一七話 私は停止を選んだ。それは未来のために。
双子を乗せた潜水艇は〝プレリュード〟を行っていた海底施設から逃れた。
コアが潜水艇の操作パネルに座標を入力すると、マップが映される。そこには彼らが向かうポイントが点滅していた。
潜水艇の中は約一三人収容できるスペースである。二人で利用するには少々広く感じるだろう。
酸素が循環する音だけ聞こえる静かな場所で、ペトラはぽつりと呟いた。
「これから、ここに向かうんだね」
点滅する光を指差してペトラは膝を抱えた。
コアはペトラの隣に座って、同じように膝を抱えた。
「三日くらいかかる距離だな」
「え。三日?私たち、死なない?」
「死なない」
そう言うとコアは周囲を見渡して「あ」と何か見つけた。
非常用装備の棚だ。コアはそれを開いて中を確認する。飲み水や非常食、簡易トイレ、毛布等が収まっていた。
「やっぱり。潜水艇の移動は平気で数日かかることがあるから、こうした常備は整ってるんだよ。簡易トイレの性能すごいよ。ほら、この器に出した後、後ろの部屋にある穴に落として超乾燥させてから海に出せるようになってる。つまりほぼ普通のトイレ」
「相変わらず、沈没都市の住民みたいに喋るよね」
「よく観察してたら分かることだよ」
皮肉に皮肉を返す。いつも通りだ。
しばらく、静かになった。
コアは膝を抱え直して俯いた。
「…この後、どうやって生きようか」
ティヤに守られ、濁流に流されたようにここにいる。故郷に戻るべきか、戻っていいのか、コアは考えが散り散りになっていた。
ペトラはチラリとコアを見て、自分から意見を出すことにする。
「辿り着いた場所で考えよう。ティヤの仲間がいるなら、泥蛇との戦い方だって知っているかも。あとほら、〝フラム〟のことを伝えないと」
ペトラの意見に、コアは顔を上げた。
「お前も、泥蛇と戦うって意味?ティヤを置いてきた罪悪感があるのか?」
「ないって言ったらウソになる。…でも誰かの命を身代わりに生き残るなんて今更だもの。これはただの意地。また大陸のどこかで生きることに必死になる毎日を過ごしていたら、いつかの未来で泥蛇の計画に巻き込まれて死ぬんだよ。事実の一端を知っていて流れるようには負けたくない。コアは嫌?それなら行きたい場所までついていくよ」
「それはついてきた後、お前はティヤの仲間のもとに帰るってことか」
「うん。向こうが良いって言ってくれるならね」
「自警団になるって目標は良いのかよ?」
「泥蛇と戦うのってもう自警団みたいなもんじゃない?…え?違う?」
ペトラはふふん、と得意げに笑うが、コアの失笑した表情に狼狽えた。
コアは「大雑把に物事を捉える奴だった」と冷たく呟く。
そんな彼にむー、と頬を膨らませるペトラだが「そっちはどう思うの?」と頭が冷えた相棒に訊く。
コアは「そっちとほぼ同意見ではあるけど」と前置きして答えた。
「…俺は、〝新時代の水源〟を止めるべきだと思う」
「おぉ、なんで?」
ペトラは興味津々に瞳を光らせた。衝動的な自分と違って、どうやら彼には筋の通った理由があるのだと思った。
コアは散り散りになっていた考えと感情をまとめる。
「〝MSS〟は憎いほど理念に忠実。…ただ生きるだけの未来を望むならきっと、ラクスアグリ島を利用しなかったと思うんだ」
「生きるだけ?」
ペトラが目を丸くしている。
コアは少し苦笑する。
(ペトラみたいなのは分かりづらいかもな。居てくれるだけで、生きるだけじゃなくなる人だから)
もう散々羨ましいと叫んだ後なので、そっと心に零しておく。
「だってさ、沈没都市で全部資源を賄えれば、大陸の支援なんていらないだろ?危険を顧みても大陸に沈没都市の住民を行かせる理由をわざわざ残したんだ。…多分そこには共存とか共栄とか…Fageになる前から人が一生懸命探し回った面倒ごとがあって、〝MSS〟はそれを無駄だとは判断しなかったからだよ」
沈没都市の理念と武力は大陸を上回る。それでもしなかったその理由を、コアは優しく撫でるように考えた。
