頂戴』と言った。
先代の子爵に会うことはなかったが、おそらく先代夫人が子爵家唯一の良心だったように思う。
先代夫人の厳しい指導を受け、ようやく及第点をもらい、私は貴族学院に入学した。入学の年齢制限はないものの、ギリギリと言われる十五歳での入学だった。
学力と教養は別物。学力テストの結果、上のクラスに入れたのは良かったのか悪かったのか。クラスメイトは当然ながらみんな貴族。上位クラスには私のような庶子はいない。だいたいそういう子はテストで手を抜いて中位よりも下のクラスにするのだと後から知った。
……知っていたとしてもできなかっただろう。本来なら家庭教師を雇って詰め込むであろう知識を、お金がないからと全て先代夫人が根気よく――時に一冊の本のページを二人で覗き込んで必死になって勉強していたことを思ったら。とてもじゃないけれどそんなことしようなんて気にはなれなかった。
入学後、先代夫人には領地に帰ってもらった。私のためにかなり無理をさせてしまったし、のんびりして欲しかったから。
身支度は自分でどうにでもなる。朝食の準備も問題ない。
実父である子爵は社交と称して夜遅くまで出ており、昼まで起きてこない。ろくに顔を合わせることはないのだ。
最低限の掃除と、食料品の配達だけお願いをしている。それで成り立つ生活なのだ。
……支度金としてサビニエル家から渡された大金の行方は知らない。
とにかく、実父のためじゃない、先代夫人と自分のために、良い成績で卒業して、最低限の箔をつけよう。幸い女でも当主にはなれる。家を継いでから実父には報復をして、その後養子を迎えて次代に繋げば良い、そう思っていたのだ。
それが、偶然、廊下で出会したラズフィル=サビニエルのせいで狂ってしまった。
名前は知っていた。学園きっての美男子。侯爵家の次男で親衛隊もできている。
金髪碧眼で、見つめられると天にも昇るような気持ちになるのだと、まさに天使のようなお顔なのだと。
クラスメイトの噂話は耳に入っていたから、ああこれが、噂の美男子様、と遠くから眺めていると、目が合ったラズフィルにウインクされたのだ。
はあ、モテる方って息をするようにウインクをするのね、怖いわ、と思いながら視線を逸らし、方向転換したところで、「そこの君!!」と声がした。
……私じゃない、気のせいだろう。
足早にその場を去ろうとした私の手が、突然強く掴まれた。
「君だよ君!! 名前を教えて!」
「……恐れ多くて貴方様に名乗る名前などございません。この手をお離しください」
「僕のウインクを受けて見向きもしない女の子なんて初めてだ! 名前を教えて!!」
……なんということだろう。ここでウットリするのが正解だったのか。
「ラズフィル様ぁ……!」
ならばとそれらしくウットリした声を出して上目遣いをして見たが、ラズフィルは首を横に振った。
「違う違う、僕のウインクを見た女の子はみんな目がとろけたみたいになるんだ。君の目はギラギラしてる。こんな子は初めてなんだ! 名前を教えて!」
目がとろける!? さすがにそんなの知らないわ!
「お願いですから離してください」
「嫌だ!君の名前を聞くまで離さない!!」
どうにかしてこの手を離して欲しい、でも名前は教えたくない、と考えを巡らせていたところ、親衛隊の中から声が上がった。
「エナシア=セラディーン様でいらっしゃいますわ、ラズフィル様」
……ああ、終わった……。
名前を知られてしまった以上、ここで抵抗しても無駄だ。手を振り解くことを諦めると、逆に手を引かれ距離を詰められた。
「っ!?」
「エナシア嬢、いや、エナシア!君は実に面白い! 君こそ僕に相応しい!!」
「は!?」
不敬だろうが思い切り声が裏返ろうが知ったことではない。相応しいだなんて何を言っているのか。
「私など子爵家の庶子にすぎません。貴方様に相応しい方は他に必ずいらっしゃいます」
「子爵家だろうと庶子だろうと関係ない! 僕には君しかいないんだ!」
いや、他にいますよ、絶対に。
どうこの場をやり過ごそうか、と考え出したところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「ちっ、授業か……仕方ない。エナシア、僕は君を見つけたよ、もう離さないからね」
ラズフィルはそう言って私の手の甲に唇を落とし、颯爽と歩いて行った。私は猛ダッシュで手洗い場に行き、石鹸で丁寧に手を洗った。一度洗った後、二度洗い直した。
セラディーン家に帰ると、実父が呼んでいると家令が伝えてきた。
