下編 別れと新しい生活の始まり
年が明けて1月、受験勉強の追い込み期である。共通テストまでもう少しだが、もう一つの大事な日までのカウントダウンも始まっている。
「お姉ちゃんが欲しいもの?」
この日、いつものように桜さんと一緒に登校している際に紅葉さんへのプレゼントには何か相応しいか聞いてみた。そう1月20日は紅葉さんの誕生日なのだ。
「う~ん、難しいな~。お姉ちゃんは何かを貰うよりも、何かを捨てて部屋を整理することに喜びを感じる人だからな~。むしろ物が増えるって怒り出すかも。」
「そうだよね~。しかも以前、お金をかけて高いものを買ったら激怒されたことがあったし・・・。」
「ああ、コーヒー豆の時の話だね。あの時はお店に連れてったわたしも何で止めなかったのかって怒られたぐらいだから・・・。」
その節はうちの紅葉がご迷惑をおかけしてすみません。
「じゃあなにか美味しいものでも作ってあげたら?それが一番喜ぶと思うよ。」
「うん、当日は紅葉さんの好物を作るつもりなんだけど、せっかくの誕生日だし何か特別なプレゼントも用意したいなって・・・。」
「う~ん、そうか~。特別なもので、あんまりお金がかからないものか・・・。あっ、そうだ!お姉ちゃん、アップルパイが好きだから焼いてあげたら?」
「へ~、そうなんだ・・・。でもアップルパイなんか焼いたことないし、オーブンもないからな~。」
「焼き方は、わたしが教えてあげるよ。オーブンは母屋にあるからそれを貸してあげる。内緒で焼いてあげたらお姉ちゃんも驚くよ!」
桜さんのいたずらっぽい表情を見ていると、名案に思えてきた。材料費もプレゼントに比べれば安く収まるだろうし、きっと喜んでもらえるぞ!
1月20日、今日は紅葉さんの誕生日である。今日の献立は紅葉さんの好物ばかりを用意した。
・白いご飯
・マグロのぬた
・たことわかめの酢の物
・アスパラとトマトとブロッコリーのチーズ焼き
・ベーコンポテトサラダ
・かぼちゃの南京煮
・茗荷のみそ汁
誕生日には地味過ぎるメニューだが、紅葉さんの好物オールスターで打線を組んでみた。
「今日のご飯はおいしそうね。」
珍しく紅葉さんが言葉にしてご飯を褒めてくれた。口角も上がっている。これは幸先がいい。
「食べ終わったらデザートも用意してますからね。」
きっと驚くぞ。今から楽しみだ。
食事も終わり、食卓の上を片付け終わると、いよいよデザートの時間。
「お誕生日おめでとうございます。これは僕からのプレゼントです。」
「えっ!アップルパイじゃないの?えっ?わたしが好きなの知ってたの?」
「はい、桜さんに聞きました。」
「ありがとう。本当にうれしい・・・。」
ああ、紅葉さんに言葉でお礼を言われたのって、もしかして初めてかもしれない。しかも普段表情に出さない紅葉さんがあんなに嬉しそうにして・・・。作ってよかった・・・。
「喜んでもらえてうれしいです。母屋でオーブンを借りて作ったんですけど、実はアップルパイ焼くの初めてで色々失敗しちゃって、買い出しも合わせると一日がかりでやっと満足のいくパイが焼けたんですよ。」
その瞬間、紅葉さんの口角が下がり、眉がぴくっと動いた。
「はっ?どういうこと?君が一日がかりで焼いたって?」
あっ、しまった。何か間違えたかも。材料にお金をかけすぎたと誤解されてるのかな?
「いや、材料は買いましたけど、2000円くらいに収まってますよ。」
「ちがう!君は受験生でしょ!共通テストも近いのに一日がかりでアップルパイ焼くってどういうつもりなの!」
紅葉さんの目が吊り上がり真っ赤になっている。
「いや、一日くらいは・・・。それに僕はお金もないですし、紅葉さんに喜んでもらうためには時間と手間をかけるくらいしかできなくて・・・。」
「わたしがいつ、わたしのために時間を使ってくれって言った?君は自分の将来のために時間を使うべきよ。こんなことしてもらって嬉しくない!」
どうしてこの人には僕の気持ちが伝わらないんだろう・・・。
どうしていつも文句ばかりなんだろう・・・?