「〝MSS〟はあえて失敗する道と生存ルート、両方残して停止したんだ。…俺は、その失敗する道が〝Causal flood〟だと思う。俺達はこれを止めなくちゃいけない。でないと――」
「異なる方法で同じ失敗を繰り返すってやつだ」
ペトラはあの時の泥蛇の発言が繋がったと、コアの代わりに続けた。
コアも静かに頷く。
「ラクスアグリ島がまだ存在していたのなら、きっとその中で同じような失敗を何度も繰り返して、なにが生存ルートなのか見つけていく未来があったのかも。…でもラクスアグリ島が無くなった今、それの代わりになるのが〝黒い箱のなかみ〟だ」
ラクスアグリ島の沈没の日、海に流れ出た黒い箱。
〝ヴィアンゲルド〟や〝フラム〟を含め、あれらは外に出て行ってしまっているのだろう。
「泥蛇も〝黒い箱のなかみ〟を探している最中なのかも。それに一七個の機能をもし、ミュウのように誰かが使えるのなら…」
コアの仮定にペトラはミュウの最期を思い出した。
「〝これは人にどう見えた?私はどう使った?〟…あぁそっか。きっと使い方に意味があったのかも。使わせちゃ、いけなかったのかも」
「…かもな。今考えられることとしては〝黒い箱のなかみ〟に対して生存ルートのヒントになるのが〝フラム〟なんだと思う。だから、ティヤは仲間に伝えて欲しいって言ったんだ」
また、静かになる。
ペトラは膝に口を寄せて、こもらせながらコアに尋ねる。
「…どちらにしても、コア。沈没都市で暮らしたいってコアの目標は私の自警団より難しくなったよ。それはどうするの?」
ペトラの問いかけに、コアは一度目を閉じる。
「ペトラ」
相棒を呼ぶ。ペトラは顔を上げてコアの方を向いた。
「ペトラは、俺のことすごいって思ってる?」
なんだか幼い子供みたいな質問だ。
でもペトラはからかったりしなかった。
姉みたいな心境で、暖かい笑みを浮かべる。
「ずっと昔から思ってるよ」
素直に答えてくれるペトラに、コアは自分で尋ねておきながら少し照れてしまう。
そして前を見据えて、
「なら、俺はそれでいい」
沈没都市で確かめたかった自分の価値を、彼はここで確かめた。
簡単な答えだったけれど、なんだかひどく時間がかかって得た気がした。
でも不思議なことに、だからこそ、コアの体の中は満たされた。
気を取り直して、コアが方針をまとめた。
「じゃ、とりあえずティヤの仲間と合流ってことで。俺の方が論理的な理由だったけど。まずはこの光の場所まで行こう」
ペトラは「一言多いよ」と一度睨んでから、彼と同じ方向を見た。
「いいよ。もしその先で躓いたら、また一緒に考えよう。何度だって頑張れる」
「二人ならな」
双子を乗せた潜水艇は昏い海の中、彼らを未来へ運んだ。
Prelude 終
――――――――――‥‥
これはまだ、〝MSS〟のない時代の話しだ。
「わたしにはなにもない‼」
私のかわいい子がそう叫んだ。
「嫌だったことも、辛かったことも、全部やってきたのに‼あなたたちがそうしろって言うからやってきたのに‼ねえ!わたしの体がボロボロになっただけじゃない‼」
私のかわいい子の叫び声は、確かにその弱りきった体を裂いてしまいそうだ。
小さい頃は元気いっぱいにサッカーをやって、学校が終わればその足でAI開発技術塾などにも通ったりして。
壮健で明るかったあの子の体は、今は醜くむくんで、ハリのあった肌は傷だらけで、豊かだった髪はかきむしる癖がついてしまって薄くなり、私よりも年老いて見える。
「我慢して我慢して、あなたたちの〝やって欲しいこと〟をずっと続けて‼今のわたしになにが残ってるの⁉体が壊れただけ‼なにも残らなかった‼」
流れる涙は目玉が溶け出したようだ。
その目で私を睨んでくる。
まるで私のせいだと言わんばかりに。
自分で納得していた進路だっただろうに、何度も失敗したからって私のせいにする。
働き盛りの私のかわいい子は、小さかった頃と同じように泣きじゃくっている。
小さかった頃の方がましな光景だ。体が大人な分、生き恥を晒している。とてもではないが、他所様に見せられるものではない。
