66.予想外の出会いです(第九話)
頭が痛んで、リデラインはぐっと眉を寄せた。
『殿下、婚約者の私を差し置いてあの娘とお茶会をなさったと耳にしましたわ』
頭の中に流れたのは、悪役令嬢リデライン・フロストと婚約者である王太子がいる場面だ。
学園の廊下で、悪役令嬢リデラインは不機嫌であることを隠しもせずに王太子を非難する。
『一体どういうおつもりなのですか? 身分も弁えずにあの娘がつけ上がるだけでなく、私の立場が悪くなります』
『彼女は魔物の弱点となる光属性の魔法の使い手だ。王太子として貴重な人材と友好的な関係を築く時間は欠かせない。それくらいわかるだろう』
『しかし、彼女は元平民、今だって所詮は男爵家の娘ですわ。そもそも愛人の娘だなんて穢らわし――』
『愛人の娘であろうと、その罪は親にあって子にはない。それに、平民は国を支える存在だ。民がいなければ国は国として成り立たず、我々王族や貴族も存在し得ない。我々は常に民によって支えられていることを忘れてはならない』
文字ではない。漫画でもない。鮮明な光景だ。まるで実際に経験したことを思い出しているかのような感覚だった。頭痛を伴いながら、記憶が掘り起こされていくような。
『――リデライン・フロスト。君との婚約は正式に破棄された』
場面が変わった。フロスト家のタウンハウスの、リデラインの自室だ。
良いとは言えない顔色でベッドに座っている悪役令嬢リデラインは、王太子の宣告に声を震わせる。
『で、んか……』
『光属性の魔法使いを魔法で攻撃しようとしたんだ。それに、魔力暴走で魔力も失った。横柄な振る舞いばかりで人望もない。王太子妃となる者として、君は相応しくない』
王太子の軽蔑の眼差しが実際に自分に向けられているようで、恐怖が湧き上がる。呼吸が浅くなっていく。
『私には、貴方だけなのに……私は……っ』
王太子に縋ろうとする悪役令嬢リデラインの感情が流れ込んできて、涙が滲んだ。
頭が痛い。胸が苦しい。痛くて苦しくて、悲しくて寂しくて、絶望感に襲われる。
『家族も見せかけの愛だけで、私を大切にしてくれない……貴方だけが希望なのに――……』
(――私はただ貴方をとられたくなかっただけなのに、どうして……っ)
「リデル!」
肩を掴まれて、愛称を呼ばれて、リデラインははっとした。
涙で歪んでいる視界に、焦った様子の兄の顔が映っている。
「ぁ……おにい、さま」
リデル、と。リデラインをそう呼ぶのは、ローレンスだけだ。大好きな兄。大好きな推し。リデラインを愛してくれる、何があってもリデラインを見捨てることのない人。
「落ち着いて、ゆっくり息をして」
ローレンスの声が耳から全身に染みていくように安心感をくれて、リデラインの呼吸が安定していく。ローレンスはリデラインの眼鏡を外して、頬に手を添えた。
「頭が痛い?」
「……少し、落ち着きました」
リデラインはしゃがんでいるローレンスの肩に自身の額を押しつけるようにして抱きついた。すると、ローレンスはリデラインの背中を優しく叩く。
「リデライン!」
ジャレッドの驚きが込められた声と走ってくる足音が聞こえた。
「どうしたんだ!?」
「頭痛と過呼吸だ。落ち着いたみたいだけど帰るよ」
「わかった」
ぼんやりと兄たちの会話が耳に入ってくる。せっかくの観光なのに申し訳ないと思うものの、これ以上歩ける余裕はない。
「ラリー」
「今日はもう帰る。猫のほうはあの子に任せよう」
「任せるって、あれたぶん……」
「気になるなら君が対応してくれ」
ローレンスに抱き上げられて、リデラインはぎゅっとローレンスにしがみついた。