嫌な予感を抱えて子爵の執務室に行くと、上機嫌な実父と、急に呼び出されたのだろう、少し不安そうな先代夫人が待っていた。
「サビニエル家のラズフィル様に見初められたそうだな!!」
……もう情報が入っているのか……。
「婚約の打診があった! 断る理由などあるまい!! すぐにでも承諾の返事をするぞ」
「……お言葉ですが子爵様、ラズフィル様に私は不釣り合いかと思います、不敬であることは重々承知しておりますが、お断りを入れていただけませんでしょうか」
「断りなどするものかこの馬鹿者! まったくこれだから平民は」
その平民を家族にしようと連れてきたのは誰でしょうか。
「……ラズフィル様は何か勘違いしていらっしゃいます。侯爵家と子爵家の庶子が縁付くなどとんだ笑いものです。子爵様、どうかご賢明な判断を」
続く言葉は鋭い痛みに断ち切られた。
「黙れ!! これでようやく我が家も貧しい暮らしからおさらばだ。しかも、侯爵家と縁付くことができれば我々を下に見てきた奴らを見返せるんだ!! 絶対に取り入れよ! 愛想を尽かされるな! わかったな!!」
「……かしこまりました、子爵様」
次の日には婚約が結ばれ、私は一日で平民上がりの子爵家令嬢から、侯爵家令息の婚約者になってしまった。ちなみにラズフィルの婿入りではなく、侯爵家が持っている伯爵位をラズフィルが継ぎ、そこに私が嫁入りする。子どもが複数生まれたら、一人をセラディーン家の跡継ぎとするのだそうだ。
不思議なことに、私が婚約者になったことによる周囲からの僻みや嫌がらせは全くなかった。
ただし、羨ましい、代わって欲しいと言われた回数は数え切れない。代わってくれるなら代わって欲しい。それが私の本音だった。
務まるはずがないのだ。子爵家の当主になることだって難しいと思っていたのに、それが上位貴族の侯爵家に嫁ぐだなんて、土台無理に決まっていると思った。
不幸中の幸いだったのは、教育のためと侯爵家で暮らさせようとするラズフィルに対して、ラズフィルの母である侯爵夫人が否を突きつけたことだった。
ラズフィルいわく、私が庶子であることに難色を示したらしい。侯爵夫人がまともな感性をお持ちの方で安心したことをよく覚えている。
通いで教育を受けることになり、講義やレッスンの後はラズフィルとお茶をすることが定番となっていた。苦痛以外の何物でもなかった。このお茶の時間によって学んだ知識は全て無に帰してしまう。時間の無駄だった。
侯爵夫人とのレッスンの時だけはラズフィルとのお茶はなく、レッスン後に侯爵夫人といただくお茶が毎回大変おいしかった。お茶の種類からお茶菓子のメニューまで全ての回の内容をきちんと覚えている。たとえ小言だらけであろうとも、ちゃんと中身がある小言だったのだから。
「エナシアさん」
「はい、侯爵夫人」
「あなたは本当によく頑張っているわ」
今までかけてもらったことのない言葉を受けて、侯爵夫人の顔を見る。その表情には、慈愛と哀憫と……一言では表しきれない様々な思いが滲み出ていた。
「……とんでもないことです」
「もう少しで私から教えることもなくなります。懸命に学んでくれてありがとう」
「……はい、ありがとうございます」
――その二週間後が、侯爵夫人から受ける最後のレッスンとなった。
そしてその三日後に、私とラズフィルの運命を決定付ける、私のデビュタント、王家主催の舞踏会が開かれた。
***
デビュタントの日は早々に王城に行き身支度を整える。夜会本番までラズフィルに会うことなく過ごせることに心底ほっとしながら、王城の方々に身を任せる。
普段のドレスは一から十まで全てラズフィルの監修だが、デビュタントのドレスに関しては侯爵夫人が断固として口出しさせなかった。
ドレスのデザインや刺繍まで全て一緒に決めた。刺繍は『本当にこれで良いの?』と侯爵夫人は何度も確認してくれたけれど、私はこれが良いのだと言い切り、エナシアさんらしいと苦笑されたのだった。
アクセサリーは夫人がデビュタントの時に身に着けたものを使わせていただけることになり、セラディーン子爵は家にあるものより良いものだと喜んでいた。……平民の私だってわかる。それがいかに情けなくて恥ずべきことか。
身支度を終えた自分を鏡で見る。
「……こんなに綺麗になるものなのね」
自分で自分にびっくりだ。
いや、普段からドレスを着てめかし込んでいるけれど、着ているものに自分の意思があるかないかで、こんなに着た時の心持ちが変わるのか。
「頑張ろう」
