上編 身を売ってしまった
18歳になったばかりの春、僕は学費のために身を売った。
「じゃあ、大学卒業までの学費は俺が出してやる。その代わり娘と結婚してもらうぞ。異存がなければ、すぐにそこの婚姻届にサインしろ。」
そう言ってきたのは、僕の正面の座布団の上に座る与党の大物政治家、八乙女大造先生だ。生き馬の目を抜く政治の世界で30年近く生き延びてきた政治家の言葉には有無を言わせぬ迫力がある。
「はい。」
僕は観念し、緑色に縁取られた婚姻届の左側の欄を埋めていった。ああ・・・生まれた頃から一緒だった田中姓とも今日でお別れか・・・。
「書いたな!じゃあ、お前も記入しろ!」
そう言われて、ペンを取ったのは僕の結婚相手。大造先生の娘さんだ。先生の言葉に何の抵抗の色も見せず、さらさらときれいな字で枠内を埋めていく。
「よし!じゃあ、後は証人欄を埋めて、こちらで役所へ提出しておく!よかったな!お前たち今日から晴れて夫婦だ。ガハハッ~。二人で質実剛健な家風を守って家を盛り立てるんだぞ!」
先生はご機嫌だが、横に座っているこの人はどう思っているんだろう。今日から自分の妻となった人の表情を横目で見ようとしたが、うつむいて、髪が顔にかかっており、その表情は見えなかった。
どうしてこうなったのか・・・。僕は今日までの急展開を思い出していた。
★
僕は、旧姓田中幸太郎。この4月から高校3年生になる。
波乱続きだった僕の人生が急降下したのは16歳の時、父が病死したことに始まる。父は、男手一つで僕を育ててくれていたが、病魔に勝てず、1年余りの闘病の末亡くなった。
ちなみに母はいない。僕がまだ小さかった頃、父に愛想を尽かして出て行ったらしい。今どこにいるのかもわからない。
父はもともと人権派の弁護士だったが、金銭に頓着しない性格で、自分が社会正義のためと信じる案件を採算度外視で引き受けていたから、もともと家にはあまりお金がなかった。しかも、父が闘病の末亡くなったため多額の医療費もかかり、保険にもろくに入っておらず、葬儀費用を支払ったら、わずかな預金を除き財産は残っていなかった。
僕は唯一残った親族である叔父に引き取られたが、叔父もお金はなく、何とか高校に通わせてもらっていたが、大学の学費を出すのは無理とのことだった。
奨学金をフルに使ってアルバイトをして生活費を稼いで大学に行く、その方法も考えたが、僕には夢がある。父の遺志を引き継いで弁護士となるのだ。
しかし、そのためにはもっとお金が必要だ。司法試験の受験資格を得るために、大学を卒業後ロースクールに入学するとすればさらに学費がかかるし、ロースクールに行かず予備試験をパスするには相当の勉強時間が必要だ。生活とアルバイトに追われながら予備試験を突破することは非現実的。
だからお金が欲しい、ずっとそう思っていた・・・。
「実は、幸太郎に学費を出してもいいと言ってくれている人がいる。あの政治家の八乙女大造先生だ。幸太郎のお父さんと親交があって、幸太郎が困っていることを知って申し出てくれたらしい。」
高校2年生の冬、緊張した面持ちの叔父からでそう伝えられたとき、僕にはそれが地獄に垂らされた細い蜘蛛の糸のように見えた。
ただ、吉報を持ってきたはずの叔父の浮かない顔が気になる。
「ただし、条件があるらしい・・・。」
「いいよ・・・。学費を出してくれるならどんな条件も飲む。」
「いや、そんな簡単な条件じゃないんだ。学費を出す代わりに、幸太郎が八乙女大造先生の娘さんと結婚しなければならないという条件なんだ。」
「・・・・・・・。」
「幸太郎の人生を決めてしまうわけだし、断ってもいいんだぞ。」
「・・・・・・・。」
そのとき、向かい合って正座している叔父に心中を気取られないよう、ポーカーフェイスを意識しながら、心の中で密かにこう思っていた。
『イィィィエーイ!ヤッタ~!これ確変来たぞ~!!!』
そう。八乙女大造先生の娘さんといえば、僕と同じ学校の同学年、全校生徒の憧れの的である八乙女桜さんである。
誰もが振り返るような正統派美少女で、才色兼備で性格も良く、気さくで明るい。かくいう僕も、入学式で一目見てから、ずっと桜さんに密かな好意を抱いている。
僕の境遇を顧みれば付き合うなんて絶対無理とあきらめていたが・・・。
学費も手に入って、桜さんとも結婚できるなんて、そんな一石二鳥の大逆転映画みたいなこと、この身に起こっていいの~!?
