習字道具を忘れてしまった
習字道具を忘れてしまった。前の晩から玄関に用意しておいたのに。寝坊して、急いで身支度を終え、靴を履いた頃には、頭の隅から抜け落ちてしまった。
学校に来て机にランドセルを置いた時、忘れ物に気づいた。昨日、千葉先生が「絶対に忘れるなよ」と教室全体を見渡しながら言っていたのに。ひゅっと身の縮む思いがした。
1時間目の習字の時間。案の定、習字道具を忘れてきたのは僕だけだった。お調子者の颯太でさえ、机の上に赤いドラゴンが描かれた習字道具を出している。
号令の後、クラスのみんなは、すずり道具や黒い下敷きなどを、自分のタイミングで用意している。文鎮を手に持って、前の席に座る友達に、ちょっかいをかけている子もいる。「なにすんだよ」と、振り向いた顔が睨んでいても、今の僕には羨ましく思えた。
「旭は、習字道具を忘れたのか?」
千葉先生がまっすぐに僕を見る。反射的に肩が上がる。
「はい」
「あんなに昨日、忘れるなと言ったのにな」
僕はなにも言い返せなかった。クラスのみんなが好奇の目を僕に向ける。心の中で「僕・私は、忘れずに持ってきて良かった」と言っているのが聞こえた気がした。いつもは、あっちこっちから近くの人と話をする声が聞こえてくるのに、こういう時に限ってシーンとしている。
「あまっている習字道具があれば貸したけど、残念ながら無い。旭、書写の教科書でも見てなさい。だけど、次の授業では、今日の分も合わせて、2倍書いてもらうことになるぞ」
えっ。そんな。習字道具を忘れた僕が悪いけど、クラスで一人だけ遅れてしまうんだ。みんなは僕の前を進んでいて、もどかしい気持ちを抱えて来週を待たなければならない。
千葉先生の指示に従い、みんなは半紙に筆を落としていく。書いている最中は、真剣そのもので、一枚書き終わった人から、安堵の息を漏らしている。
僕は手元の教科書を見ながら、上手く呼吸ができずにいた。犬のキャラクターが『原』の文字を指さして、「しっかりはらおう」と笑顔で言っている挿絵がある。普段は気にも留めないのに、目が離せず、藁にもすがる気持ちで「助けて欲しい」と願った。
誰か一人、僕と同じように習字道具を忘れた人がいれば良かったのに。たとえ、席が離れていたとしても心強かった。仲良くない友達だとしても一気に親近感が湧いて、放課後、遊ぶ仲になることがあったかもしれない。
学校に行くと楽しい日の方が多い。だけど、たまに緊張感が張り詰める嫌な日もある。嫌なことがあった次の日は、良いことがあると僕はずっと信じている。
習字の授業が始まって15分が過ぎた頃だった。廊下に教頭先生が現れた。千葉先生が教室から出て、二人は軽く話し合う。
千葉先生が教室に戻ってきた時には、右手に僕の習字道具が握られていた。真っ黒で、キャラクターなどは何も描かれていない、シンプルなデザインの習字道具。お兄ちゃんのお下がりを使っているから、表面の傷が多く、みんなのものより古い印象を感じる。
「旭、良かったな。家の人が届けてくれたぞ」
千葉先生は僕に習字道具を渡してくれた。
良かった。本当に良かった。玄関に置いてあった習字道具と今、ここで再開できるとは思っていなかった。
颯太がおもむろに拍手をした。パチパチと手を鳴らした音は、近くに広がって、最後にはクラスみんなが拍手をする形になった。千葉先生も空気を読んで、大きな手でパラパラと拍手をしてくれた。
「ありがとう」
僕はクラスのみんなにお礼を言って、さっそく習字道具の中身を机の上に出した。
一体、誰が届けてくれたんだろう。僕の家族は、お父さん、お母さん、お兄ちゃんがいる。お父さんとお母さんは共働きで、今頃、仕事場にいるはずだった。
お兄ちゃんは大学生。僕と10歳以上、歳が離れている。部屋にずっといることが多くて、最近、外に出ている姿を見たことがない。家で顔を合わせても、俯きがちで元気がない。夜中にお父さんとお兄ちゃんが言い合いしている声で目が覚めたこともある。今も家にいるはずだった。
僕の習字道具は、お兄ちゃんが届けてくれたのだろうか。不思議と、そんな予感がした。だけど確信を持つことはできない。お父さんかお母さんが届けてくれたという線も全然考えられる。
家に帰って答え合わせをするのが楽しみだ。僕は見えない家族に心の中で感謝をして、今日の遅れを取るつもりで、急いですずりの中に墨汁を入れた。ぶしゅっと弾ける音がして、底で泡が弾けた。