国王陛下に直直にお目にかかる機会などこの先そうそうあるものではないだろう。
ましてや、誰かの妻としてではなく、私、エナシアとして見てもらう機会など、これが最初で最後に違いない。
長く息を吐くと、顔を上げて気持ちを切り替えた。
大丈夫、なるように、なる。
開式前の会場で。私と落ち合った婚約者は、自分が口出ししていない出立ちであることが大層不満そうな顔をしていたが、それでも可愛いとは口にした。
「……ありがとうございます、ラズフィル様」
「ようやく君もデビュタントだ。一人前に社交界デビューになる。僕の隣に婚約者として立てることを光栄に思ってもらいたいものだね」
「……畏れ多いことでございます」
目を合わせずにうつむく私を見て、ラズフィルが舌打ちをした。
「もっと堂々としてもらわないと困るんだよ、この僕に見初められたんだ。喜ばしいことだろう!?」
「……私には分不相応です」
そのまま窓の外に視線を逃がす私に、「そんな態度ができるのも今のうちだぞ」とラズフィルが吐き捨てた。
望むところだ。
ラズフィルは、なびかないわたしが物珍しかったのだろう。
しかしいつまで経っても頑なに心を開かない私に、対して、苛立ちを隠さないことが増えていた。ここ数ヶ月はついに、またちやほやしてくれる女性たちを侍らせ出していた。
――今からでも構わない。婚約などなくなってしまえば良い。
順番に招待客が入場していく。私は本来生家であるセラディーン子爵家に準じて最後の方に入ると思っていたが、なぜかサビニエル侯爵家に合わせて早めに入ることになった。入ると既に王族の方々が着座されていて落ち着かない……待ち時間が長い。
後から入ってきた実父が、先に入っていた私を見て怒りのような悔しさのような複雑な表情をしていたけど、私もなんでこうなったのか知らないし言われるがままに入っただけだ。そんな顔をされても困る。
開式時刻になり、国王陛下による開式の辞が述べられると、次にデビュタントが呼ばれ、ホールの中央に向かう。今回は私を入れて三名。一人は知っている顔だ。もう一人は初めて見る方だ。この国は就学義務がなく、お金がある家は学校には通わず家庭教師をつけて学ぶことも多いから、おそらくそっちだろう。
ファーストダンスは侯爵様と。
「私で良かったのかな?」
「私が侯爵様が良いとお願いしたのです」
「そうか、光栄だ」
侯爵様はラズフィルにお顔立ちは似ていらっしゃるが、髪の色が栗色に近く、目も茶色い。
ラズフィルは亡き先代侯爵様と同じ色なのだと言う。その話を聞いた時、気になって女性人気について尋ねたが、飛び抜けて人気があるとか、そういうことはなかったらしい。
本当にラズフィルは突然変異だったのか。
「今日まで本当に迷惑をかけたね」
侯爵様の言葉に対して首を横に振る。
「お世話にならなければこんなにも多くのことを学ぶことはできませんでした。本当に感謝しております」
「そうか、ありがとう」
その後、王族の方々も加わってのダンスタイムが始まった。
ラズフィルは私の相手もそこそこに、パートナーのいない他の花を品定めに行ってしまった。
私は侯爵夫妻とともに、高位貴族の方々にご挨拶をし、品定めをされ、軽食をつまみ、また挨拶をし、疲れが溜まってきたところで――事件は起きた。
「国王陛下! 僕の婚約者エナシア=セラディーンについて明らかにしていただきたいことがございます!」
「……なんだ、申してみよ」
「エナシアは僕に対して心にもない言葉を吐くのです。僕のことが好きで仕方がないくせに手を離せと言ってきたり、素直ではないのです。そこで、彼女の本心を本日ご参加の皆様のお立ち会いいただき、白日のもとに晒したく思うのです!」
「ラズフィル様、おやめください! 王家主催の舞踏会でこのようなことをしては不敬にあたります!」
「なに、君の本当の心をみんなに聞いてもらうだけだ。多少の不敬も僕が謝れば問題なしさ。ですよね、陛下?」
そう言ってラズフィルが国王陛下に対してウインクをすると、国王陛下の目から光が失われたように見えた。
「……良いだろう。して、方法は」
「真実の鏡を使わせていただきたく!」
その瞬間、舞踏会場が大きなざわめきに包まれた。
「真実の鏡だって……?」
「あれは裁判の時に使う魔道具だろう!?」
真実の鏡。それは世界三大魔道具師と言われるヨルムによって作られた、この王国が保有する最高の魔道具と言われている。同様の魔道具は各国にあるらしいけれど、まさか真実の鏡を使って私の本音を明らかにしようだなんて……!
