68.一生の不覚です(第一話)
青い顔で地面に横になっているジャレッドの手を握りながら、リデラインは恐怖に呑み込まれそうになっていた。
「かはっ」
「お兄様!」
ジャレッドが血を吐いて咳き込み、リデラインは悲鳴に近い声をあげる。悪い想像が頭を埋め尽くしていく。
物語の中でも重要な立ち位置にいるキャラクターで、主人公と王太子が結ばれるための――主人公が王太子への気持ちをはっきり自覚する機会を与えるための当て馬。それが小説のジャレッド・フロストだった。だからこんなところで死ぬはずはない。死ぬはずはないのに――。
(――もし、これが……)
リデラインが変わったから起こった、リデラインが導いてしまった、本来ならば存在しなかった展開だったとしたら。
『リデルがあのタイミングで魔力を送り込んだのは正解だった。騎士団までジャレッドの体は持たなかったはずだ』
『お前が兄上との訓練で、魔力で木を再現してるのを偶然見かけた。俺は魔力操作の訓練は終わってるけど、お前ほど繊細な腕はねぇんだ。魔力で木をあんなに緻密に再現するなんてできない。それをやってのけたお前を目の当たりにして、焦った』
『それで衝動的に、限界とかも考えずにこっそり魔法の訓練をしてあの様だ』
頭の中に言葉が流れてくる。
リデラインが選択を間違っていたら、ジャレッドは死んでいた。その確信を得てしまった。
物語はすでに、本来あるべき道から逸脱している。だからこそ、縁のなかった悲劇に見舞われる人たちが出てくるのだと痛感した。
リデラインが、導いてしまった。
「……お兄さま?」
ふと、リデラインは気づいた。握りしめていたジャレッドの手に、まったく力がないことに。
力なく仰向けに倒れているジャレッドの顔を見つめて、恐怖が更に膨れ上がっていく。
「お兄さま……お兄さま、お兄さま!」
必死に呼んでも反応はない。肩を掴んで揺さぶっても、ジャレッドの目は開かない。
「ッお兄さま!!」
まるで死んだように、ぴくりとも――。
「――っ!」
目を開くと天蓋が映った。リデラインは大きくて速い鼓動を感じながら、荒い呼吸を繰り返す。
汗で濡れている感覚。隣にはベティ。窓からの光で明るい部屋。
先程までの光景は夢だったと気づいて、呼吸も安定して、ひとまずゆっくり息を吐いた。起き上がり、くまのぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめる。
最近はいつもこうだ。悪夢に魘される。
最初の頃は前世の夢ばかりだった。李都に責められ、拒絶される夢。今はジャレッドが死にかけたあの場面が多い。
ジャレッドだけではない。ローレンスや他の人たちも出てくる。誰かを失う夢を、傷つける夢を、何度も見てしまう。
失うのも傷つけるのも全部、瑠璃とリデラインのせいだった。
本当にすべてがつらい場面ばかりで、心が引き裂かれるような気分を、夢だと気づくことなく現実のように経験する。そして、起きても夢の記憶があまり薄れていかずに強烈に残る。
ローレンスが一緒に眠ってくれると、不思議と夢は見ない。リデラインにとってそれほどローレンスという存在が絶対的なものなのだろう。
「ん……お嬢様?」
ベティが眠そうに目元をさすりながら体を起こす。顔を上げたリデラインはへらりと笑みを浮かべた。
「おはよう、ベティ」
リデラインの朝の挨拶にベティは瞬きをして、リデラインをじっと見つめて、心配そうな眼差しをしながらも笑顔を見せる。
「おはようございます、お嬢様。湯浴みの準備をしてきますね」
「……うん、ありがと」
夢で起きて、湯浴みをして、朝食の時間にジャレッドと顔を合わせて、無事であることに安堵する。夢は夢であったのだと確認する。なんとか気持ちを切り替える。それがリデラインの日課になっていた。
◆◆◆
リデラインたちに同行して王都に滞在していた際、ベティは執務室で一度だけ、二人きりでローレンスと対峙していた。
リデラインとジャレッドを狙っていた犯罪組織、彼らに依頼したヨランダやペリング家、そしてヘイズ家の者たちを捕らえる作戦が成功したことはすでに報告を受けている。しかし、ローレンスの口から直接詳しい話を聞きたかったこともあり、改めて処遇などを確認させてもらった。
リデラインが生まれたヘイズ家。自分たちの贅沢のために子供を売るようなことを平気でする、どこまでも身勝手で愚かな現当主夫妻。親としての責任を放棄した人たち。
彼らの気持ちなど理解したくもない。あんな家ではなく、将来は記憶もほとんど残らないであろう三歳でフロスト家の娘になってここで育ったことは、リデラインにとって良いことであったと思いたい。ヨランダの件があったので胸を張って主張はできないけれど。
ただ実際に、リデラインはヘイズ家でのことをすでに忘れている。何も覚えていないようだ。幼いからというのもあるだろうけれど、それほど記憶から消したい生活だったとも捉えることができる。
「――今回捕らえた全員、予定どおり労働刑だ。二度とリデルに手出しはできない」
そう告げたローレンスは、無表情でありながら怒りを滲ませた空気を纏っており、わざわざ聞かずとも心情がよく伝わってくる。愛する弟妹を標的にした者たちに対する情けなどローレンスが抱くはずもないので、ただただ腹立たしく、不愉快さが薄れることなく継続しているのだろう。
ローレンスに初めて会う人は、ほとんどが彼は優しくて温厚な印象だったと言う。事実、ローレンスは基本的には人に優しく接するタイプである。しかしそれは無害な相手に対する態度でしかなく、本質はとても恐ろしい。
長年フロスト公爵家に仕えていたヨランダを躊躇いなく敵として断定し、容赦なく強制労働刑にする選択をした。ヨランダの年齢やこれまでの思い出など関係ないと、簡単に切り捨てて。ローレンスはそういう人間なのである。
「それよりリデルのことだ。あまり睡眠がとれてないって話だったけど」
「よく魘されているようです。誰かと一緒に眠ると多少はよくなるそうですが……」
ローレンスがリデラインと眠っていた時は、魘されているような気配はなかった。リデラインがろくに眠れていないことが判明したのは、ローレンスが王都に来てからだ。
そもそも、リデラインがローレンスに一緒に眠っていいかとお願いしにきたのは、ジャレッドとリデラインが魔力欠乏症で倒れて数日後のことだった。
「時期的に見て、ジャレッドが死にかけたのがトラウマになってるんだろう。それも一番近くで目の当たりにしているからね」
睡眠薬を処方されてはいるけれど、リデラインの体質的に合わないようで、体調に影響があったらしい。そこからは弱い薬に変更したとのことで、思うような効果は得られていないと聞いている。
できることは、一人の時間を減らすことくらいだろう。
学園に通わなければならないためにそばにいることのできない自分の立場がもどかしく、ローレンスは眉を寄せて息を吐く。
「なるべく一人になることがないよう、くれぐれも気をつけてくれ。それと、ジャレッドと過ごす時間を増やしたほうがいいかもしれないな。ジャレッドには僕から上手く言っておく」
妹の心に傷を負わせたからと、改めて理由を告げるのは酷だ。それはリデラインも望んでいないだろう。
ジャレッドは十分に反省しているし、特にリデラインに対して大きな罪悪感を抱いている。それを更に増幅させるようなことはしたくない。
「そのうち良くなるといいけど……」
こればかりは時間に頼るしかないのかもしれない。
◇◇◇