そう思った瞬間、頭に血が上ってしまった。
「いつも、いつもそう!紅葉さんはプレゼントしても、頑張ってパイを作っても感謝するどころか文句ばかりつけてくる。僕がどんな気持ちでパイを焼いたか考えたことないでしょ!」
「あなたは自分のことだけ考えていればいい!今、自分がどんな岐路にいるか自覚しているの?わたしのことなんか考えてくれなんて頼んでない!もうこんなことやめて!」
そういうと紅葉さんは立ち上がり、寝室へ入ってしまった。襖が勢いよく閉められたせいか、少し桟から外れてしまっている。
「あ~あ・・・。」
誕生日なのに言ってしまった。でも今日ばかりは紅葉さんが悪い。紅葉さんが謝ってくるまで絶対に許さない!
そう思いながら皿に残されたアップルパイにラップをかけて、冷蔵庫にしまった。
しかし、次の日も、その次の日も紅葉さんは謝ってこなかった。それどころか必要最低限の会話しかしなくなった。最近、少し表情豊かになったかなと思っていたのに、また元の無表情に戻ってしまった。心を開いてくれていると思ったのは錯覚だったのかな?
紅葉さんとの関係は悪化してしまったが、大学入試も迫っていたので、それを気にしている暇はなかった。紅葉さんと顔を会わせるのが気まずくて、ずっと勉強部屋に籠っていたのがよかったのか、追い込みに集中できた。
そして3月末になり、僕は無事に第一志望である東大の文Ⅰに合格した。紅葉さんにも報告したが無表情で「わかったわ」と一言言ってくれただけだった。
「おにいちゃん、お父さんが呼んでるよ!きっと合格祝いの話じゃない?」
合格発表から数日後、桜さんがはなれに僕を呼びに来た。
「わかった~。じゃあ紅葉さん、母屋に行ってきますね。」
紅葉さんを振り返って声を掛けると、意外にも紅葉さんは微笑んでいた。紅葉さんの微笑みをまともに見るのは初めてかもしれない。あんな泣きそうな顔みたいに微笑むんだ・・・。
母屋の客間に行くと、八乙女大造先生が既に座布団に座って待っていて、僕を向かいに敷かれた座布団に座るよう促した。桜さんも僕に続いて部屋に入り、隅の方に腰を下ろした。
僕が座布団に座り頭を下げると、さっそく頭の上から大造先生の大声が降ってきた。
「東大の文Ⅰに合格したそうじゃないか!しかもここ1年の暮らしぶりを見てきたが、極めて質実剛健で勤勉だった。さすが俺が見込んだだけのことはある!期待以上だ!」
「ありがとうございます。」
大造先生の大声を聞きながら、ああ、そういえば婚姻届を書いたのも1年前のこの部屋だったな・・・と頭の片隅で感慨にふけっていたが、次の大造先生の一声で思考が停止してしまった。
「どうだ!俺の息子になって八乙女姓にならないか?」
「???」
どういうことだろう。もう紅葉さんと結婚しているし、戸籍上は婿養子に入っているから八乙女姓のはずだが・・・。
「お父さん、説明を端折りすぎ!ちゃんと説明してあげないとわからないよ。」
部屋の端に座った桜さんが助け舟を出してくれた。
「おお、そうだった。これを見ろ。」
そう言って大造先生が手元の封筒から出した書類は、見覚えのある緑色で縁取られた書類だった。
「これは・・・。」
「去年、お前に書いてもらった婚姻届だ!」
「なぜここに?提出しなかったんですか?」
思わず婚姻届と大造先生を交互に見ていると、大造先生はガハハと笑いだした。
「いくら友人の息子とはいえ、海のものとも山のものともわからないお前と大事な娘をいきなり結婚させるわけないだろう。婚姻届を書かせて提出せずに手元で預かっておいたんだ。もしお前に見どころがあれば、そのまま1年遅れで婚姻届を提出し、見どころがなければこれを破ってこの家から追い出すつもりでな。」
そう言って、大造先生はその婚姻届をビリビリと引き裂いた。
「あ、それはつまり僕に見どころがなかったということでしょうか・・・?」
「いや、違う。お前は俺の期待を超えたんだ。約束どおり結果を出したのはもちろんだが、この1年の質素で、堅実で勤勉な生活は我が家の家風に合う。その姿勢ならきっと大成するだろう。だから紅葉なんかと結婚させるのはもったいない。改めて俺の養子になれ。」
