58.予想外の出会いです(第一話)
うっすらと目を開いたリデラインは、しぱしぱと瞬きを繰り返す。寝起きで霞む視界が定まってきて、脳も覚醒してきて、部屋の明るさで朝になったのだと理解した。
とてもすっきりした目覚めだ。こんなに清々しい感覚は久々で、質の良い睡眠が取れていたのだと実感が湧く。今日は夢も見なかった。
隣にあるはずのぬいぐるみを手探りで掴んで抱き寄せて横向きになると――腕が見えた。
ぱちり、と一度瞬きをして、視線を上げていく。
枕を背もたれにしてベッドに座っているローレンスが、リデラインを見下ろしてにっこりと笑っていた。
「おはよう、リデル」
「……おはようございます、お兄さま」
そうだった、と思い出す。
昨日王都について、ローレンスと一緒に眠ったのだ。だからこんなに頭がすっきりするほど快眠だったのだろう。リデラインにとってはローレンスの存在に安眠効果がある。
ローレンスは先に目が覚めて少し時間が経っていたのか、隣で本を読んでいたようだ。学園の教科書だろうか。予習だったりするのかもしれない。
ちょうどリデラインの位置からだと兄の後方にある窓からさす外の光も相まって朝から輝いている兄は、こうして本を読んでいる姿もとても様になっていた。
リデラインがむくりと起き上がると、ローレンスは手を伸ばしてリデラインの髪を整え、それから顔を寄せてくる。自然な動作で額にキスをして、それからまたキラキラな笑顔を見せるのだ。
「ほら。リデルもおはようのキスは?」
そう訊ねながら、自身の頬をちょんちょんと軽くつついて催促するローレンス。
リデラインは震えながら顔を真っ赤に染め上げて、全力で叫んだ。
「無理です!!」
昨日は敬語なしの要望にリデラインが『無理です!』宣言をすると暫く引きずるほど物凄く落ち込んでいたローレンスだけれど、今日の宣言はまったくのノーダメージだった。
そして、兄妹三人での朝食が終わり、ローレンスが学園に行くからとジャレッドとリデラインが見送りで邸の外にいると、ローレンスは今度もやはり楽しそうに「いってらっしゃいのキスは?」とねだってきた。それにリデラインがまたも「無理です!!」と返すと、「残念」と笑顔のまま通学していったのだ。
「ジャレッドお兄さま、さっきの見たでしょ? あれ以外にもローレンスお兄さま、眠る前に『おやすみのキスは?』って訊いてくるし、朝起きたら『おはようのキスは?』って!」
「だろうな」
「お詫びと代わりで昨日の一回だけのつもりだったのに! だから恥ずかしいの我慢したのに、お兄さますごく楽しんでどんどんおねだりしてくる!」
「ベティの提案に乗ったのは回数の問題だったのか……」
どことなく呆れたような眼差しが突き刺さる。
敬語を使い続けるより、一回のキスの羞恥心を我慢するほうが遥かに気が楽だとリデラインは思ったのだ。こうなるならもっと何か別の方法を考えるべきだった。
リデラインが唸っていると、ジャレッドの視線は次にベティへと向けられた。
「予想してなかったのか?」
「存外ローレンス様も照れてご満足されるのではないかと思ったのですが、ローレンス様のほうが上手でした。なめてました」
「あっそ……」
呆れを加速させたらしいジャレッドは、リデラインの肩にぽん、と手を置く。
「まあ頑張るんだな。じゃ、俺は試験対策あるから」
「お兄さま〜!」
もっと話を聞いてほしいし解決策を一緒に考えてほしいものの、ジャレッドは試験前なので貴重な時間をこんなわがままで奪うこともできず。リデラインはジャレッドが訓練場に向かうのを大人しく見送った。
◇◇◇
昼休みに食堂をネイサンと共に歩いていたローレンスは、周囲からの普段どおりな熱烈な視線を気にすることなく席についた。
「なーんか今日のお前、いつも以上にキラキラしてる気がする」
正面に座ったネイサンがそんなことを言い出すので、ローレンスはメニューブックを開きながら「そうか?」と返す。
ほとんどの生徒が貴族の子女であるこの学園の食堂はレストランのようになっており、料理を振る舞うのは一流のシェフだ。給仕も徹底的な教育を受けたウェイターたちが行う。
「たぶんそんな変わってないし、相変わらず熱々な視線を送ってきてる女の子たちですら気づいてないと思うけど、俺はわかる」
ニヤリと、ネイサンは口角を上げた。その表情からは愉快だという感情が伝わってくる。
「とうとう彼女できたのか?」
「ありえもしないこと言ってないで、メニュー決めなよ」
冷ややかにそう返したローレンスはメニューブックのページをめくる。どれを注文しようかと考えながらふと思い浮かぶのは、邸にいる弟妹のことだ。
今頃はあちらも昼食の時間だろう。ジャレッドはともかく、人見知りのリデラインが使用人たちと上手くやれているか心配で仕方ない。
緊張してしまうだろうからと昨日の出迎えにはあえて使用人たちを出さなかったので、リデラインはちゃんと顔合わせをしたいと、今日は邸を回って少人数ずつに挨拶をするのだと言っていた。使用人たちもきっとリデラインの可愛さにデレデレになること間違いなしである。
リデラインは本当に可愛い。今日だって寝顔はまるで天使のようだったし、見送ってくれた時にローレンスが頬へのキスをねだると好物のりんごのように顔を赤くして、恥ずかしがりながら怒っていた。愛おしくてたまらない。
その隣でジャレッドが半目になっていたのもよかった。
「――なあラリー」
「ん?」
「お前ほんと、その顔やめろ。女の子たちには刺激が強すぎる」
顔を上げたローレンスが怪訝に眉を顰めると、ネイサンがため息を吐いた。
「妹ちゃんから新しい手紙届いたのか? だからあんな蕩けそうな顔してたんだろ」
指摘されて、ローレンスは顔が緩みまくっていたことに気づく。
抑えようと意識はしているのに、油断するとすぐこれだ。気をつけないと、この眼前の友人は鋭い観察眼を持っているので、ローレンスの機嫌から弟妹がタウンハウスにいることを察してしまう可能性が高い。要注意人物だ。
ネイサンのことは友人として好ましく思ってはいるけれど、男として最低だという評価もしている。リデラインには絶対に会わせたくない。
「……まあそんなところだね。顔に出てたか?」
「思いっきりな」
ネイサンは「自覚なしだったか」と言いながら椅子の背もたれに体を預ける。
「まじでわっかりやすいねぇ、お前。普段は取り繕うの上手いのに」
「取り繕ってるつもりはないんだけど」
「はいはい、そうだな。お前のは全部素だよな」
ようやくメニューブックを開いて昼食を選び始めたネイサンは違和感など覚えていないようで、ローレンスは内心ほっと安堵の息を吐く。
ネイサンはその性格で培ってきた人脈が広い。ジャレッドが試験を受けるとすぐにネイサンの耳にも届くだろう。もしかすると事前に連絡もなく邸に押しかけてくるかもしれない。
ジャレッドに会わせるだけならまだいい。ただ――もし、リデラインがいることにまで勘づかれてしまったら。万が一にも二人が邂逅して、外見が無駄に整っていて社交性もあるこの女たらしに、リデラインが興味を持ってしまったら……。
「おいラリー、凍ってる」
「あ」
「あと顔が怖かった。笑顔なのにすげぇ怖かった。何考えてたんだよ……」
最悪な想像に呼応して無意識に魔力が溢れていたようで、持っていたメニューブックがパキパキに凍りついていた。