猫の様子を確認しに来た青い髪の少年は、連れの様子がおかしいことに気づいて戻っていった。魔法で猫を助けた青年が、どうやら体調を崩したらしい少女を抱え、青い髪の少年を連れて去っていく。茶髪の青年もそれに続いた。
「リデライン……」
青い髪の少年が叫んだその名前は、聞き覚えがあった。
「フロストの三兄妹ですね」
一緒にいた護衛の言葉に、少年はやはりかと納得する。
フロスト家の次男が魔法使い試験を受けていたらしいという話は聞いていたので、ひと目でジャレッドには気づいた。そして、一緒にいる者たちが誰であるかも、必然的に察せた。
史上最年少で一級魔法使いとなった次期当主と、莫大な魔力を持ち自身の婚約者候補として有力な令嬢。
学園に通っているローレンスはともかく、まさかこんなところであのフロストの人間と出会うことになるとは。
「ご令嬢は体が弱いのでしょうか」
「魔力暴走を起こしたという噂があったから、その後遺症かもしれないな」
魔力が多いからこそフロスト家の養子になり、その魔力を失ったらしい娘。勝手に王太子の有力な婚約者と見做しておいて、魔力を失ったのならやはり考え直すべきではなどと言っている貴族がいるけれど、それでもフロストを取り込めるなら、とまだ推している者もいる。フロスト側の意見、そして本人の意思を確認することもせずに。
未だに面識はない。けれど、興味はある。ローレンス・フロストが溺愛しているという妹に。
「みゃー」
猫の鳴き声に、少年――ジェレマイアは視線を落とした。
「とりあえず、この猫をどうにかしないとな」
◇◇◇
ベッドで眠っているリデラインの前髪を、ローレンスはそっと横に流す。
邸に戻ってすぐに医者に診察をしてもらい休ませたことで、悪かった顔色も戻り、リデラインは落ち着いている。
医者の診断では、ストレスが原因であのような症状が出たのだろうとのことだった。猫が落ちてしまったことに驚愕してそうなったのか、他に何か理由があるのか、どうにも判断がつかない。
以前も似たようなことがあった。その時も頭痛の症状があったらしく、熱を出し――そして、リデラインは変わった。
よく似ているけれど、今回は熱はなさそうなので少しは安心である。
(ストレス……)
ひとまず安心だけれど、本当にストレスの原因がわからない。
猫以外だと、あの場で予想外のことがあったとすれば、あの琥珀色の瞳を持った少年の存在くらいだ。しかし、それが頭痛や過呼吸を引き起こすほどのストレスに繋がるとは考えづらい。リデラインはあの少年とは面識がないのだから。
ジェレマイア・ヴァーミリオン。この国の王太子。
リデラインは王太子の婚約者となってしまうことを懸念しているようだけれど、王太子のことはよく知らないはずだ。嫌いだから婚約を嫌がっているわけではないだろう。やはり今回の症状の原因には結びつかない。
昨日、王家からジャレッドへの招待状が届いた。今朝のうちに断りの手紙を送ったけれど、ジャレッドが王都にいることを王太子が知っていてもおかしくはない。
王太子はおそらく、ジャレッドに気づいたはずだ。一緒にいたローレンスたちにも。それでもローレンスたちが去ろうとしたところで声をかけなかった。リデラインの異変に気づいて気を遣ってくれたのかもしれない。
「ん……」
リデラインが身じろぎして、ゆっくり目を開ける。瞬きを繰り返したリデラインはローレンスに気づくと、「おにいさま……」と呼んだ。
「夜だ。まだ眠っていなさい」
「……ごめんなさい」
「何も謝るようなことはないよ。体調不良は仕方ないからね」
リデラインの隣に寝転んで、ローレンスは微笑む。
「ほら。眠って」
指の裏で頬を撫でてやると、リデラインは目を閉じてすり寄り、そのまま安心しきったように眠りに落ちた。