「父の、遺志を引き継ぐためには他に方法がないと思います。僕は構いません・・・。」
叔父の前で大喜びするのは不謹慎だと思い、僕はむりやり厳しい表情を作り、下を見ながら叔父に伝えた。
「俺にもっと甲斐性があれば・・・。」
叔父さんは下を向いて泣き始めたが、僕は浮き立つ気持ちから頬が緩むのを必死でこらえていた。
4月3日は僕の18歳の誕生日である。その日、叔父に連れられてお宅にうかがい、客間である和室で八乙女大造先生と対面した。
「君が幸太郎か!お父さんの幸裕によく似とるな~。」
初めて生でみる八乙女大造先生は、声も大きくすごい迫力だった。声が響いて頭の中がビリビリする。
「さっそくだが、叔父さんから話は聞いているな?俺の娘と結婚するのであれば、大学を卒業するまでの学費を出してやろう。学校へもこの家から通うといい。」
「はい。この度のお話、大変ありがたく。ぜひお受けさせてください。父の遺志を継いで立派な弁護士になります。」
僕は、神妙な表情で応えた。ずっと態度とか口調とか練習して完璧に仕上げたから、実は心の中で浮かれっぱなしなんて絶対に気づかれないだろう。
「よしよし!よい決断力だ。君は今日18歳になったんだろ?じゃあ、この場で婚姻届を書いてもらおう。なに、政治はスピードが大事だ!ちょっと、あいつも呼んでくれ。」
え~!急すぎる~。今日、桜さんと結婚なんて・・・困っちゃうな~。いやいや頬が緩むのを引き締めねば!
「お待たせしました。」
からりと開けられた襖から入ってきたのは・・・。
ん?知らない人。知らないおばさん。桜さんのお母さんかな?
「よく来た、紅葉。これが幸太郎くんだ。これから婚姻届を書いてもらうから、そこに座りなさい。」
「はい・・・。」
紅葉と呼ばれた人は、僕の隣に座った。フレームのない丸い分厚い眼鏡、肩まで伸ばして黒髪は毛先が傷んでいる。ボーダーの服と長いスカート(カーテンみたいな柄)、白い靴下。表情に乏しい顔、うつむきがちな姿勢。言葉を選ばず言えば、ネットでよく見る喪女さんってこんな感じ?この人はいったい・・・?
「紹介しよう。娘の紅葉だ・・・。これから君の妻になる。よろしく頼む。」
八乙女大造先生に言われて初めて気づいた。桜さんがひとりっ子ではない可能性を・・・。
「まあ、この下にも娘がいるんだが、あいつはまだ若いし、親の目から見ても容姿端麗だから嫁の貰い手も別にあるだろ。紅葉は、いくつだっけ?25歳くらいか?」
「27歳、1月で28歳です。」
見た目の印象よりもずっと若い。それでもちょうど僕の10歳年上じゃんか!
