92.伯爵領に行きます(第三話)
魔法訓練の休憩中、リデラインは眉間にしわを寄せ、ムスっと不機嫌丸出しで訓練場の端の段差に座っていた。
(ここまで引っかかってて魔物の正体がわかんないって、いくらなんでも酷すぎない?)
解毒薬に必要であろう材料の一覧、魔物図鑑、ストウ森の膨大な資料、その他諸々。このひと月半の間にそれらと何度向き合ってきたか。
前世の記憶には欠陥がある。理解はしているし予想もしていたけれど、それにしたって重要な部分を教えてくれないのは鬼畜だ。
解毒薬の材料もまったくわからない、そもそも魔物の毒が凄惨な事態を招く原因だとも気づかない、という状況よりマシなのは間違いない。しかし、多くの人命がかかっているのだから、不満と怒りがふつふつと溢れてくるのは仕方のないことである。それに、不安や焦りも募るばかりだ。
(判明してる材料はどこで入手できるかとか在庫とか粗方調べたけど、そもそも解毒薬に必要な材料を網羅できてるわけじゃないだろうし……)
必要な材料が小説ですべて説明されていたとは考えにくい。リデラインが知らないような材料もあるはずだ。それでも八割ほどは調べられているはずなので、ここまで材料が明らかになっていてもこの薬を使わなければいけない毒を持つ魔物が予測できないということは、それほど研究が進んでいない魔物であることを示しているのだろう。
「リデライン」
眉間のしわを深くして苦慮するリデラインに声がかかる。
顔を上げると、ジャレッドとモーガンがこちらを見下ろしていた。ジャレッドは険しい表情をしており、モーガンからはどことなく不安そうな色が窺える。
「怖い顔してるけど、どうかしたのか?」
勉強中のはずのジャレッドがいて、リデラインは目を瞬かせる。それからへらりと笑って見せた。
「なんでもないわ。お兄さまはどうしてここに?」
「……窓から見えたからな」
リデラインがいつもと違う雰囲気で座っていたので、気になって様子を見にきてくれたらしい。申し訳ない。
「お前が珍しく本気でイライラしてるから、モーガンが狼狽えてたぞ」
「何かお気に障るようなことをしてしまったのかと……」
「ごめんなさい。先生は何も悪くないから気にしないで」
そんなにわかりやすく顔にも態度にも出てしまっていた自覚がなかったので、リデラインは謝罪する。そして、気をつけないとと反省した。
「今日は兄上が帰ってくるのに、テンション低いの意外だな」
今日から学園は夏季休暇に入っており、ローレンスは今頃、フロスト領に向かっている魔動列車の中だろう。
ローレンスが帰ってくるのはもちろん嬉しいのだけれど、一日中浮かれていられるほどの心の余裕は、今のリデラインにはないのだ。
明後日には祖父母が暮らしている伯爵領にみんなで向かい、翌日から拠点の設営などの準備、討伐開始の予定である。
「いよいよ討伐だから緊張してんのか?」
ジャレッドのその問いかけは、ある意味正解だった。
「そうかもね」
言いながら立ち上がったリデラインは、両手を組んで伸びをする。
「お兄さまも緊張してる?」
「そこそこ」
「そこそこなのね」
「お前が倒れないか心配だからな」
「ふふ。そっち?」
初めての本格的な討伐への心配ではなく、リデラインのほうが気がかりなようだ。傍系たちが積極的に話しかけてくるだろうから、リデラインが上手くあしらえるかは、ジャレッドだけでなく公爵家の皆が不安に思っているのだろう。
「お母さまも一緒だから平気よ」
リデラインはヘンリエッタから離れないことを約束している。護衛もつくのだから安心だ。
「そろそろ休憩は終わりだから、お兄さまも戻らないと」
そう促すと、じいっとリデラインを見つめていたジャレッドがリデラインの頬を軽く摘んでむにむにする。
「ちゃんと集中しろよな。油断してたら怪我してもおかしくないぞ。そうなったら容赦なく留守番に変更だからな」
「わかってるわ」
むにむにされたまま、リデラインはそう返した。
「ただいま」
帰宅したローレンスは、出迎えたリデラインとジャレッドを真っ先に同時に抱きしめた。リデラインはぎゅっと抱きしめ返して「おかえりなさい」と言い、ジャレッドは「なんだよ急に」とローレンスの腕を引き剥がそうともぞもぞしている。
「プレゼントありがとう。嬉しいよ。大切にする」
会ったらまず直接、誕生日プレゼントのお礼を伝えようと決めていたのだろう。嬉しさが滲み出ていて、リデラインまでつられて頬が緩む。
そんなリデラインとは異なり、ここでツンを発動するのがジャレッドである。
「長ったらしい手紙にも書いてあったし、改めて言われなくてもわかってるよ」
「全部読んでくれた?」
「俺は最初の数行で終わった」
「はは。そうだろうね」
予想していたらしいローレンスは楽しそうに笑い声を零した。
「私はちゃんと読みましたよ」
「うん。リデルは読んでくれると思ったよ」
「ジャレッドお兄さまは照れ屋さんですから」
「うるせぇ」
ジャレッドがそっぽを向いたのだろう。ローレンスがまた笑って、リデラインも声を出して笑う。
(ずっとこうして過ごしてたい)
この幸せな時間がこの先も続いてほしい。だから、討伐期間のリデラインの動きが重要になるのだ。
再会の抱擁に満足したローレンスが解放すると、ジャレッドはすぐに「先に行ってる」と邸の中に戻っていった。そろそろ夕食の時間なので食堂に向かったのだろう。耳が少し赤かったのが可愛かった。
二人になると、ローレンスはリデラインの頬を撫でて目を合わせた。その表情は先ほどまでと打って変わって少し暗い。
「父上たちから……聞いたんだよね」
「はい」
ローレンスの言葉が何を指しているのかは察せた。
実の親のこと。そして、小説にも出てこなかった――いや、もしかしたらどこかで描写されていたのかもしれないけれど、リデラインが知らなかったとあること。衝撃は未だに抜けていないけれど、どうしようもないことだ。受け入れるしかない。
心配そうな眼差しのローレンスに、リデラインは笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ、お兄さま」
頬を撫でている大きな手に自分の手を重ねて、ぎゅっと握った。




