5. エンデルの森の貴婦人
ども。お久しぶりです。
ようやく続きを投稿できました。
待っていて下さった方、大変お待たせして済みませんでした。
目が覚めた咲良は見慣れない室内を見渡し、左手に視線を落とす。
アラベスク模様のタトゥーのようなものが彼女の薬指に巻きつき、更には手の甲を走って手首から腕の付け根にまで及んでいる。
(……夢じゃ、なかったか)
昨夜、入浴時に腕を確認したが、それはもう見事としか言いようのないくらいの立派なタトゥーだった。
(キレイなんだけどねぇ)
ヘナタトゥーみたいに時間が経てば消えるものなら良いのだが、それはきっと有り得ないのだろう。何しろ “ロアの花嫁” である事を証明するものが、簡単に消えたりしたらジョイスたちは困るしかない。逆に自分の世界に帰って職場復帰したい咲良は、消えてくれないと非常に困る訳だが。
(日本に帰ったら消えるか、前みたいに小さくなってくれるかな?)
いつ戻れるか分らないけれど。
溜息を吐くとともに何気に室内を見回し、はたとサイドテーブルに目を凝らす。そして次に咲良はベッドから飛び降りて、近くのライティングビューローに駆け寄った。
昨夜はそこまで気が回らなかったが、改めて家具のひとつひとつに目を凝らす。そしてマホガニーと思われる家具の数々を目の当たりにし、息を呑んだ咲良の喉が盛大に鳴った。
現在地球ではマホガニーの天然木はワシントン条約で保護されているため、取引が制限されているそうだ。今ではアンティーク家具でしか見られず、とんでもなく希少な資源だと聞いたことがある。古物商を営むお客様に。
『似てるだけで違う物かも知れないし……植林の可能性もあるか』
植林の歴史は意外に古く、咲良が生まれた世界で流通しているマホガニーもその賜物らしい。
そもそも世界が違うようなので同じ資材、同じような価値があるとは言い切れない。それでも決して安物ではないことは判る。
『どう見ても一枚板よねぇ』
合板のお手頃家具だったなら、どんなにか気が楽だったか。
つらつらと独り言を呟く咲良の背後で不意にノック音がする。びくりと体を震わせ、恐る恐る扉を振り返り『はい』と返事をすると、メリッサが『おはようございます』と室内に入って来た。
『よくお休みになられましたか?』
『お陰様でぐっすり』
知らない世界で夢も見ないほど熟睡するなんて、大概図太いなと我ながら思う。
それにしても。クィーンサイズのベッドはメチャクチャ寝心地が良かった。
(やっぱ寝具は大事だね)
そんなことをしみじみ考えている間にもメリッサは素早くカーテンを開け、ぼさっと突っ立ている咲良の元にやって来た。
『ドレッシングルームにご案内いたします』
言うやメリッサは踵を返してすたすたと歩きだす。咲良は慌ててそれに続いた。
豪奢な洗面台に気後れしつつ顔を洗い、コルセットやら何やら苦しそうな下着を遠慮したにも関わらず、用意されたドレスのサイズがぴったりな事に思い切り引き、ケープを纏ってドレッサーの前に腰かける。如何にも高級そうなヘアブラシで髪を整えれば、手入れの行き届いていない黒髪がサラ艶髪に様変わりした。
その感動も束の間。仕事柄汗を掻くからと横着してポイントメークしかしていなかった顔は、メリッサに押し負けて施された化粧のせいで重苦しい――が、自分かと疑う程の出来栄えだ。
それでも初めてのドレスと久々のフルメークにうんざりした吐息が何度も零れてしまう。メリッサにスルーされたままようやく身支度が終わってダイニングに行く。と、先に着席していたジョイスが咲良を見るや立ち上がった。
『サクラ、すっごくキレイだ』