「……許可しよう。真実の鏡を持って来い」
国王陛下の命令に、男性が数名、慌ただしく舞踏会場を出て行った。
「陛下……本当によろしいのですか?」
国王陛下の隣に座っていらっしゃる王妃殿下の声に動揺が感じられる。
「構わぬ、他ならぬラズフィル=サビニエル殿の可愛らしい願い事だ、叶えてやらなくてはな」
「国王陛下! 私は常にラズフィル様に対して本心しか申し上げておりません! 真実の鏡の使用など不要でございます! どうか撤回を!!」
国王陛下の前に出ようとすると、ラズフィルに左手をがっちりと掴まれる。
「本当に素直じゃないなぁ君は。初めて会った時に僕に見惚れない子なんて珍しいから面白いなと思ってたけど、いつまでもそのままだと腹が立つんだよね! その胸の内をみんなに見てもらって、僕が大好きだってみんなに知ってもらおうじゃないか!」
「やめてください、離して、離してよ……っ!!」
ホールを見渡すと、参加されている方々は私たちから距離を取り、こちらを好奇の目で見てはヒソヒソと話をしている。サビニエル侯爵夫妻は顔を青ざめさせているのが見えた。セラディーン子爵はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべている。
「お持ちいたしました、陛下」
フードを目深にかぶった男がトレイに乗せられた手鏡が運んできた。銀にたくさんの宝石がはめ込まれた、あれが真実の鏡……。
「あの者に持たせよ」
「御意」
鏡を持った男が近付いてくる。急いで逃げようとラズフィルの手を振りほどこうとするも、ついには羽交締めにされてしまった。
「ちょっ……! 嫌だ! 離して!!」
「離すものか。これで君の強がりも終わりだ。僕に侍る姿を見たくて仕方ないよ」
ぴたり。フードの男が私の目の前で立ち止まった。一瞬、男の顔が見える。その金色の目は、蔑むでもなく、憐れむでもなく、ただ静かに私を見ていた。
「……エナシア=セラディーン、真実の鏡を手に取れ」
魔法だろうか。手がひとりでに動いて、トレイの上の鏡を手に取ってしまう。
「……はっ、嫌っ……嫌ぁ」
『己の顔を見よ』
手がいうことをきかない……伏せられていた鏡をくるりと裏返し、そして、鏡の中の私と目が合った――。
『偽りなき真実を晒せ』
「……」
鏡の中の私の目に意識が吸い込まれる。気持ち悪い……気持ち悪いはずなのに、なんでか心地良い……。
「エナシア、君は本当のところ、どう思っているんだい? 僕、ラズフィル=サビニエルのことから教えて?」
口が勝手に動いた。
「……嫌いに決まってるだろうがこのキモナルシスト!!」
「き、キモ……!?」
私を拘束していたラズフィルの腕の力が抜けた。すかさず、 抜け出して、フードの男に駆け寄る。この人は敵ではない。さっき顔が見えた瞬間に直感でそう思ったからだ。
「なぁにがウインクして目がトロンとしなかった子は君が初めて、だぁこのクソが! その見た目だからセーフなだけで、そうじゃなかったらただの痛い(自主規制)野郎だわ!」
「なっ……!?」
「話しかけるな近付くなって何度も言ってんのに『恥ずかしがり屋だ』とか『素直じゃない」とかお前の頭は腐ってんのかっつーの! 第一見つかりたくなくて隠れてるのに魔導士から探知魔術を教わるとかマジで腐ってんな、まともなのは顔だけかよこの王子気取りが!!」
「お、王子気取り!?」
うわあ口が止まらない。流れるように言葉が出てくる。ラズフィルの顔がみるみる赤くなっていく。
あ、侯爵様の表情は無になった。探知魔術については知らなかったのか。
「勉強のためとか言って一緒に住まわされそうになったけど、侯爵夫人が止めてくれて本当に良かったわ! 平民だから貞操なんてガバガバだろうなんて、なしくずしに襲われてたらたまったもんじゃなかった、ほんと腐ってるんだわこのサイコナルシストが!」
「ふざけるなよエナシアぁっ!!」
目を釣り上げたラズフィルが私に殴りかかろうとしたところで、フードの男が静かに左手を上げた。
「君が望んだ真実の鏡の審問中だよ、大人しくしててね」
その言葉でラズフィルの動きが止まった。表情は美男子と呼ばれているのが嘘のように歪んでいる。これは、動きが封じられてる?
