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中編 結婚生活

「ふふっ、おはよう。おにい~ちゃん!今日からよろしくね。」


始業式の日、身支度を整え、登校する前に挨拶しておこうと母屋に行くと、玄関で八乙女桜さんが待っていた。


「あっ、おはようございます。八乙女さん。」

「ふふっ、おにいちゃんも八乙女でしょ。桜でいいよ。一緒に学校行こっ!」


ああ、桜さんと一緒に登校できるなんてこんな幸せな日が来るとは・・・。

しかし、もはや桜さんは僕の妹になってしまった。あんなに憧れていたのに、最も遠い存在になってしまった・・・。

僕が喜びと絶望の両方を味わっているのを横目に、桜さんは靴を履いて「いってきま~す。」と言って飛び出していったため、僕は慌てて追いかけ、学校までの道を並んで歩いた。


「お姉ちゃんとの暮らしはどう?」

「いや、まだ、なんというか、夫婦らしいことはまったく・・・。」

「ふふっ、お姉ちゃん真面目だもんね。じゃあ、あの話もまだ聞かされてないでしょ。知らないまま学校に着くと驚いちゃうから、わたしから教えてあげるね。実は・・・。」


★★


「それでは、この3年1組の担任になります、八乙女紅葉です。これから一年間よろしくお願いします。」


朝、桜さんが教えてくれたこと、それはクラス分けで僕が配属されるクラスの担任が紅葉さんであるという事実だった。結婚する前から、僕が通う公立高校に新しく赴任し僕の担任となることは決まっていたらしい。


桜さんの話によれば、担任となる紅葉さんと生徒である僕が、始業式の前日に突然結婚したことは学校側に混乱をもたらし一悶着あったらしいが、そこは大物政治家である八乙女大造先生の政治力が勝り、結婚していることを秘密にすることと、僕が学校では田中姓を使うことを条件に承諾されたらしい。だからクラスでは、僕は馴染み深い名前である田中幸太郎として自己紹介した。

いや、普通じゃないな、これ。


★★


その日の夕食は19時ぴったりに始まった。紅葉さんと二人だけで。


今日の献立

・白いご飯

・サラダチキン(コンビニかスーパーで買った?)

・茹でたブロッコリー(茹でただけ)

・プチトマト(そのまま)