『普段は汚いってこと?』
むすっとそうジョイスに返すと、彼はもげそうな勢いで首を振る。
『誰もそんなこと言ってないでしょ。変な揚げ足取らないでよね。よく似合っているって言いたかっただけで、もちろん今も昔もサクラは可愛いよ』
そう言いながら彼は咲良の手を取ってテーブルにエスコートする。
『今も昔もって、最初はあたしより七つも年下だったよね? 次に会ったら三歳差になってたけど』
『可愛いと思う気持ちに年齢は関係ないでしょ。可愛いものは可愛い』
『……まあいいわ』
ローデンが引いてくれた椅子に腰掛け、肩越しに見上げた彼に『ありがとう』と礼を言う。すると彼は小さく微笑んで会釈し、その場を離れた。
先日、ローデンには使用人に頭を下げる必要はないと言われたが、礼を言われて気分を害する人はいないと反論したら、ジョイスが『ほらね』と得意げに頷いていた。
という事で、ローデンが納得しているかいないかは別として、咲良の言動に否やは言わないことにしたらしい。
ローデンに促されてジョイスが渋々と向かいに着席すると、食事が運ばれてくる。
『……ん?』
なんだかとても身近で美味しそうな香りが漂ってきた。
興味津々に給仕の手元を視線で追う。
『みそ、汁?』
目の前に次々と置かれた物は、どう見ても和食。大根おろしのようなものを添えた焼き魚とだし巻き卵だろうか。木の椀に野菜たっぷり味噌汁とホカホカご飯に白菜と思しきお新香。
どういうことかとジョイスを見れば、得意げな表情で口を開いた。
『二年前にサクラと同じ世界から渡って来たご夫婦がいるって言ったでしょ』
『うん。聞いた』
『ノスケ――件のシノビだけれど、彼はこと料理に関しては全く当てに出来なかったし、でもサクラがお嫁に来た日のために準備しておきたかったから、そのお二方にご教授頂いて完成させたんだよ。味噌を作るのに麹菌が必要って言われてサチュ――森の貴婦人に手伝って貰って、そこから試行錯誤の末に味噌と醤油を作り上げたってワケ』
『あたしが来るかどうかもわからないのに?』
『絶対来ると思っていたし、来てからじゃ遅いでしょ。僕も食べたかったし』
咲良が来ることをこれっぽっちも疑っていなかったような笑顔に、ぐっと言葉が詰まった。
『食後、一服してからサチュに会いに行こうね。それと同郷のご夫婦の所にも』
確かに森の貴婦人と呼ばれる精霊王と、日本から来たという夫婦には興味がある。
咲良がこくりと頷くと、破顔したジョイスが『食べようか』と言って手を合わせた。こちらに帰って来ても変わらずに続けていたのかと、日本ならではの習慣にほっこりする。
『いただきます』
『……いただきます』
そして咲良はこの世界にいる限り食べることは適わないだろうと思っていた日本食をじっくりと堪能したのだった。
***
邸を出て石畳の緩やかな坂の街道を一頭の馬で下る。
南西に十分ほど馬に揺られると、エンデル領の首都エルザに着いた。
国境から王都に向けての主要な街道にある都市は賑わいを見せている。じっくり見て回りたいが、今日はまずこの領地を守護している精霊王にご挨拶だ。そして何故、自分が “花嫁“ なのかを聞いてみたい。
領民たちと挨拶を交わしながら要所要所を簡単に案内されて、馬で歩き続けること三十分。人通りがまばらになり、とうとう建物も途絶える。そして眼前には森と山々に囲まれた広大な農地が広がっていた。
一体どのくらいの広さがあるのだろう。農地の果ての山並みが小さい。
作物たちは日差しを浴びてキラキラしている。
咲良の生活圏にはなかった原風景に感嘆の吐息を漏らすと、後ろから小さな笑いが漏れた。