「身分が釣り合わない、そもそも私は庶子だっつってんのに欲まみれのクソ子爵もまるで聞きやしねえ、自分が子育てに失敗してるくせに、種を出しただけで育ててもいない赤の他人に挽回を任せるなんて、ご貴族様ってやつは本当にろくでもねえなあ!!? 引き取るだけ引き取って面倒は全然見ないこの種馬め! まともにあたしを見てくれたのは先代のセラディーン子爵夫人とサビニエル侯爵ご夫妻くらいなもんだわ! どうやったらあの素敵なご夫妻からこんな欲に腐った顔だけ野郎が生まれてくるのか神様に聞いてみたいね!!」
あれ、子爵についても文句出てきちゃった。子爵の方を見るとこちらも顔を真っ赤にしている。飛びかかってきそうな勢いだけど……あ、騎士団の人たちが取り囲んでるから平気か。
「だいたいお貴族様はご高貴な方々なんだろう!? あたしらが汗水流して働いた金なんだからパーティーするなとは言わねえがもっと有意義に使えよな!! どいつもこいつも欲欲欲! あたしが養子入りを断ったら家族がどうなっても良いのかって卑しく笑いながら脅してくるのが手前らのやることか! ウシに蹴られて肥溜めにでも落ちてみろクソどもが!!」
……舞踏会場はすっかり静かになっていた。
まだ言いたいことはあった気はするが、ようやく口の自由が戻ってきたし、まあ大方言えた気がするからもう良いだろう。
にっこり笑ってまわりをぐるりと見回すと、国王陛下の方を向きなおり、侯爵家仕込みのカーテシーを披露する。国王陛下の目には輝きが戻っていた。
「……というわけで、私が本当のところ思っていること、は以上でございます。ラズフィル様のことは、初めて学院の廊下で顔を合わせた時から、自分とは身分が違いすぎますし、仮に同等であったとしてもいけ好かないクソ野郎だと思っております。一瞬たりとも愛したことなどございません」
「……ありがとう、よくわかった」
***
ラズフィル不在のレッスンの日に、私は侯爵の執務室へ呼び出された。侯爵様にお会いすることは数えるほどしかなかったが、何故このご両親からあれが生まれるのか全く理解ができないと思うほどには、お優しい方だった。
『今まで愚息が本当に申し訳なかった』
サビニエル侯爵に頭を下げられ、一瞬頭が真っ白になった。
『え!? は!? 侯爵様、どうぞ頭をお上げください、平民ごときに頭を下げられることなどあってはいけません!』
『……妻から君が勉強熱心だったことは聞いている。大変だっただろう』
『私の身に余るほどの教育を施してくださったのは侯爵様と夫人です、感謝するのは私の方です』
『本当に、君が我が家の子であればどれだけ良かったか……』
頭を下げた私を見て、自嘲するように侯爵様がお笑いになり、その隣で夫人が痛々しげな顔をなさった。
『エナシア嬢、君とラズフィルの婚約はラズフィルの有責で破棄させる。長らく我が家の都合で君を振り回してしまい申し訳なかった』
『……ええと……破棄、ですか?』
『ああ、白紙ではない。我が家有責での破棄だ。そしてその後の君や、君の本当の家族の安全は保証しよう』
『……それはありがたいのですが、私には全く話が見えないのです。教えていただけませんでしょうか』
そこで初めて知ったのだ。ラズフィルが魅了体質――魅了持ちであり、家の管理下で経過観察扱いになっていたということを。
『魅了体質、ですか』
『魅了魔法はだいぶ昔に禁忌魔法になっているんだが、体質として人を魅了してしまう者は未だにいるんだ。ラズフィルは目を合わせることによって相手を魅了してしまうタイプの魅了持ちなのだよ』
『あ、だからあの時ウインクしても何の反応もしなかった私に興味を示したんですね』
『……ウインク……』
『顔面が良いからまだ許されるが、そうでなければただの気味が悪い男でしかないな……』
お二人がげんなりなさっている。いくら顔が整っていても、自分の息子が老若男女に手当たり次第ウインクをするところなどあまり想像したくはないだろう。
『魅了という通り、人を惑わす力だ、一歩間違えば取り返しのつかないことになる。本来ならラズフィルレベルの魅了持ちは魅了を封じる魔道具をつけて誰も魅了しないように対処するものなんだ。だがラズフィルは特例として、本人に自身の体質を説明した上で、自制の可否や精神性の成熟を見てから判断するということになった。
……しかしもてはやされることに慣れすぎて、都合が悪いことはすぐに忘れてしまう。その結果がこれだ。ラズフィルは更生の余地なしとみなされて研究施設へ送られることになった』
『研究施設、ですか』
『ああ。ファルマ・ヴィータの研究施設だ。ここは魅了持ちや執着持ちと言われる特殊体質の実態を解明する施設だと言われている。……経過観察だとは言われたが、人々を魅了することにあぐらをかいて悪行に走るだろうとは思われていただろう。ファルマは倫理など二の次。研究が最優先だからな』
研究施設送りと聞いても何も感じないのは、私が薄情なんだろうか。しかし侯爵夫妻の表情も心なしか晴れやかだ。……想像以上に振り回されていらしたのだろう。お気の毒に。
『ちなみに送られるのは、いつになるのでしょうか』
『四日後だ』
『四日後』
デビュタントの翌日。
『舞踏会で決定的なやらかしをさせる。それでラズフィルは終わりだ。その後のことは、全て君の望み通りにしよう』
***
この男は私が自分のことを好きだと周りに知らしめ、その上で『素直じゃないお前にはもう用はない』みたいなことを言って、私に追い縋らせるなり、婚約を無かったことにするなりしたかったんでしょうね。
残念だけどそんなことは絶対にない。神に誓って、ない。
「う、嘘だ! エナシアはここに来てまで嘘を言っています!!心にもないことを」
私が口の自由を取り戻したようにラズフィルも身体の自由を取り戻したのか、国王陛下の元へ縋るように向かおうとする。
するとそこに。
「へぇ、僕が作った真実の鏡が、欠陥品だって言うんだあ?」
子どものような口調で、あたしの隣にいたフードの男が呟いた。
「そ、そうだとも! こんな魔道具欠陥品だ! 国王陛下! 今度は自白剤を! そうすれば真実が明らかに」
「無用だ」
国王陛下は、ラズフィルの言葉をバッサリと斬り捨てた。
「そもそも真実の鏡を使えと言ったのは貴殿であろう」
「え!? は!? どうして僕のいうことを聞かないんだ!?」
うろたえるラズフィルを嘲るかのように、国王陛下が口の端を上げた。
「愚か者め。貴様が来るとわかっていて、我々が丸腰であるわけがなかろう」
騎士たちがラズフィルを捕らえるために動き出した。しかし陛下はそれを手で制する。
「第一、天才魔道具師と呼ばれる我が弟が作った魔道具だ、しかも裁きに使うためのもの、欠陥品であるわけがない」
ん? 我が弟??
