57.出発と到着の裏で(第八話)
精神的なショックから立ち直れないままふらふらの状態で帰宅したローレンスは、出迎えてくれた執事にローブを渡し、食事の準備をお願いした。
一度着替えようと自室に向かう途中、廊下の向こうからパタパタとリデラインが駆けてきて、ローレンスは目を丸める。
ローレンスの前で立ち止まったリデラインは、大きな銀の瞳でローレンスを見上げた。
「お兄さま、お帰りなさい」
「リデル……」
誰かがローレンスの帰宅をリデラインに教えたのだろう。
「ただいま」
ローレンスがしゃがんで目線を合わせてそう返すと、リデラインはもじもじしながら「あの」と真剣な顔でローレンスを見つめる。
「さっきはすみませんでした。無理って、嫌なんじゃなくて、えっと、お兄さまのことは大好きで、尊敬してて、だから、なんだか恥ずかしくて、それでっ……」
説明しようと必死にリデラインが紡ぐ言葉はまとまっておらず、本人もそれを自覚していて焦りや緊張が滲んでいる。
ただ、真意は伝わってきた。敬語をなくすのは断固拒否していたけれど、嫌いなわけではないということをとにかく伝えたいのだろう。それから、ローレンスにショックを与えたことに対する謝罪も。
ローレンスはふっと表情を和らげて、優しく声をかける。
「大丈夫だよ、リデル」
「お兄さま……」
「リデルが僕を嫌いじゃないってことはわかってる。謝罪も受け取った」
そう言っても、リデラインの顔は晴れない。
こんな顔をされてしまうと、ローレンスのほうが申し訳なくなってくる。兄なのだからその場で上手く受け流すことができていればよかったのに、取り繕えなかったためにリデラインが引きずってしまうことに繋がったのだ。
「ずっと気にしてたのかい?」
「……お兄さまを傷つけてしまったので……」
「大丈夫だよ、本当に。僕こそごめんね、そんなに気にさせてしまって」
リデラインの頬を撫でると、リデラインは照れながらも擦り寄ってくれた。
弟妹に対する愛情が重いことは、ローレンス自身も理解している。だからこそ、こうしてローレンスを受け入れてくれるリデラインには救われているのだ。
「敬語はゆっくり待つよ。性急すぎたね、ごめん」
ローレンスが謝ると、リデラインはぎゅっと唇に力を入れて、ローレンスに近づいた。そして――ローレンスの頬に顔を寄せて、触れた。
何をされたのか、ローレンスは触覚が得た情報をすぐに処理できなかった。だから、リデラインが真っ赤な顔で離れていく理由もわからなかった。
「あの、埋め合わせというか、ごめんなさいでもあるんですけど、その、代わり、です」
また拙い可愛らしい説明を挟んで、リデラインは恥ずかしそうに俯く。
ローレンスが固まったまま凝視していると、リデラインは恥ずかしさに耐えかねて声を上げる。
「お兄さまはこんな時間まで予定があって忙しかったと思うので、今日はベティと一緒に寝ますね! おやすみなさい!」
矢継ぎ早に告げてくるりと振り返ったリデラインの手を、ローレンスは反射的に掴んだ。引き寄せて、小さくて華奢な体を後ろから抱きしめる。間違っても痛みを感じさせないよう繊細に、優しく、けれど逃がさない力を加えて腕の中に閉じ込めた。
「だめだよ、リデル」
「っ!」
「僕がいるんだから、ベティには譲れない」
腕の中で、リデラインはかちこちに固まっている。
「王都に来たら毎日一緒に眠るって手紙で約束したね。破ったらだめだよ」
「で、でも」
「離れている間は仕方ないけど、同じ家にいて浮気はだめ」
「浮気!?」
予想外の表現だったらしく、リデラインが驚愕する。けれど、ローレンスからするとまさしく浮気以外の何ものでもない。
リデラインはベティにかなり心を許している。頼れる人が多いのはいいことではあるとは感じつつも、ローレンスの中に嫉妬心が生まれないと言えば嘘になるのだ。
学園に通っているローレンスはただでさえリデラインと過ごせる時間が限られているのに、侍女のベティは一日のほとんどをリデラインと過ごしている。兄のローレンスよりも。それが羨ましくて妬ましい。
「一週間でまた離れ離れになってしまうんだから、約束は守ってもらうよ。でないと僕は学園をサボって、リデルたちを追いかけて領地に帰るかもしれない」
「……それはいけないことです」
「うん。だからそうさせないでくれ」
「ぅ……はい」
「いい子だ」