『綺麗でしょ?』
『うん』
相槌しか出てこない。
『ずっとこうしていても飽きないけれど、そろそろいい?』
『……そうだね。行こっか』
少々後ろ髪が引かれるが、確かにずっと眺めてばかりもいられない。
咲良が頷くのを確かめてから、ジョイスは再び馬の歩みを進めた。ぽつりぽつりと民家が見えるそんな風景を楽しみながら農道を行く。やがて畑の向こうに見えてきた集落を指差して、彼が『あそこの村が見える?』と訊いてくる。
目を向けるとそこそこ大きな集落が見えた。
『あそこが初代ロア・エンデルの生まれたムルテラ村だよ』
『へ~ぇ。何となく今のお邸のある場所かと思ってた』
『およそ千年前に国境を護るため居を移したんだ』
『なるほど』
確かに国境近くの方が有事の際にはすぐに動ける。
ジョイスの手がうんうんと小さく頷く咲良の前を横切り、今度は反対側の森を指差す。
『村の向かい側にサチュの所に続く小径があるんだ』
そう言われてから、ものの数分で森の入り口に到着した。
小径に木漏れ日が射し込み、小鳥の鳴き声が聞こえる。
咲良はジョイスの手を借りて馬を降りると人心地つく。その間にも彼は一歩踏み出しながら精霊王の名前を呼び、何言かを発しながら小径が二手に分かれた所で足を止める。すると目の前の木々がキラキラと光り、次いで幹が撓んで左右に広がった。
目を丸くして言葉もないでいる咲良の手を引き、木々の間を行く――と、一瞬目が眩んだ。視力はすぐに戻ったが、わずか数秒の間で森の拓けた場所に移動し、目の前に麗しい見目の女性が佇んでいた。
光の加減で茶にも緑にも見える玉虫色の髪と、いわゆる黒目がち――実際はジョイスと同じフォレストグリーンである――と形容されるだろう瞳は、人で言うところの虹彩と呼ばれる部分だけで白目がない。そして圧倒的なオーラは畏怖を禁じ得ず、彼女が人ならざる者であることを理解した。
金糸で彩られたモスグリーンのエンパイアドレスの裾が揺れる。
褐色の肌に人目を引くぽってりとした海老茶色の唇。その口角が持ち上がり、彼女は咲良に微笑んだ。
揺れるベルスリーブに目を奪われ、身動ぎできないでいる咲良の額に向けて彼女の華奢な指が伸ばされる。トンと後ろに軽く弾かれて体が微かに揺れた。それと同時に靄のような感覚が晴れ、頭の中を清涼感が占めていく。
とは言え、先刻から驚きの連続で頭がついていってない。ぱちぱちと目を瞬く咲良にくすくす笑うと、精霊王サチュヴァリエスが「これで良かろう?」と眉を聳やかせてジョイスに訊いた。
「サチュありがとう」
「なに。意思の疎通ができないのでは、困るからな」
そんな会話をする二人の顔を交互に見て、咲良の顎は外れたかの様にパッカリと口を開けるのだった。
(……え? え? え?)
ジョイスとサチュヴァリエスの会話が理解できる。咲良の動揺を察したジョイスが口を開いた。
「サチュ直々の加護を受けたからだよ」
「え、そうなの?」
「サチュが先刻言っていたように、言葉の壁があると生活に慣れるのも大変だからね。これは咲良に限ってではなく、突然国外から来ることになった “花嫁” が孤立しないようにって、サチュが提案してくれた事なんだ」
「なるほど……え、でもだったら日本語覚える必要なくない?」
「そんなことない。サクラの母国語は外せないでしょ。何より僕が、日本語好きなのもあるけれど、ノスケも日本人だし、二年前に来たご夫婦も日本人だからね。けれどみんながみんなサチュの加護を受けられるわけじゃないから、結構需要がある」
言われてみればそうだ。
(これまでにも日本から来た人がいたのかな?)