「あ・・・養子ですか・・・。紅葉さんと結婚ではなくて・・・。」
「紅葉はお前より10歳も年上だろう。先のことを考えたらもっと若い相手と結婚した方がいい。そうだ!お前なら桜でもいいぞ。養子になるか、桜と結婚するか選ばせてやる。ゆっくり考えるといい。ガッハッハ・・・。」
そう言って大造先生は立ち上がり奥の部屋へ行ってしまった。
「ふふっ、よかったね。わたしのおにいちゃんになるか、だんな様になるか・・・なるべく早く決断してね。うふふっ。」
桜さんもそう言い残して部屋から去って行った。
独り客間に残された僕は呆然として座り込むしかなかった。
ズッ、ズッ・・・。
その時、廊下から聞きなれた、ひきずるような足音がした。急いで廊下に出ると、そこには玄関に向かってゆっくり歩く紅葉さんがいた。
「待ってください紅葉さん・・・今の話を聞いて・・・いや、もともと知ってたんですね。」
紅葉さんは振り向き、こくりとうなずいた。
「いつもお金の無駄遣いをたしなめてくれたり、自分のことだけを考えて時間を使えと言ってくれたのは、僕が大造先生に見どころがないと見限られて家を追い出されることないよう、戒めてくれてたんですね・・・?」
紅葉さんは僕の質問には答えず、代わりについっと目を伏せた。
「あの、紅葉さんとの生活楽しかったです。これまでの人生でこんな平穏で落ち着いたことはなくて、ずっとこんな日が続けばいいと思っていました。」
「・・・・・・。」
紅葉さんは何も言わなかった。代わりにさっき見せた泣き顔のような微笑を一瞬見せ、そのまま向こうを向いて歩き去ろうとした。あれは惜別の微笑?いや、本当に泣いているのかもしれない。
だったら今言うしかない。僕の本当の気持ちを・・・!
「もしよければ・・・僕と結婚してもらえないでしょうか?」
「は?こんなときに冗談?」
足を止め、振り返った紅葉さんの眉毛がピクリと吊り上がった。
「いえ、違うんです。本気なんです。本心からそうしたいんです。」
「わたしのことは考えなくていい、自分のことだけを考えなさいって言ってきたわよね。あなたの幸せを考えたら、わたしじゃなくて桜と結婚する方がいいに決まってる!だから、冗談でもこんなことを二度と言わないで。」
紅葉さんはそのまま踵を返し、玄関に向かって歩き出した。僕はその背中に向かってあらん限りの勇気と声を振り絞った。
「いいえ。これは僕のことだけを考えたわがままです。何度でも言わせていただきます。僕は、これまで母親と一緒に暮らしたことがなくて、紅葉さんと一緒に暮らしていて母親がいる家庭ってこんな風に温かいのかなって思ってました。紅葉さんと一緒にそんな温かい家庭を築きたいんです。紅葉さん以外に考えられません。よろしくお願いします。」
向こうを向いた紅葉さんの表情が見えないので、怒っているのか喜んでいるのかわからない。そのまま紅葉さんは何も言わず、永遠かと思える時間が流れた。
「・・・・・一つだけ許せないことがある。」
「な、なんでしょうか?」
向こうを向いたままの紅葉さんの口調は無機質なままだ。
「わたしは、あなたよりも10歳しか年上じゃないのよ。母親になってくれってなに?あなたは奥さんじゃなくて母親が欲しいの?」
「違うんです!僕の母親になって欲しいわけじゃなくて、僕と一緒に、僕が父親、紅葉さんが母親になる温かい家庭を築いて欲しいって言う意味で・・・。」
そのとき紅葉さんが僕の方へ振り返った。その顔はいつものように無表情だったが、口角が少し上がっているように見えた。それに・・・。
「いいわよ・・・。だけど・・・」
「え・・・?」
「だけど、ちゃんと大学を卒業してからね・・・。わたしが母親になるのは・・・。それまではもう少し二人だけで一緒に・・・。」
その時の紅葉さんの耳まで真っ赤になって照れた様子は、その後、本当に父親になった今でも鮮明に思い出せるくらい印象的だった。