耳が真っ赤なので、顔もかなり熱を持っているのだろう。見なくてもわかる。
愛おしさが溢れて、ローレンスはリデラインのこめかみにキスをした。すると恥ずかしさの限界を迎えてしまったようで、リデラインは「お兄さま!」と赤い顔で非難する。それにローレンスは笑うのだ。
リデラインはジャレッドと違って割とくっついてくれるし、こちらからくっつきに行くことも許してくれるけれど、ローレンスが押しまくると恥ずかしがる。ジャレッドのように恥ずかしいから嫌だと言うこともあまりないので、ついついやりすぎてしまう。
(ジャレッドもリデルも、こういう照れるところが可愛くて仕方ない)
もう少し自重するべきだとは思うけれど、いつも思うだけで終わる。
本気の拒絶がない限りは、存分に甘やかして、甘えたい。距離ができてしまっていた一年を上書きする。
『構いすぎるのもほどほどにしとけよ? おにーちゃん』
友人からはそう忠告を受けたけれど、しなくてもいい自重をするつもりはない。これは兄の特権なのだから。
「湯浴みはこれから?」
「はい」
「じゃあ浴室まで送ろう」
「えっ? あ、わっ」
リデラインを片腕に座らせるように抱き上げると、リデラインはぎゅっとローレンスの首に腕を回してしがみついた。
「ジャレッドはもう部屋に戻ったみたいだね」
「はい。今日は早く眠って、明日から試験に向けて先生と最後の調整をするって言ってました」
「そっか」
ジャレッドの試験の心配はあまりしていない。あの実力なら間違いなく受かるだろう。
「リデル」
「はい」
呼ぶと返事をしたリデラインはローレンスを見つめる。
ローレンスと同じ銀色の瞳に、ローレンスが映っている。まじまじと見つめても同じ色なのに、血縁的にはほぼ他人なのが不思議だ。
黙って見つめ合うだけの時間が続き、リデラインが首を傾げて疑問を投げかけてくる。ローレンスは少し目を伏せて、ゆっくり口を開いた。
「……本当の親に、会ってみたいかい?」
唐突な話題に、リデラインは目を瞬かせた。
「会わなければいけないんですか?」
虚をつかれて、ローレンスは一瞬言葉に詰まる。そう問い返されるとは思っていなかった。
「そうじゃないけど、……気になるのかなって思って」
自分の両親がデイヴィッドとヘンリエッタではないと知っているリデライン。『知ってしまったこと』がきっかけで色々あったので、実の親について思いを馳せてきたはずだ。
もしリデラインがヘイズ子爵夫妻に会いたいと言っても、ローレンスは会わせるつもりはない。だからこうして今のリデラインに訊ねるのはずるいことなのだと思う。
十年後やもっと先の未来で、成長したリデラインにあの二人のしたことを話す機会があったとして、リデラインが理解したうえで会いたいと望むのなら。ローレンスはきっと折れてしまうかもしれない。けれど、どれほど時間が経とうとも、リデラインが大人になろうとも、会わせたくないというのがローレンスの本心だ。
しかし、子供が自分の親について気になるのはごく自然なことであるというのも理解している。
おそらくローレンスは、リデラインに気にならないと言ってほしいのだ。それを期待している。フロストにいて幸せだから本当の親なんて興味がないと言ってもらって、安心したいのだろう。真逆の答えが返ってくる可能性もあるのに。
「……ごめん、今のは忘れて――」
「気にならないですし、会いたいなんて思いません」
まっすぐにこちらを見つめるリデラインの言葉に、ローレンスは目を見張る。
「……リデル」
「顔も知らないような人たちですし、親だと思ってないです。私の幸せに、その人たちはいりません」
きっぱりと、リデラインは断言した。
聡い子だから、ローレンスの不安を感じ取ってそんなことを言ったのかもしれないし、純粋にただの本音かもしれない。いや、両方だろうか。
「そっか。そうだね。うん、そのとおりだよ。リデルはリデライン・フロストだからね。あの者たちとは他人だ」
ぎゅうっと、リデラインを抱きしめる。
(ああ、やっぱり……)
血の繋がりは薄くても、もし本当に血縁的な繋がりのない他人だったとしても、ローレンスはリデラインの兄になったのだ。迷う必要はない。不安に思う必要もない。ただ兄として、やりたいことをやっていく。
「僕の愛しい妹だよ」
可愛くて仕方のない妹を思うままに慈しみ、守り、育てるのだ。