日本人だけでもこんなに密集してこちらの世界に来ているのだから、もしかしたら他の国からも来ているかも知れない。
案外こちらの世界とは近しいのだろうか。
(ジョイスなんてピンポイントであたしの所に二度も来てるし)
十五歳の時の彼は、あろうことか咲良の真上から落ちてきた。幸いどちらにも怪我はなかったものの、ピンポイントが過ぎるだろう。
「あたしみたいな人、意外と多いの?」
ジョイスとサチュヴァリエスの顔を交互に見て訊いてみた。
するとサチュヴァリエスは少し考える様子を見せてから「そうでもない」と答えると、すぐに言を継いだ。
「本来ならこちらに生まれる筈だった其方の魂が、妖精の悪戯が元で変に拗れてしまったのが原因だ」
「よ、うせい?」
咲良が知りうる限りの “ようせい” という漢字が目まぐるしく脳裏を飛び交う。
できる限り考えたくない言葉が何度も閃くが、敢えて無視する。
なのに、無視しても無視しても、事実としての精霊王が目の前にいる以上、その彼女が言うところの “ようせい” というものがどういったものなのか、きっと答えはひとつしかないのだろう。
(精霊王の次は妖精ですか。しかもその妖精のせいで、あたしが日本で生まれたと。……ほんとマジで何なの?)
ファンタジーは好きだ。映画でも本でもワクワクする。
けれど当事者となったら、好きという言葉で括れるほど簡単ではない。
「今朝ベッドで起きたのが夢で実はまだ夢の中、なんてことはないかな?」
「うん。ないね」
ジョイスに膠もなく言われてキッと睨むが、軽く肩を竦められただけだった。
なんだか納得いかないまま咲良は続ける。
「ほんと迷惑なんですけど」
「それが妖精というものだ。彼らに悪気はない」
「悪気がなかったら何をしてもいいの?」
「そもそも善悪の観念がない。妖精とはそういうものだ」
サチュヴァリエスに食って掛かったけれど、軽く往なされてしまった。
善悪の観念すらない。妖精とはそういうもの――そう断言されてしまいモヤッとするが、諦めを含んだ声でそう言い切るにはそれ相応の被害者がいるのだろう。
(これって神隠し的なものなのかな?)
現代の日本ですら忽然と姿を晦ませる事案がある。その中にはもちろん事件性のあるものや意図的に姿を晦ませる事も多いだろうが、説明のつかない事も一定数ある。
「……そういえば、さっき “妖精のイタズラが元で拗れた” とかって言ってましたよね? 説明を求めても?」
白目がないことに違和感を覚えつつ、じっとサチュヴァリエスのフォレストグリーン一色の双眸を見据える。彼女はゆっくりと口を開いた。
「……事の発端は、其方の曾祖父が妖精の悪戯で異界渡りをしたせいであろう。成人してから戻ったのだがね」
「なら問題ないのでは?」
「いいや。時間に大きなズレが生じていての。これは問題だった」
「ズレ?」
小首を傾げた咲良にサチュヴァリエスが鷹揚に頷く。
「そう。恐らくはそのせいで、其方とジョイスの出会いが難しくなってしまったのだろうな」
「はあ」
咲良のそれならそれで一向に構わないという気持ちがダダ漏れてしまっていたのだろう。ジョイスにジロリと睨まれた。
二人にお構いなしでサチュヴァリエスの言葉が続く。
「だがそこで時間の強制力が働いた。今度は其方の祖母が異界渡りをし、今ここに其方が戻って来たわけだが」
ここまで聞いて咲良の思考がしばしフリーズする。
微動だにしない咲良の目の前でジョイスが手を振った。それでも反応しない咲良に少し思案すると、名案が浮かんだとばかりに彼は目を輝かせてゆっくりと彼女に顔を近付けた。
ペチッという音と共にジョイスの視界が塞がれる。
「えっと、おばあ……祖母は異世界人だったって事ですか?」
ジョイスの小さな顔をアイアンクローしたままサチュヴァリエスに問うと、彼女は鷹揚に頷いた。
咲良は言葉もなく天を仰ぐ。
(おばあちゃんがよく言ってた『咲良は遠くにお嫁に行っちゃう娘なんだねぇ』の伏線が、まさかここで回収されるなんて……てか、ひいじいちゃんが “異界渡りした” と聞いて気付けよ自分っ!)
