88.入念に準備します(第七話)
夕食は終始、なんとも言えない空気感が漂っていた。とてつもなく気まずい時間だった。
そして、解散して湯浴みなどを済ませた時刻。リデラインは自分の部屋のベッドの上に座り、くまのぬいぐるみを抱きしめていた。ぬいぐるみの頭に顎をのせ、羞恥心に負けないように気合を入れながらローレンスを待っている。
ローレンスは明日の午前中にまた王都へと戻る。明後日は授業があるので当然だ。しかし、リデラインを説得できるまで毎週こちらに帰ってくるつもりのようなので、リデラインはなんとしても今日のうちに決着をつけなければいけない。
毎週移動に時間を使っては、多忙なローレンスの疲れが取れない。その要因を自分が作ってしまうのは、リデラインにとって非常に罪深いことである。
『いいか、まずは――』
ジャレッドの指示を思い出して、リデラインは顔に熱が集まるのを感じた。叫びたくなる衝動をぐっと堪え、ベッドに倒れ込んでゴロゴロ勢いよく転がる。行動に表れているように、頭の中も騒がしい。
(ああああ恥ずかしいけど成功率が一番高いどころか確実って言われたし私もそう思うのは事実なわけで今日で決めるならこれ以外にはないよね今から考えてもベストな選択肢が浮かぶわけもないしうあああ――)
「……リデル?」
ぴたっと、リデラインは動きを止めた。
素早く起き上がると、困惑した様子のローレンスが心配そうにこちらを見ている。部屋に入ると妹がベッドの上を高速で転がっていたのだから当たり前だ。
「どうかしたのかい? 具合が悪いとか……」
「いえまったくそのようなことはありませんわ」
姿勢を正したリデラインは咳払いをして笑顔のための力を振り絞った。兄の前で失態を犯してしまい、内心は盛大に荒れている。こちらが申し訳なくなるほどローレンスの顔からは心配の色が消えなくて、リデラインはどこか深い深い穴に入りたくなった。
「それよりお兄さま、お話の続きをしましょう」
リデラインがお願いすると、ローレンスは「そうだね」と、前髪を掻き上げながらこちらに歩みを進めてくる。
(かっこよすぎでしょ)
湯浴みのあとでどこか気怠げなのと眠る時のラフな格好ということも相まって、普段とは違いほんのり危険な香りを纏った色気が、最早暴力のようにリデラインの心に襲いかかった。声に出ることはなかったものの、呆気なく惑わされたリデラインははっとする。
心を強く持って挑もうと気を取り直して、抱えたままだったぬいぐるみを枕元に置いたところで、ローレンスがベッドに腰掛けた。ローレンスはリデラインと向き合うと真剣な表情で見つめるので、リデラインの胸がドキッと音を立て、心がまたぐらぐらと揺らぐ。
「どうしても同行したいの?」
「はい。私もフロストですから」
ブラコン脳に突っ走りそうになるのをギリギリの理性で抑え、リデラインは平静を装って答えた。
「リデルに実力が備わっていることはわかる。それはリデルの才能と努力が証明していて、甘く見たから父上たちも参加を認めざるを得ない結果に繋がったんだろうね」
その言葉には、デイヴィッドたちに対する非難も込められているようだった。
「ただ、リデルはまだ八歳だ。魔力欠乏症で寝込んだし、魔力もずいぶん減った。体調面の経過は順調だけど、本来は年単位で様子を見なければいけないような状態だ。この前も突然倒れたし、厳しいことを言うけど討伐は早いと思う」
時期尚早。ローレンスがそう考えるのは決しておかしなことではないし、言っていることはすべて正しい。
「そんなに急がなくても、次回の討伐からでもフロストの主力として出ることができるはずだよ。今回は見送るべきだ」
正しいけれど、譲るわけにはいかないのだ。リデラインは今回の討伐に同行しなければいけない。
(言葉で説得するのは無理ね)
案の定である。そう簡単に折れてくれるなら、今ローレンスはこの邸にいないはずだ。
リデラインはジャレッドの作戦を改めて思い出す。
『まずは精神的な致命傷を与えて兄上を地獄に落とす』
『地獄』
『そんで、天国に浮上させて浮ついたところで押せばいける』
表現は酷かったけれど、要するにローレンスがショックを受けることをするというのが第一段階だ。
「リデル。僕は意地悪をしたいわけじゃないんだ。わかってくれるよね?」
「それは理解しています。けど、私は絶対に討伐に同行したいんです。どうしてもだめだと仰るのでしたら……」
ぐっと、リデラインは顔の筋肉に力を入れた。
「お兄さまのことを、……き、き……」
「?」
「きら……、き……」
リデラインが急に言葉を詰まらせたので、ローレンスが不思議そうにする。懸命に続きを紡ごうと口を動かすリデラインだったけれど、その先が声にならなかった。
(無理ぃぃぃ嘘でも『嫌いになる』なんて言えないぃぃぃうあああ!!)