「そうか、まあ10歳差くらい誤差だわな。よろしく頼むぞ!」
いやいや、還暦越えてる(推測)大造先生なら10歳は誤差でしょうけど、18歳の僕にとっては人生の半分以上ですよ!誤差で済ませられないでしょうよ・・・。
しかし、今さら僕から「なんとか妹さんの方になりませんでしょうか・・・。」なんて言えるはずもなく、あきらめて婚姻届に記入せざるを得なくなったのである。天国から地獄とはまさにこのこと・・・。
「幸太郎君、さっそく今日からこの屋敷のはなれで紅葉と一緒に暮らしてもらう。いいかうちの家風は質実剛健、そして勤勉だ!それを肝に銘じて頑張るんだぞ。まあ、紅葉はそこのあたりはよくわかってるはずだ。じゃあ紅葉、案内してあげなさい。」
そう言うと大造先生は、立ち上がり去って行った。叔父は大造先生を追いかけて行き、その場には僕と紅葉さんだけが残された・・・。
「じゃあ、はなれにご案内します。こちらへどうぞ・・・。」
紅葉さんは僕を先導し、僕と一緒に玄関から庭の方へと回った。あれ?気のせいか、紅葉さん右足を少し引きずっている。足が悪いのかな・・・?
★★★★
八乙女家の広い敷地の端には、少し古ぼけた和風建築の平屋が建っていた。普段紅葉さんが暮らしている家らしい。紅葉さんに案内されて入ると、中は意外に広く玄関を入るとすぐに台所、それを囲むように6畳間が二間、3畳間が一間、そしてトイレもあった。
「じゃあ、説明するけど、まず真ん中の6畳間は居間、右奥の6畳間は寝室ね。左端の3畳間は使いにくいから今は使ってないけど、君が受験勉強に使いたいなら使うといいわ。」
「はい。」
「食器はそこ、お鍋類はそこ、食料品は冷蔵庫かそこの流し台の上の棚にあるわ。出したものは必ず元の場所にしまって!あっ、このコーヒー豆の袋には絶対に手を触れないで!特別な時にだけひいて飲むことにしているの。君がコーヒーを飲みたくなったらこっちのインスタントを飲んで。」
「はあ。」
「今日の夕ご飯は母屋でいただくけど、明日からはわたしが作るから。朝ごはんは7時、夕ご飯は19時、仕事で遅くなる時は連絡するわ。」
「はあ。」
「お風呂は、母屋でもらい湯をするから。ここからタオルを持って行って。洗濯物はまとめてあの籠に入れておいて。母屋の洗濯機を借りて洗濯するから。」
「はあ・・・。」
紅葉さん、なんか急に饒舌になったぞ・・・。しかもすごく早口で聞き取りにくい。
「あっ、言い忘れたけど、わたしは部屋が散らかるのが嫌いだから、余計な物は増やさないでね。自宅から身の回りのものとか勉強道具を持ち込むのは仕方ないけど、他のものは置いてきてね。あと、うるさいのも嫌いだからテレビもないし、音楽とか流すのもやめてね。」
「はい・・・。」
「だいたいこんな感じだけど、何か質問あるかしら?」
「いえ・・・大丈夫です。」
本当は全然大丈夫じゃない。つまり、これからずっと、この古ぼけた家で紅葉さんと一緒に暮らすってことだよな・・・。
10歳も年上の紅葉さんと夫婦として・・・。
ああ、学費のためにこの身を売ってしまったことが実感される・・・。
一緒に暮らし始めた初めての日の時間はやることが多く飛ぶように過ぎた。叔父さんと一緒に家に勉強道具や身の回りの物を取りに行き、母屋でご飯を食べさせてもらい、お風呂に入らせてもらうとあっという間に夜になった。いつの間にか奥の寝室には布団が二組敷かれている・・・・。
「じゃあ、先に布団に入っていていいわよ。わたしはやることがあるから。」
「はい。おやすみなさい。」
そう言いながらも、とても安眠できそうにない。結婚したということは、夜の営みもあるってことだよな・・・。
初めての相手が10歳も年上のあんな喪女さんなんて・・・。
しかも結婚してしまったということは、もう二度と他の人とは・・・。
いやいや、それ以前に好きでもない人とそんなことできるんだろうか。あ~、いっそ叫んで飛び起きてそのまま逃げ出したい!
しかし、布団の中であれこれ悩んでいるうちに、昼の疲れが出たのか、いつの間にか眠ってしまい、気づけば朝だった。僕が起きたときには、紅葉さんはもう起きて朝ごはんの準備をしていた。