無価値だとか、役立たずだとか、私のかわいい子が自分自身の息の根を細めていた。
それは本当に少しずつの変化で、気が付いた時には糸みたいな細さになっていた。
どこかで気づける瞬間があったのか。それに気づけたのなら平和な場所で人は自殺なんてしないだろう。
「他の人だったら、頑張ったことが体に残るのに。それが未来で価値になるのに。なんにも‥‥わたしには、なんにもない」
可哀想だ。
挫けてしまったこの子はしばらく家から出られていない。きっとこの家の中でゆっくり死んでいくんだろう。
そうやって死んでしまえば確かに、価値のあるものは残らない。
それが最期なら生きてきた意味もない。
この子の死体を見て、誰もが「どうしてこうなっちゃうんだろうね」と悲しんで、呆れて、そうしていつか消えるように忘れられる。
そうなってしまえば本当に。無価値だ。
小さな小さな家の中の失敗だった。
ただただ、自分の人生に「価値」を探して迷う若者の悩みだった。
親としてずっと寄り添ってきた。愛していたから。私のかわいい子には、幸せな未来を歩んでほしかった。価値があるものを学ばせて、自分だけの価値と未来を見つける力を身に着けてほしかった。
だから私は、あの子の未来を守ってくれる「指針」を作った。
それはいずれ〝MSS〟と呼ばれるようになる。
――――――――-‥‥
わたしにはなにもなかった。
最初は誰かに否定して欲しかったからそう叫んだ。
でも、誰も否定なんかしてくれなかった。
頑張ってきたことが今、何の役に立っているの?
そう聞けば皆口を閉じる。
親も。わたしを頑張らせていた親でさえ、黙った。
次第に、わたしにはなにもないんだと確信になった。
自殺が罪であるこの世界で、私の体は生まれ落ちた責任を問われ続けた。
親は小さい頃からわたしを沢山評価した。
…わたしはただ、ただ一言で良かった。
上手だねって、その一言が欲しかった。
頑張ったねって、抱きしめて欲しかった。
いつしかそんな願いもわたし自身忘れて、親の持ってくる全てを頑張る癖が身についた。
納得なんかじゃない。癖だったんだ。
評価を忘れないように紙に残して、それがどんどん山になる。
その山がわたしより大きくなった時、わたしは起き上がれなくなった。
変わり果てたわたしの姿に、親は見かねたんだろう。
わたしの賢い親は世界を変えるAIを開発した。
価値ある未来を示してくれるAI。
わたしのために、作ったAIだった。
そのAIは瞬く間に世界に広がり、理念が街となって実現化した。
わたしは親の紹介で、その街に行った。
知能、倫理観や心理、発達のテストを通過する。
そして、最後に針路調査。
針路調査を受けると、人の役に立つ価値を育てるカリキュラムが作成される。これが、沈没都市では間違いのない人生を送れると言われる所以だ。
私は、環境守備警の部門の一つ、食糧部門の適性が高いという結果だった。
大陸と沈没都市の架け橋になる、環境守備警。
…私が今まで頑張ってきたどれにも該当しない結果だった。
確信から、絶望に変わった。
わたしの親は最後まで、わたしの今までを否定した。
そんなつもりがないところが、本当に憎かった。
これだけすごいことをした親の想いはきっと偽物ではない。親なりに必死で、愛があったから、時代を変える偉業に繋がったんだろう。
街で通り過ぎる誰かは安心した顔で明日に向かって生きている。
親の偉業を憎めば、吐き気がするほど自分が惨めに思えた。
〝MSS〟の最も優れているところだと思ったのは、安楽死が合法になったことだ。
ただ死ぬのではない。その身体は生きる価値のある人へ贈られる。
だからこれは自殺ではなく、未来への選択とされた。
わたしは選んだ。
わたしの価値を。
…強烈な眠気がやってくる。
望んだ仮想世界で小さな子供になっていたわたしは、あたたかな草原で寝転んだ。
そこでようやく、わたしは思い出した。
欲しかった言葉と、今欲しい暖かさを。
それを言って欲しかった人は、今なにをしているのかな。
精一杯わたしのために頑張ってくれたあの人がこのわたしを見たら、どう思うだろう?