ていうか、このフードの男が『僕が作った』って言ったわよね?
……え?
「うふふ、兄上ってば何もここでバラさなくても。もっとちゃんとした場所で僕がカッコよく見えるように発表してよぅ」
そう言いながら隣の男がフードを外す。青い髪に白金の瞳、そして体格に見合わない童顔。
ザワザワと舞踏会場のざわめきが大きくなる。
「王弟殿下だ……」
「確か今はセス女公爵のご夫君であらせられたはず」
周囲からヒソヒソと声が聞こえる。王弟殿下の方を見ると、パチリとウインクをされた。
あれ?同じ顔が良い男性でも、この人のウインクはなんだか嬉しい?
「仕方なかろう、イオルム」
国王陛下がため息を吐いた。
「お前の功績を一番効果がある形で披露するのに、今回はこれが良いと判断したのだ。……何度言っても都合よく忘れてお前を貶めようとする奴らがおるものでな」
「くそ!! 貴様のせいで!!」
先ほど魔法で動きを封じられたことを忘れたんだろうか、ラズフィルが王弟殿下に殴りかかった。
周囲から悲鳴が上がる。
「うんうん、威勢がいい子は好きなんだけどさー」
王弟殿下は軽くラズフィルの拳を避けると、逆にラズフィルの鳩尾に勢いよく拳を叩き込んだ。
「ケンカは子どもの時から負けたことないんだぁ」
ラズフィルがどさりと床に倒れ、苦しそうに腹を抱えている。
「君、やりすぎたよねえ。この国に僕がいるから特例として制限なく自由にできてたんだよ? ここまで増長するとはさすがにファルマも予想外だったみたいだけど、まあ顔が良くてちやほやされてたら全能だって錯覚しちゃう気持ちはわかるよ、気持ちはね」
「かっ…は……っ」
「はー、子どもならともかくここまで大きくなっちゃうと更生も矯正もやっぱ無理だよねー。ファルマに面白半分にデータ集めるのはそろそろやめてもらわないとなあ。僕も本気出さないといけなくなっちゃうなぁ……。
デゼル、いるでしょ?これ連れてって」
すると、一人の男性が何処からともなくあたしたちのそばに現れた。
「殿下、もう少し目立たないようにお願いしますよ」
「ええー? たまにはカッコいいとこリリスに見せないといけないじゃーん?」
「……ハイハイ、失礼しました」
デゼルと呼ばれた男性はラズフィルを抱えると、あっという間にどこかへ消えて行った。
あっという間の出来事すぎて、何が何だかよくわからない。今日の夜会で決定的なやらかしをさせるとは言ってたけど、どこまでが計画されたものだったのか。
ホールの真ん中で呆然と佇んでいると、ラズフィルを伸した王弟殿下が近付いてきた。我に返り姿勢を正す。
「王弟殿下。この度はありがとうございました」
「真実の鏡、良い仕事するでしょう? 自白魔法は禁忌だからね、魔法使いが不在でも使える合法ギリギリのラインを攻めたら、思ってることを全部吐き出させる魔道具になったんだ。拷問魔道具だともう少し過激なヤツもあるけど、今回はこれくらいがちょうど良いよね」
「……はあ」
王弟殿下がパチリと指を鳴らすと、次の瞬間にはフードが消え、正装姿に変わっていた。
「今まで理不尽な思いをたくさんさせてしまってごめんね。国王陛下は臣民のことを深く想っていらっしゃる方だから、どうか全部の貴族を一緒くたにせずに見てもらえると嬉しいな」
そう言うと、王弟殿下は跪いてあたしの手を取った。目がうっすらと輝いている気がする。
「気高き淑女に敬意を。貴女や貴女を愛するすべての人に幸せがありますように」
そして、手の甲に柔らかくて冷たいものが触れた。それが何かわかった瞬間、顔がぼばっと熱くなる。
「へっ!!?」
王弟殿下は立ち上がると、こちらににこりと微笑みかけた。
「ふふ、僕には愛する半身と子どもたちがいるからねぇ、惚れたらダメだよ?」
「惚れませんよ!!」
「うんうん、その意気だ。君の活躍、楽しみにしてるよ、エナシア=サビニエル殿?」
「……!?」
そのままくるりと踵を返すと、ホール中央、王妃殿下のそばにいる黒髪の女性の隣まで歩いて行った。あれが、セス女公爵だろう。公爵の言葉を聞いて王弟殿下が嬉しそうに笑っている。
……そういえば、王弟であるイオルム殿下とその伴侶であるリリス=セス様は運命のお相手同士で、大恋愛の末に結婚なさったと聞いたことがある。
「大恋愛って言っても、色々あったんだろうなあ……」
