75.放置はできません(第一話)
マナーレッスン、ダンスレッスン、ピアノレッスン、その他諸々。今日の予定を済ませたリデラインは、自室のソファーに倒れ込んだ。
「つかれた……」
「お疲れ様です、お嬢様」
ベティがすかさずりんごジュースが入ったグラスをくれたので、体を起こして喉を潤す。疲弊した体に甘さが染み込んでいく。
「本日はあまり集中できていませんでしたね」
今日はレッスンを担当している先生たちから注意を受けることが多かった。ベティの言うとおり、レッスンに集中できなかったためだ。
「うーん、ちょっとね」
ジュースを半分ほど飲んだところで、リデラインはジュースの水面を見つめながら考え込む。
オスニエルは、公爵家に来た目的がもう一つあると言っていた。それがどうにも引っかかっているのだ。
(見過ごしてはいけない何かを忘れてるような……)
なぜかと問われると根拠はない。それでも重大な何かがある気がして、ずっとモヤモヤしている。
リデラインの顔がどんどん深刻になっていくのを見て、ベティは微笑ましそうに表情を和らげた。
「ローレンス様へのプレゼントを悩んでいらっしゃるのですか?」
「それも大きいけど! 何贈ったらいいかなぁ」
「お嬢様からの贈り物でしたら、ローレンス様であればなんでも嬉しく思われるのではないでしょうか」
「そういうことが聞きたいんじゃないの」
みんな似たようなことしか言わないので、まったく参考にならない。
昼食はバラバラだったけれど、夕食はオスニエルとヒューバートも同席し、六人でとることになった。そこで話題に上がったのは家族団欒な明るいものではなく、フロストの者としてのとても真面目な話――魔物討伐についてだ。
「ストウ森の魔物が大体二年から五年ごとに急激に増加することは知っているだろう。近年は二、三年と間隔が短いことが多いのだが、今年も増加の兆候が確認できている」
フロスト家門の領地は国の西部から北西部に集中している。ストウ森は家門の領地において最大級の広さの森で、魔物が多く生息しており、生態系には謎が多い。
定期的に増加する魔物を討伐するのはフロストの重要な役割で、傍系も多く参加する。ストウ森の魔物の種類、生息域などについて、フロストの者は幼い頃から叩き込まれるので、フロストの常識と言えるだろう。リデラインも勉強済みだ。
『ストウ森の討伐で――』
頭の中に突然文字が浮かび、リデラインはぴたりと動きを止めた。
(討伐で……?)
その先は何も浮かばなかった。思い出せそうで思い出せないもどかしさに、無意識のうちに眉間にしわができる。
「ジャレッドも討伐に参加するか?」
「俺が?」
デイヴィッドに訊かれて、ジャレッドは目を丸くした。リデラインも意識が一気に現実に戻り、驚きを隠せない。
討伐には危険がつきものだ。それもストウ森ともなれば、その危険度はぐんと跳ね上がる。だというのに、十歳のジャレッドを参加させようと考えるなんて。
「ヒューバートの提案だ」
「森の浅い部分ならそれほど危険な魔物はいないし、いい経験になると思う」
これがもう一つの本題だったのかと、リデラインは察した。
ローレンスがストウ森の討伐に初めて参加したのは八歳だけれど、それは言うまでもなく特殊な例なので基準にはできない。
十歳は早いと考えるのが一般的な意見だと思うけれど、デイヴィッドとヒューバートは可能だと判断している。だからこうしてジャレッドの意思を確認しているのだ。
「ストウ森の魔物討伐は家門の重要任務だし、ジャレッドもいずれは参加することになるだろうから、今でもいいんじゃないかと思ってね。もちろん、安全には十分配慮する」
小説では確か、ジャレッドがストウ森の魔物討伐に初めて参加したのは十三歳の時だった。
これはおそらく、ジャレッドが魔法使い試験に合格したから起こった変化の一つだろう。魔法使いとして実力があると認められたから、ジャレッドに機会が与えられている。
「強制ではないよ。もし参加を望むなら、一度近くの森でテストは行うことになる」
「テスト?」
「最低限動けるかどうか、実際に魔物を狩ってもらって確認するってことだね」
ジャレッドの疑問に答えたのはオスニエルで、メインの肉料理をナイフで切りながら説明を続けた。
「ホーンラビットみたいな可愛らしいものじゃなくて、ファングボアやコバルドッグくらいのランクの魔物が狩れたらクリアさ。晴れて参加決定」
ホーンラビットは角があるうさぎの魔物で、危険度のランクは相当低い。愛玩動物として飼育している者もいるほど扱いやすい。ジャレッドはホーンラビットなら魔法訓練の一環で狩りの経験があったはずだ。
大きな牙と凶暴性が特徴の猪の魔物であるファングボア、俊敏性と群れでの連携、青い毛並みが特徴の犬の魔物であるコバルドッグは、フロスト公爵領に生息するメジャーな中型の魔物である。ストウ森にも生息しており、ストウ森の魔物の中では『それほど危険ではない魔物』に分類されている。その魔物を狩る実力があることが、討伐に参加できる最低限のレベルということだ。
「討伐はローレンスの帰省を待って、来月の下旬を予定しているそうよ。時間はあるからゆっくり考えるといいわ」
ヘンリエッタが優しく声をかけると、少し視線を落としていたジャレッドが顔を上げる。
「……参加したい。参加する」
真剣な顔つきで表明したジャレッドに、ヘンリエッタとデイヴィッドが瞠目する。こんなにすぐ決めるとは思わなかったのだろう。
リデラインも両親と同じ心情だ。ヒューバートは安全に配慮すると言っていたけれど、森での討伐という性質上、危険が隣り合わせであることに変わりはないのだから。ほとんど躊躇いなく決意できるほど簡単な選択ではないはずである。
一方のヒューバートとオスニエルは満足そうに微笑んだ。
「そう言うと思った。じゃあ早速、明日にでも腕試しをしようか」
とんとん拍子に話が進んでいくなか、リデラインは言い知れぬ不安が膨らんでいくのを感じていた。