・みそインスタント

以上。


なるほど、栄養バランスがとれていれば内容にはあまりこだわらないタイプか・・・。

ボディビルダーみたいな献立だ。


この献立を黙々と二人で食べる。献立はともかく沈黙が辛い。何か会話の種はないかな・・・。


「今日、学校の方はどうでしたか・・・?」

「同じ学校でしょ。」

「そうでした・・・。」

わ~、いきなりぶった切られた・・・。


「・・・・・・そういえば、いくつか注意事項があるわ。」

沈黙の中で箸を動かし続けていた紅葉さんが、箸をおいてぽつりとつぶやいた。


「はい!なんでしょうか?」

僕も箸と茶碗を置いて、正座に座り直した。


「まず、君の担任になること、これは、担任であるわたしは昨日の時点で知っていたけど、立場上教えることはできなかった。ここは理解して欲しい。」

「はい。まあ、桜さんから事前に聞いてしまいましたけど。」

「あと、桜からも聞いていると思うけど、結婚していることは絶対に秘密にしなさい。」

「はい。それはもちろんです。」

「それから、結婚しているとはいえ、わたしと君は教師と生徒。だから・・・・その・・・あの、夫婦の営み的なものも・・・、その卒業するまではなしということで、いい?」


それを聞いた時、僕はどっと力が抜けた。そうか、少なくとも1年間は好きでもない人とそういうことをしなくていいんだ。1年間だけの猶予だけど肩の荷が降りた気がする。


「はい!もちろんです。」

「よろしい。また、外でわたしに会っても話しかけないで。変な疑いを受けてもよくないでしょ。」

「はい。わかりました。」

なるほど、きちんと公私のけじめをつける真面目な人なんだな。それだったらむしろやりやすい。

「じゃあ、この話は終わり。」


用件だけで会話が終わってしまった・・・。じゃあ、ついでに僕からもお願いしてみよう。


「あの・・・僕からもよろしいでしょうか?」

「どうぞ。」


紅葉さんは、いったん持った箸を置いてこちらを見つめてきた。無表情だが、その眼鏡の奥からの鋭い視線、緊張するな~。


「今日作ってくれたご飯は、とてもおいしく、栄養バランスもとれていたと思います。ありがとうございました。」

「いえ、どういたしまして。ブロッコリーならおかわりあるわよ。」

「十分です。それで、明日からは、僕にご飯を作らせていただけないでしょうか。」

「・・・・・・・。」

うわ~、細い目でじっと見つめて来て怖い。機嫌を損ねちゃったかな・・・。


「あっ、いえ決して今日のご飯に不満があったわけではなく、実は僕は父と暮らしている時も、叔父と暮らしている時もずっと炊事を担当してまして・・・。」

「・・・・・。」

「何も家事をしないのはかえって落ち着きませんし、料理や後片付けぐらいさせてもらえると、かえって気が楽というか・・・、その・・・。」

「勉強には影響ないの?」

「はい。むしろよい気分転換になりますし、ぜひ・・・。」

「・・・・・・わかったわ。じゃあ、1か月の食費として5万円渡すからその中でやりくりしてちょうだい。足りなくても追加はしないわよ。あまったらお小遣いにしてもいいわ。だけど、家計簿はつけてね。」

「あっ、ありがとうございます!」


やった!受け入れてもらえた。これで明日からはもう少しマシなものが食べられる。

なお、特にその後も会話はなく、夕食の時間は沈黙のまま終わった。


★★★★★


次の日から、朝食と夕食、そして2人分のお弁当の準備は僕が担当することになった。


レパートリーを一通り試したところ、紅葉さんはキュウリやセロリが苦手で、チーズやマグロや茗荷が好きであることがわかった。野菜の中ではブロッコリーとトマトを好むらしい。

紅葉さんは、食べ物の好き嫌いを言葉にしないので苦労したが、好きな献立と嫌いな献立で口角の角度や眉の動きが微妙に変わることを発見し、ようやく解読できた。


紅葉さんとの生活にも慣れてきた。慣れてしまえば、父や叔父と二人で暮らしていたときとそう変わらない。むしろお金の悩みがなくなり、受験勉強に集中できるのはありがたい。


結婚も悪いことばかりじゃない。

そう思い始めていたところ、油断していたことへの罰なのか事件は起こった。


ドサッ、バサ~。 


戸棚の食品ストックを整理していたのだが、僕の手が当たって、紅葉さんが特別な時にだけ飲むコーヒー豆の袋を流し台に落としてしまった。しかも、中身がこぼれ、半分くらいが流し台の排水溝に落ちてしまっている。


「ちょっと!何をしているの!」

「あっ、いや、これは・・・。」

「しょうがないわね。掃除しておきなさい。」


紅葉さんは、コーヒーの袋とこぼれた豆を一瞥すると、くるりと振り返り、居間へ帰って行った。紅葉さんの声は特に感情もこもっておらず無機質だったが、僕にはわかっていた。あれは怒っている。どうしよう・・・。


「・・・ということがあって、紅葉さんが大切にしているコーヒー豆を買いたいんだけど、どこで買えるか知ってる?」

次の日、一緒に登校する道すがら、僕は桜さんに聞いてみた。


「お姉ちゃんが特別の時にだけひいて飲むコーヒー豆って、コピ・ルアクでしょ。日本ではほとんど手に入らないけど、隣の駅の輸入コーヒーの専門店でなら買えるかもよ。よかったら学校終わったら案内しようか?」

「ありがとう!助かる~。」


これで紅葉さんの怒りが収まるといいな。それに桜さんと一緒に買い物なんてまるでデートみたい・・・。いかんいかん、桜さんは妹だ。


「でも、あのコーヒー豆結構高いんだよ。働いているお姉ちゃんもめったに買えないみたいで。」

「う~ん、そこは何とかするよ・・・。」


それよりも紅葉さんの怒りを鎮めることの方が大事だ。そう思い、僕はなけなしの貯金をはたき、桜さんに案内してもらったコーヒー専門店でその豆を買った。きっとこれで紅葉さんも機嫌を直してくれるに違いない・・・。


「紅葉さん、今日はケーキを買ってみました。食費にだいぶ余裕がありましたので・・・。」

「ケーキ・・・?」

相変わらず紅葉さんは無表情なままだが、口角が少し上がったのを見逃さなかったぞ!