「エナシア嬢」
王弟殿下ご夫妻を眺めていると、サビニエル侯爵に声をかけられた。
「侯爵様、この度はありがとうございました」
「いいや、お礼を言うのはこちらの方だ。ありがとう、エナシア嬢」
「あの、父は」
「騎士に連れて行かれた。君のご家族を脅したことを罪に問われることになるだろう。母君を襲ったことまで遡れるかは、まだなんとも言えない」
「そうですか。それで構いません」
「ご家族に会いたいかもしれないが、もうしばらくは王都に留まってもらうことになるだろう」
「はい。両親や兄弟が無事であれば、それで」
「これからについては、少し時間を置いて話し合おう。君の望みについても」
「はい。ありがとうございます」
「ごめんなさいねエナシアさん、元凶が我が家なものだから、どうしてもそちらの対応を優先しなければならなくて」
「とんでもないことです、夫人。お気遣いいただけるだけで、十分です」
「早く君の望みを叶えられるよう、最善を尽くすよ」
「はい、よろしくお願いします」
***
……侯爵家の執務室で、望みを叶えると言ってくださった時、私は尋ねた。
『侯爵様、夫人、お伺いしたいことがございます。先ほど、「本当に、君が我が家の子であればどれだけ良かったか」と言ってくださったのは、ご本心でしょうか?』
『……何だって?』
『もし、心からのお言葉なのであれば、私があの男に代わってこの家に尽くしたいと思います』
学ぶことがすっかり楽しくなっていたのだ。難しい問題を解く喜びを知り、講師の先生に質問をぶつけ意見を戦わせる楽しさを知った。実家の商店が楽しくないわけじゃない。でも、この楽しさは、上の階級でこそ味わえるものなのだと気がついた。
子爵家すら継ぐのは無理だと思っていた私はどこかへ行ってしまった。まだここにいたい。上を目指してみたい。そう思っての、希望だった。
……そのはずなのだが、結果として私はサビニエル侯爵のご長男、グレイリオ様と婚約を結んだ。
グレイリオ様は今回のラズフィルが起こした事件によって、結婚間近だった婚約を解消されてしまったのだ。
破棄でなく解消だったのは、お相手方のご厚意によるもので、本当にこの家でクズ野郎だったのはラズフィルひとりだったのだなと感じたのだった。
このお相手の方は、王家の紹介で外国に嫁いで行かれた。語学に堪能で、留学なさったことがあるそうなので、むしろ良い結果に転んだらしい。
「……サビニエル家の養子にしていただいて、あのクソ種馬からふんだくったスズメの涙にも満たない賠償金を元手に殖やしながら留学でもしようかと思っていたのですが」
侯爵家のサロンで、ご長男であるグレイリオ様と向き合う。
「父も母も君を気に入っているからね。それにこの家と新たに縁を結んでくれる家なんて当分現れないだろう。君も両親のことは嫌いでないと思っているのだけれど、どうだろう」
「そうですね。あのご自愛野郎からさりげなく守っていただきましたし、大変感謝しています」
そう答えると、グレイリオ様がクスクスとお笑いになった。
「新聞で読んだけど、本当にそんな言葉遣いで思いの丈を吐き出したんだね。参加していた人からも全然止まらなかったって聞いたよ」
「……お気に召さないようであれば、今からでも婚約は撤回していただいて構いませんよ?」
「いいや。君はどうだかわからないけれど、僕は存外君を好ましく思っているらしい。これから少しずつ、積み重ねていきたいと思う」
「そう、ですか。ではよろしくお願いします」
こうして私は侯爵夫人となり、グレイリオ様との間に一男二女をもうけた。
種馬クソオヤジの子爵家は取り潰しになった。
先代の子爵夫人のその後については良いように計らってくださるよう強くお願いをした。先代夫人が私に勉強を教えてくれなければ、この未来はなかったから。
その結果、目に見える場所なら一番安心だろう、とサビニエル家で雇っていただけることになり、再会した時にはお互いに涙を流して抱き合った。とてもなんて言葉では言い表せないほどに、感謝していた。間違いなく、恩人のひとりだ。
セラディーン家について私がお願いしたのは夫人のこと、その一点。他は心底どうでも良かったのでお任せした。子爵の刑罰は労役らしいが、鉱山だろうが離島だろうがどこでも良い。