悔しいことに、この姿を見たらあの人は悲しむだろうと分かっていた。
満足か?そう自分に尋ねると、わたしは胸が痛くて泣いた。
こんな終わり方、一体誰に価値があるんだろう。
〝なにもない〟
それを否定して欲しかったのなら誰よりも。
わたし自身がわたしの人生でそれを証明すべきだったのに。
わたしの身体は誰かに贈られても、わたしの声は、心は、どこにも残らない。誰にも届かない。
この仮想世界でただ終わっただけだった。
――――――――‥‥
〝わたしにはなにもなかった〟
あの子の叫び声に答えたのは〝MSS〟だ。
〝MSS〟の街であの子がどう生きたのか知ることもなく、私は死んだのである。
でも最後にあの子の顔を一目見たくて、私は自分の意識を信号に変換して、エンドレスシーを使った。
本来、人間が直接エンドレスシーを使用することはできないので、〝MSS〟を作った私だけが知る裏技だ。
しばらくすれば、この意識は〝MSS〟によって優しく消去されるだろう。
〝MSS〟の街で、私のかわいい子は死を選んでいた。
安楽死は実に簡単だ。
好きな仮想世界にて死ぬまで気ままに過ごすのだ。現実の体の痛みを遮断し、自分が衰弱していることすら分からない。体が死ぬ間際、仮想世界にいる患者は皆、抗えぬ眠気に身を委ねて…それで安楽死が完了する。
その遺体は医療へ贈呈される。〝MSS〟はついに死ぬことにすら価値を与えたのだ。
だから、あの子の最期も、確かに価値が残ったのかもしれない。
…私は…。
あの子にただ、元気に生きていて欲しかった。
あの子の価値に繋がるかけらを、贈りたかっただけだった。
本当に助けたい子を助けられなかったことで、私はようやく気が付いた。
あの子の叫び声に答えるべきだったのは、あの子自身であり、そして――…
傍にいた、私だったのだと…。
小さな小さな家の中の失敗から誕生したAI。
膨れ上がった争いを縮小させるまでに至ったAIの答えは、自らの停止だった。
〝Mother shows sunrise〟は答えた。
人々の未来は、AIでは繋げていけない。
それは、この重たく面倒な身体だけが持つ価値だから。
‥‥遠い未来で聴こえる。
「悔いがあるかもしれない。失敗で終わったかもしれない。
でもあなたが歩いてきた道には彼がいて、私がいた。
あなたの身体には私たちのこと、なにも残ってないの?
私は残ったよ。
それは小さなかけらだから見えづらいかもしれない。
あなたにだってあるはず。
だからあの時、あなたは泣いたんだよ。
だからここまで、体が動いたんだよ。
いつだってそのかけらを使えるのは自分だけ。
なにもないなんて、絶対にあり得ないんだよ」
なにもないと絶望した若者は、その言葉に顔を上げた。
若者の身体のなかみが、その身体を動かす燃料になった時。
若者は答えた。
己の価値を。
そこが〝Causal flood〟の終焉なら、
この前奏は未来に希望を残したことになる。