よしよし、このケーキとともに、買って来た特別なコーヒー豆を渡して機嫌を直してもらおう。


「はい、それからこれ・・・あの、昨日僕がうっかり落として豆をこぼしてしまったので、買ってきました・・・。」


よっし、これで紅葉さんの口角も上がり・・・、いや全然上がってない。むしろ機嫌が悪い時に見せる眉をピクリと動かす挙動が見える。


「・・・・これ高かったでしょ?お金はどうしたの?」

「あっ、食費には手をつけてませんよ。父が残してくれた貯金があるのでそこから・・・。」

「ちょっと!お父様が残してくれたなけなしの貯金をこんなことに・・・?いらない。わたしは受け取らないから返してきなさい!」

僕の目をキッと睨みつけて、口調も有無を言わさぬものがあった。


「いや、でも、せっかくお詫びの印として買って来たんですし・・・。」

「生意気なこと言わないで。君、わかってるの?君はお金がないから、わたしみたいな女と結婚しなければならない羽目になったんでしょ?それなのにこんな無駄なことにお金を使って!お金を大切にしなさい!」


紅葉さんは、強い剣幕でまくしたてるとそのままムスッと押し黙った。僕はいたたまれなくなり、居間を離れて3畳の勉強部屋に籠り、寝落ちしたフリをしてそのまま夜を明かした。翌朝になっても紅葉さんは黙ったままで一言も口を聞いてくれなかった。


★★


その日の学校の休み時間、廊下で友達と話していると、遠くの方に紅葉さんの姿が目に入った。髪を後ろで縛り、教材なのか重そうな段ボールを抱えているが、相変わらず右足を引きずっており、危なっかしい。


僕は一瞬ためらったが、紅葉さんの方へ走り寄り、「八乙女先生、持ちますよ」と言って、抱えている段ボールを奪い、紅葉さんと並んで歩き出した。


「外では話しかけない約束だけど。」

半日ぶりに聞く紅葉さんの声は相変わらず無機質だった。

「学校で生徒が先生の荷物を運ぶのを手伝っても、誰も関係が怪しいなんて思いませんよ。足が悪いんでしょ。無理しないでください。」

「・・・・・・。」

そのまま二人で並んで歩き始めた。あのことを言うのは今しかない。


「あの・・・昨日はごめんなさい。生意気なことを言って。」

「・・・・・・。」

「分不相応なお金の使い方をするんじゃなくて、まずはきちんと謝るべきでした。」

「わかればよろしい。」

「でも、そのうえでなんですけど、あのコーヒー豆を受け取ってもらえないでしょうか?」

「は?まだそんなこと言ってるの?お詫びの印なんていらないわよ。」

「いえ、お詫びの印じゃなくて、ほら、結婚したのに、僕は紅葉さんに何のプレゼントもあげてなかったじゃないですか。生意気かもしれないですけど、妻への初めてのプレゼントということで受け取ってもらえないでしょうか・・・?」

「・・・・・・。」


ん?返事がないな。横を見ると、紅葉さんはうつむき、耳を真っ赤にしていた。


「八乙女先生?」

「い、いや、男の人にプレゼントもらうの初めてだから、こんなときどう言ったらいいのかって・・・。」

「ああ、受け取ってくれるんですね、ありがとうございます。」

「どうも・・・・。」

そのまま紅葉さんは押し黙ってしまったので、僕たちは黙って職員室まで並んで歩いた。


その日の夜、僕が3畳間で勉強していると、襖の外でずずっと何かをひきずるような足音がした後、ゴトッと何かを置いたような物音がした。足音が去るのを待ってから襖を開けてみると、そこにはマグカップに入ったコーヒーと高級そうなチョコが2粒置いてあった。


「ごんぎつねみたいな人だな・・・。」


チョコは甘くておいしかったが、コーヒーは独特の風味があって僕好みではなかった。でも、紅葉さんが一生懸命豆をひいてくれている様子を思い浮かべると、思わず口角が上がってしまった。