とは言え、実の祖母が異界人とか、そんな確率は一体如何ばかりか。
咲良がサチュヴァリエスの言葉をすぐ理解できなかったとしても然もありなん。
「サクラさん、絶妙に痛いんだけど?」
そう言われてジョイスを見る。彼女の親指と中指が彼の蟀谷をぎりぎりと締め上げていた。
ああ、と声なく言ってジョイスの顔を離す。すると彼は素早く一歩下がって距離を取り、両の掌で蟀谷を擦った。
「なんでそんなに指の力が強いの」
「あ~セラピストだから?」
「? セラピストって何?」
「うーんとね、身体のツライところを揉み解して癒すお仕事、かな」
厳密にいえばセラピストにも色々あるのだが、説明が面倒くさいので細かい事は省く。
「もみ、ほぐす、だと?」
「うん。そう」
「さ……サクラに揉まれるとかうらや……んんっ。けしからんっ!!」
「けしからんって、それがお仕事だし。あとでちょっと揉んであげようか?」
羨ましいと言いかけた上でけしからんと言い換えたのを、咲良は聞き逃さなかった。そういう時は面倒くさいことを言い出す前に相手の心に寄り添い、懐柔するのが得策だ。接客で学んだ処世術である。
案の定ジョイスの顔が緩む。すぐに引き締められたけれど。
「サクラがどうしてもって言うなら……?」
「お願いします」
「しょうがないなぁ」
顔にはこれぽっちも “しょうがない” って表情は浮かんでいない。寧ろ緩みそうなのを繕おうとしているから、可笑しくて仕様がない。尤も接客で鍛えた彼女の表情筋は微笑みをキープして、実にいい仕事をしてくれている。
そんな咲良とジョイスのやり取りを見て、サチュヴァリエスがこてんと首を傾げた。
「其方の世界では、そのように指が鍛えられるようなもので身体を癒すのが普通なのか?」
言われて何気に己の指を眺めた。特に親指なんかは関節が太くなり、少々変形している。指だけでなく、前腕も上腕もなかなかに逞しくはなったか。
咲良は薄く笑みを浮かべ、サチュヴァリエスに視線を戻すと口を開いた。
「身体の癒し方には色々ありますけど、あたしの場合はそれが性に合ったので」
「ふむ。勿体ないのう」
「勿体ないですか?」
咲良のオウム返しに頷き返す精霊王を見て、「そうかな?」と首を傾げる。
「其方の曾祖母は聖女には及ばんが、なかなかの力を有する癒し手であった。其方もその力を受け継いでおるようだが」
「サチュ。咲良の世界には魔法とかの類はないよ」
「ああ、そうであったな」
「向こうの世界にもそれっぽい力はありますよ」
こちらで言うところの治癒魔法とかいうものではないが、いわゆる “手当て” の語源となった民間療法はある。療法というほど大袈裟なものでもないのだが、気持ちが落ちている時は効果絶大だ。
その “手当て” の原理を利用し、掌からの気でもって施術するものもある。何を隠そう咲良もその資格を取得した。知人に連れられて行ったサロンは、最初こそ胡散臭いと思ったのだが、施術を受けてみて目から鱗だったのだ。
まあ、もみほぐし業界のあるあるである。
気の力を使う施術が咲良との相性も良かったのだろう。しっかりとした技術力と癒しの効果で、咲良を指名してくださる方は俄然多くなった。
それが曾祖母譲りの力だったとしたらと脳裏で考えつつ、咲良が言うところの癒しを掻い摘んで説明し終えると、精霊王の双眸が柔らかく細められた。
「なれば、こちらでも役に立つであろうよ」
サチュヴァリエスの言葉に咲良が破顔し、その隣でジョイスが口を尖らせている。咲良がジョイスの様子に首を傾げていると、不機嫌な当の本人が口を開いた。
「サクラの持っている力がどの程度のものかは判らないけど、サチュが役に立つと言ったら、僕がどんなに反対したって咲良の癒しの力を使う時が来るんだよ」