ジャレッドが言っていた地獄に落とすとは、つまり『お願いきいてくれなきゃ嫌いになります!』と真正面から宣言しろということだった。ローレンスには間違いなく致命傷となる攻撃ならぬ口撃だ。リデラインとジャレッドしか行使することができない、ローレンス側には防御のすべがない、対ローレンスの絶対的な攻撃手段である。
しかし、いざ言おうとすると、リデラインの心と体がそれを拒絶してしまっている。
(よし。諦めよう)
どうしても実行できないので、リデラインは作戦の前半を省くことにした。効果は半減してしまうけれど、リデラインには不可能な手段だ。時には潔さが大切である。
というわけで、リデラインはベッドの上を移動してローレンスに近づいた。
黙ってリデラインの動きを見守っているローレンスの服の袖を掴んで、リデラインは心中で自分を叱咤する。身を乗り出して――ローレンスの頬に口づけをした。
ローレンスが息を呑む。一瞬だけ触れて離れたリデラインは、大好きなりんごのように赤面したまま、吃りながらも追撃した。
「許可していただけたら、……も、もう一回してあげてもいいです、よ」
緊張と羞恥心でパニックになったせいで、なぜか上から目線な文言になってしまったけれど、そこは今は重要ではない。
(どうよお兄さま!!)
ひとまず作戦を成し遂げたことで、リデラインはテンションがおかしくなっていた。現実逃避とも言う。
ジャレッドの作戦の全貌は至極単純だった。『嫌いです』宣言でローレンスに致命傷を与え、頬へのキスというご褒美で完全回復させる。落として上げて、更にまたご褒美を目の前にちらつかせることで、こちらの要求を呑ませるというものだ。
リデラインの羞恥心だけが問題だと思われていた作戦だったけれど、思わぬトラップがあったため、前半は実行できなかった。それでも充分、効果的だろう。
ローレンスはというと、暫く石のように固まっていた。それから片手で自身の顔を覆うと、大きく息を吸いながら天を仰ぐように顔を上へと向け、また動かなくなった。視界は手で塞がれているし、なんなら目を閉じている。
これはどういう反応なのかと、リデラインは唐突に不安に陥った。ここはまた更に追撃をするべきだろうか。でもちょっと精神的に厳しい。
「……リデル」
体勢は変わらずだけれどようやくローレンスが声を落としたので、リデラインは「はいっ」と返事をした。声が裏返った。
「――拠点で、母上から離れないって約束できる?」
「! はい!」
「騎士を護衛につける」
「はい」
「体調に変化があったらすぐ周りに言うこと」
「はい」
「母上や護衛の言うことをよく聞いて、危ないことはしないように」
「はい」
「傍系が絡んでくるかもしれないけど、遠慮なくボコボコにするんだよ」
「はい」
「何かあったら自分の身の安全を第一に考えるんだ」
「はい」
一つ一つ、リデラインははっきりと返事をする。ローレンスは顔から手を離すと片膝を立て、そこに腕と顔をのせて上目遣いでリデラインに視線をやった。
「わかった、僕の負けだ。あれはずるい」
観念した笑顔を見せたローレンスに、リデラインは心臓を撃ち抜かれた。
「お兄さまこそ、そのお顔はずるいです……」
「お互い様だね」
上品に笑い声を零すと、ローレンスは「はい」と頬をこちらに向ける。
「もう一回、してくれるんだよね」
「ぅ……しなきゃだめですか?」
「リデルが言ったんだよ。撤回するなら僕も参加許可を撤回する」
「んんん」
リデラインは唸って、心の準備の時間をもらった。
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