この後も、たびたび紅葉さんを不機嫌にしてしまうことはあったけど、その都度仲直りし、全体として落ち着いたと言える日々が続いた。こんなに落ち着いて生活できるのは父が亡くなった頃以来だ。


そして秋も深まり、そろそろ肌寒くなったころ、はなれの3畳間に桜さんが訪ねてきた。


「ねえ、この部屋寒くない?」

桜さんは部屋の座布団に腰を下ろすなり、両手で肩を抱いていた。髪もまだ少し濡れているのでお風呂上りなのだろう。


「ああ、古い日本家屋だからすきま風があるみたいで。」

「この襖閉めるね。」

「あっ、さすがにそれは不謹慎では。」

「いいじゃん、兄妹じゃないの?おに~いちゃん。ちょっと秘密の話もしたいしね。」

そういうと桜さんは有無を言わさずに襖を閉めた。


「あっ、ちゃんとエアコンあるじゃん。暖房入れていい?」

「いや、電気代を紅葉さんに払ってもらっているから・・・。」

「なんだよ、けち~。」


でも湯冷めさせても悪いよな、そう思いセーターを貸してあげることにした。


「えっ?このセーターぼろぼろじゃん。新しいの買いなよ。」

「いや、お金は大切にしろって紅葉さんに言われてて。」

「そんなお姉ちゃんみたいなこと言って、すっかり飼い慣らされてるじゃん。セーター1枚も買えないなんてかわいそ~。」

ほぼ毎日一緒に登校しながらおしゃべりをしているせいか、桜さんはこの頃にはすっかり遠慮がなくなっていた。


「まあいいや。今日来たのはね、お姉ちゃんについて聞きたくてさ。ほら、お姉ちゃん、最近肌つやも良くなったし、髪もキレイになってきたと思わない?」

「ああ、そうかも。毎日一緒だからあんまり意識してなかったけど。」


きっと毎日の食生活の充実によるものだろう。最近は栄養バランスや味だけでなく食卓の彩りも考える余裕が出てきた。


「それでね、さっきお姉ちゃんがお風呂に入ってる時に鼻歌を歌っているのを聞いちゃったの。」

「それぐらい普通じゃない?」

「いや、それがさ。お姉ちゃんの鼻歌なんて生まれて初めて聞いたんだよ。あれは相当浮かれてるね。」

「へ~。」


相槌を打っていると桜さんが僕の方をじ~っ見てきた。ん?変なこと言った?


「どうしたの?」

「いや、お姉ちゃんがさ、キレイになって浮かれだしたのってもしかして・・・おにいちゃんのせいじゃないかって思って・・・。」

「まあ食生活とかには貢献できているかと。」

しかし、桜さんはその答えには満足しなかったようで、ジトっとした目で見つめてきた。その目もかわいい。


「そうじゃなくて~。あれかなって!とうとうお姉ちゃんを女にしたのかなって?」

「いやいや!そんなことないって!前も話したけど卒業するまではそういう関係にはならないって約束してるから・・・。」

「どうかな~どうかな~!夫婦だし当たり前のことじゃん。それに内緒でそういう関係になっても黙っておけば他の人にはわかんないよ~。わたしだけには教えてよ~。」

「違うって・・・。」


ミシッ!


ん?いま襖が少し鳴ったような・・・。もしや・・・。


「あっ、あのさ!まあその件は追い追い話すからさ、今日はもう遅いしこのあたりで・・・。」

「え~、つまんない~。」


数日後、夜に3畳間で勉強をした後、寝ようかと襖を開けると、そこに紙袋が置いてありマジックペンで『プレゼント』と書いた付箋が貼ってあった。袋を開けるとカシミヤのセーターが出てきた。

また、裏に付箋がもう一枚貼ってありこう書いてあった。

『セーターより電気代の方が安いんだから気にせず暖房を入れなさい』


「かなり最初の方から聞いてたんかい!」


カシミアのセーターは柔らかく、とても暖かかったが、それよりも紅葉さんが少しずつ心を開いてくれていることが感じられて嬉しかった。


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