「そうなの?」
ジョイスに返して、精霊王に目を移す。
「予言的な感じですか?」
そんな予言はなんとなく嫌だなぁ、とか思いながら精霊王の顔を覗き込む。そこにジョイスが嘴を挟んできた。
「予言じゃなく、そうなるように仕向けるんだよ」
「確か『働かざる者食うべからず』と言うのであろう? 花嫁とて同じこと」
「それ、良いと思います」
誰が彼女にそのような言葉を教えたのか知らないが、よく言ってくれた。
渋面しているジョイスをチラ見してうんうん頷く咲良の口元が僅かに緩んでいる。そのせいで更に彼の表情が渋くなった。
咲良の手を取ったサチュヴァリエスから柔らかな気の流れを感じる。揺蕩うように身を任せていると流れは全身を巡り、やがて静かに消えていった。
彼女の話によれば咲良の気の巡りを整えたらしい。そうする事で効率よく癒しの力を使うことが出来るそうだ。よく分からないけど有難い。
そしてもう一つ。
ジョイスから聞いていたのだろう。サチュヴァリエスにスリングショットの事を訊ねられ、何の疑いもなくドレスの隠しポケットから取り出して見せた。
ハイカーボン製のY字の棹から垂れ下がるゴムチューブ中央に革製の弾受け。咲良の手の握りに合わせたラバーグリップ。ポケットに入れて持ち歩くには厳つい代物だ。
「よくそんな嵩張る物を入れてたね」
呆れた物言いのジョイスをチラリと見て、苦笑する精霊王に目を遣った。彼女がするりと咲良の左手首に触れる。すると咲良の手首に巻き付いていたタトゥーのようなモノが蛇のように蔦を擡げ、シュルシュルと彼女のスリングショットを巻き取っていった。
「え、やだっ。ダメダメダメ! あたしの弾ちゃん返して」
「ダンちゃん?」
「スリングショットの弾ちゃん」
「……」
咲良のネーミングセンスについては兄の樹生にも散々馬鹿にされているので、可哀想なものを見るようなジョイスはサクッと無視し、今にも奪われそうなスリングショットに指を掛けて引っ張る。が、びくともしない。寧ろどんどん引き込まれていってしまう。
「いったいどんな仕掛けなのよーっ!」
思わず声を荒げた咲良に精霊王が声を掛けた。
「慌てずとも良い。加護紋中に格納しておれば、攫われても奪われることはなかろう」
「はあ!? なんで奪われること前提!」
食いつくべきはその前の言葉なのだが、平和ボケした彼女の危機意識に引っかかることなく、のほほんと宣った精霊王に勢いで食いつく咲良。そして嘴を挟むジョイスが彼女を逆撫でする。
「あはは。ごめんね、サクラ」
「笑って誤魔化すなっ」
「うん。でもさ、ポケットに入れておくより断然軽いと思うよ」
言われて手首を眺める。その隙に蔦は咲良の大事な一張を連れ去って、元のタトゥーに姿を変えた。
「あーっ!! あたしの弾ちゃんが!」
跡形もなくなったスリングショット。
茫然とする咲良に精霊王の声が掛かる。
「そう案ずるな」
「案ずるなって消えっちゃったのに!? 適当なこと言わないで」
「良いから聞け」
精霊王が右手を軽く一振りすると、咲良の肩から伸びた蔦が襟ぐりから這い出て、一瞬にして彼女の口を塞ぐ。
「其方の武器は、念じればいつでも好きな時に出せるから心配いらぬ。試しにやってみるがよい」
口を塞がれているので黙ってコクコク頷く。蔦がシュルルと一瞬で腕の付け根に戻って行くのを眺めた後、咲良は手首を睨みながら「出てこい」と口に出して念じた。向かいで「声に出さずとも良い」と精霊王の苦笑。
精霊王の言葉通り咲良の手元に戻って来ると「弾ちゃん」と思わず胸に抱きしめる。
「ドレスの隠しポケットに入れておけば、どうしたって着崩れる。加護紋に預けておけば失くすこともなく、一石二鳥であろうよ」
「確かに」