結局顔を合わせることのなかった先代の子爵も知ったことではない。
家族たちはなんの影響もなく今も商店を続けている。ただ、王弟殿下が買い物に来たとかで大騒ぎになったらしい。……イオルム殿下、何やってるんですか……。
グレイリオ様が継いでからのサビニエル家に向けられる目もかなり厳しいものだったけれど、ありがたいことに王弟殿下が何かとちょっかい……いや、気にかけてくださり、またセス女公爵も懇意にしてくださった。もちろん、私もグレイリオ様も死に物狂いで頑張った。
その甲斐あって、子どもたちの代に引き継ぐときには、元通りとはいかないにせよ、かなり良いところまで信用を取り戻せたのではないかと思う。
そういえばあの男に探知魔術を教えた顧問魔術師も魅了にかかっていたらしい。禁忌魔法である魅了にかかってみたいと、わざとガードを解いたのだとか。アホか。
これはイオルム殿下に愚痴った時、『ああ……うん、かかってみたい気持ちはわかるよ、気持ちはね』と笑っていた。わかりたくもない。頼むから共感しないで欲しい。
***
「なかなか大変な人生でしたけれど、言うほど悪くもなかったと思うんですよ」
晩年、グレイリオ様と二人、領地の邸で紅茶を手にのんびりと庭を見ながら語り合う。私は紅茶を淹れる腕はあまり上達しなかったが、グレイリオ様が義母仕込みの技術でいつも上手に紅茶を淹れてくれていた。子どもたちも全員うまく淹れられるようになって、おかげで私はいつでもおいしい紅茶をいただける。
「そうだね。確かに大変ではあったな。でも、総じて見れば、悪いものではなかった。君がいてくれたからね」
「……はい。お義父様やお義母様にはたくさんご迷惑をおかけしました」
「はは、誰かに比べたら全然可愛らしいものだったと思うよ。それに娘がいなかったからね。君がいてくれて嬉しかったんじゃないかな」
「お二人とも、穏やかな気持ちで見守ってくださっていれば良いなと思います」
大変。大変ではあった。でも、悪くはなかった。
ちゃんと私の言葉を聞いて、時にぶつかり合い、時に一緒に悩んでくれるあなたがいたから。
「後はもう、のんびりしましょう、グレイリオ様」
「そうだね、エナシア」
《おまけ》
結婚後しばらくして、セス公爵夫妻に以前から気になっていたことを聞いてみた。
『なぜ私たちをそんなに気にかけてくださるのか』と。
『ああ、それはねぇ……ふふふ』
イオルム殿下が笑っている隣で、女公爵であるリリス様が少し恥ずかしそうに続けた。
『デビュタントで本音を際限なくぶちまけるエナシアが、わたくしに似ていたからだそうよ』
『……え?あれが?』
『リリスは怒ると本当に怖くてねぇ……夜会で啖呵を切ったことも一度二度じゃないんだよ。僕も殺されそうになったこと、あるしねぇ』
『殺されそう、ではなく、殺そうとしたのですよ、イオルム』
『……え!?』
『ふふふ。あ、本当なら鏡を運ぶのも僕の役割じゃ無かったんだ。だけどデビュタントドレスの刺繍を見て、僕が出ることにしたの』
『刺繍?あ……』
私がどうしてもと言って刺繍する守護獣に選んだのは、尾にも頭を持つ双頭の蛇。
そしてイオルム殿下は、魔法を使う時や感情が昂った時に眼が蛇の眼のように見えることから蛇殿下と呼ばれている――。
『蛇を刺繍する子は少ないんだ。だからリリスが見つけてくれて嬉しくなっちゃってね。だから祝福もしちゃったし』
『祝福?』
『ああ、ごめんこっちのこと。頑張ってね、って応援したくなったんだ』
「……グレイリオ様、イオルム殿下とリリス様って魔法使いとか美魔女とか何かなんでしょうか?どうしてあんなに歳を取らないんでしょう」
「……それはたぶん、知らない方が幸せなんじゃないかなあ……」
お読みくださりありがとうございました。
後半に出てきた王弟イオルムとその妻リリスの物語もありますので、ぜひこちらもお読みいただけると嬉しいです。王子と王子妃時代の話「お前より運命だ」と、更に遡った婚約者時代の話「君のために僕は人を捨てた」があります。どちらも長編ですので、涼しいお部屋での時間潰しにぜひ。
お薦めの順番は「お前より運命だ(おまうめ)」⇒「君のために僕は人を捨てた(きみすて)」です!きみすてを読んだ後におまうめ第二部を読み返すとさらに美味しい作りになっています(たぶん)