頷きながら、再び隠しポケットから黒い合皮製のケースを取り出した。
「これも入りますか?」
咲良の手の中に納まるケースを差し出してサチュヴァリエスに見せる。中で硬質な何かがかち合った音がした。
「それは?」
「鉄球です。競技用の」
中から銀色に輝く十ミリ弱の球をひとつ抓んで見せた。
「鉄球って、そんな物まで入れて重くなかったの?」
「重かったけど、ドレス姿で腰に装備つける訳にもいかないでしょ」
「ドレスのポケットに入れるのもナシだと思うよ」
「……」
すっ、とジョイスから目を逸らし「どうですか?」と精霊王に訊く。
「ああ。問題ない」
「良かった。ぶら下がった状態だと結構重く感じるのよね」
「だったら入れなきゃいいのに。というかそもそも何故、そんな物をポケットに?」
訝しむジョイスと、じっと咲良を見詰める精霊王。
「だって……訳わかんないトコに来ちゃって、お守りは必要でしょ」
「僕がいるのに」
「ジョイスを百パーセント信じたら危ない気がする」
「ひどい」
拗ねるジョイスを無視して、加護紋の中への出し入れを繰り返す。コツを掴んだところでサチュヴァリエスに促され、十メートルほど先の大木に向かってスリングショットを構えた。真一文字にゴムチューブを引き、弾受けから指を離す。銀色に輝く球が一直線に飛んで行った。
バシュッと鋭い的中音に咲良はこれでもかというくらい大きく目を見開く。その隣で「すごっ」と漏らしたジョイスの呟きが彼女の耳を素通りした。
いくら鉄球でも所詮はゴムを使った人力である。生木が相手では跳ね返されるのがオチ。良くて多少の傷を付けるくらいだと思っていたのだが……。
ぎしぎしと音をたてるようなぎこちなさで首を巡らせ、精霊王に目を向ける。
サチュヴァリエスの目は的になった樹木に注がれており、「おやまあ」とどこか感心したような声音を零すと、ゆっくりと咲良に目を向けた。
「流石、二人の子孫よのお」
大好きな祖母に似ていると言われたのに、いまは正直嬉しくない。
それはそうだろう。
(これまで普通女子として生きてきたのに、幹に大穴を開けるような怪力とか、そんなん使い道がない上に人に知られたらマジ引かれるじゃん。勘弁して欲しいわ)
因みに、その “人” の数の中にジョイスが入ってないのは、まあご愛敬である。
憮然とした面持ちの咲良の背中をジョイスがポンポンするが、なんか癪に障るのですっと離れた。
苦笑する精霊王が口を開く。
「なんだ。気に食わぬか? しかし、己が身を護る術は必要よ。其方が育った平和な世界とは違うのでな」
精霊王の目配せひとつで大穴の空いた幹から繊維のようなものがしゅるしゅると伸び、瞬く間に修復されていく。咲良が何度目かの驚愕に言葉を失くしていると「サチュは大地の精霊だからね」とジョイスが言った。
次の言葉を促すように彼の目を見る。
「この大地に与するものは総じて、サチュの分身のようなものだよ。だからサチュの庇護を失くしては存在すら危うい。肥沃な土地と豊かな実り。鉱山から採れる資源はエンデルの財源だ。そしてその管理を任せられているのが、サチュの子であるロアの子孫の僕たちだ」
ジョイスの視線が鉄球の的になった樹木に向けられる。倣って咲良が目を遣ると、そこにはもう傷ついた木はなかった。
修復された部分が瑞々しく見える。
再生された箇所にそっと触れ、樹皮の感触を確かめて小さく吐息を漏らす。掌に水の流れを感じるような気がして、そのひんやり感が咲良を安堵させた。
と同時に精霊王の力に感嘆しつつ、改めて畏怖の念を抱く。
なんと言葉にしたら良いのか解らないものが、胸に凝ったような感じに左目を眇めた。
それから間もなくして、サチュヴァリエスに促されて森を出ると、咲良と同郷だと言う老夫婦の元に向かうのだった。