00.氷上瑠璃(後編)
中学三年生になったけれど、瑠璃にその実感はなかった。
学校には行けていない。制服も長いこと着ていない。ただ寝て、起きて、ご飯を食べて、本や漫画を読んで、体調を崩すことが増えたのであまり病室から出ずに過ごしている。それで実感しろと言うほうが無理な話である。
同級生は受験だなんだと忙しくし始める時期かもしれない。しかし、瑠璃にその心配はなかった。
(どうせ死ぬんだから)
せめて、『王太子殿下と運命の恋』の最終巻が出るまでは生きていたい。漫画を最後まで読むことはできないだろう。アニメ化も決まったけれど、きっと始まる前に――。
小説の最終巻の発売日当日は、平日だった。李都は学校だ。それでも、瑠璃の要望に応えて、李都は学校が終わると書店で小説を購入して持ってきてくれた。
制服を着た李都は、無言で紙袋を瑠璃に渡す。
「ありがと」
瑠璃はお礼を言って受け取った。李都は仏頂面だ。
最後に李都の笑顔を見たのはいつだろうか。もう、瑠璃の前では笑わなくなった。当然だろう。瑠璃は李都にあれを買ってきて、これをやってくれと、わがままを言って振り回しているから。
李都は中学一年生になった。制服は身長が伸びることを考慮して大きめに作られているらしく、サイズが合っていない。
李都の今の身長は瑠璃より少し大きいくらいだろうか。一緒に立って並んだ記憶はかなり前のものなので、思っているよりも差ができてしまっているかもしれない。
李都はこれからもどんどん成長していく。瑠璃がいなくなったあとも、ずっと。
「学校どう? 楽しい?」
「……ああ」
「ふうん。よかったね」
紙袋に入ったままの小説を突き返せば、李都は少しだけ顔をしかめたけれど受け取った。そうして紙袋から小説を出して、ビニールを剥がして、改めて小説を渡してくれる。瑠璃はそれを受け取った。
「部活入んないの?」
「入れないだろ」
「なんで? 別に入りたいなら入ればいいじゃん」
表紙を眺めていて李都の顔は視界に入っていないけれど、李都の眉根が寄せられたのが予想できた。
「まあ、私はあれこれ頼めてありがたいけど。持つべきものは弟だね。来月には漫画が出るから、それもよろしくね」
パラパラと軽くページをめくりながらそう言うと。
「俺は、あんたの召使いじゃない!」
李都が声を荒げたので、瑠璃はぴたりと手を止めた。
「今日だって、友達との約束があったのに……だから母さんに頼んだのに、絶対に俺に買ってこさせろって何様のつもりだよ!」
「さあ。お姉様?」
「ざけんな!」
ぷるぷると、李都は怒りで震えている。
「なんで俺がこんなに我慢しないといけないんだよ! 俺はっ……、俺だって……!」
今まで文句を言ってこなかった李都が、初めて感情のままに訴えている。
「姉ちゃんなんか大嫌いだ!」
ノックの音がした。「瑠璃ちゃん? 李都くん?」と担当医の声が聞こえてくる。李都の声が外にも漏れていたのだろう。
「開けるよ?」
ガラガラと引き戸が開けられたのと同時に、李都が駆け出した。
「っ李都くん!」
担当医が呼び止める声も聞かず、李都は走り去った。看護師がその後を追いかけて、担当医は瑠璃に視線を向ける。
「瑠璃ちゃん……」
「お騒がせしました」
瑠璃がそう言うと、担当医は困ったように眉尻を下げた。謝罪を求めていたわけではないのだろう。病院の人たちは、瑠璃と李都がぎくしゃくしていることに気づいているから。
担当医はベッドに歩み寄ると、穏やかに話し始める。
「瑠璃ちゃんは、李都くんのことが大好きだよね」
「うん、大好きだよ」
「会いたくて、たくさんわがままを言ってるの? 瑠璃ちゃんの気持ちもわかるけど、李都くんのことも考えてあげないと――」
「違うよ、先生」
言葉を慎重に選んで諭そうとする担当医に、瑠璃は口角を上げて見せる。
「会いたいっていうのもあるけど、それだけじゃないよ」
大好きな弟。必要のない我慢まで強いてしまった子。瑠璃のせいで、好きなことを捨てさせてしまった子。
瑠璃が、どうしても置いていかなければいけない子。
「大好きだから、李都には私のこと、大嫌いになってもらいたいなって思ったの」
瑠璃が死んでも、悲しみが小さくて済むように。忘れてしまえばいいと、簡単に吹っ切れるように。
「私と違って、李都の人生は長いからね」
長く、あってほしい。瑠璃が奪ってしまった家族の幸せな時間を、取り戻してほしい。
だから、引き摺らなくていい。李都だけではない。父も、母も。みんな。
「私は、酷い姉でいい」
その三日後。
氷上瑠璃は、十四歳で息を引き取った。
◇◇◇
夜、リデラインは天蓋を眺めていた。
「李都……」
先程までは眠っていたけれど、前世の夢を見て目が覚めてしまったのだ。
瑠璃は、いい姉にはなれなかった。ならないことを選んだ。そのほうがいいと思ったから。
けれど、間違っていたのだろう、とも思う。
与えられた時間に限りがあったからこそ、家族と過ごせるその瞬間を大切にするべきだったかもしれない。
リデラインに転生した現在では、ジャレッドが李都に重なる。
リデラインのせいで苦悩してきたジャレッド。関係は改善したけれど、リデラインの魔力が減ってしまったことに対する負い目は、ジャレッドの中から消えることはないのだろう。
(本当に、気にしないでほしいんだけどな……)
ジャレッドも、――そして、李都も。
喧嘩別れをしてあまり日が経たないうちに命を落としてしまったので、李都がそのあたりを気にしていないかが心配である。
(会いたいな)
それはもう、どんなに望んでも叶わない願いだ。
その後、なかなか寝つけずに枕を持ってローレンスの部屋の前までやってきたリデラインは、扉の隙間から漏れる光で、ローレンスがまだ眠っていないことを察した。
扉をノックすると、出てきたローレンスがリデラインと目線を合わせる。
「リデル、眠れないのかい?」
優しく問いかけるローレンスを見て、リデラインはなぜか泣きたくなった。
兄はもうすぐ長期休暇が終わって学園に戻る。そうなると、帰ってくるのは次の長期休暇だ。暫く会えなくなってしまう。
「お兄さま」
「ん?」
「……今日は、いっしょにねてもいいですか?」
枕を抱きしめながら訊ねると、ローレンスは表情を和らげた。
「いいよ。今日だけと言わず、いつだって」
快諾したローレンスに軽々と抱き上げられたリデラインは、遠慮せずにぎゅうっとローレンスに抱きつく。ローレンスの匂いと温もりは、やはり何よりも大きな安心感をくれる。
頭を撫でられると眠気が襲ってきた。瞼が閉じていく。
(今度は、あんなに早く死にたくないな)
だから、小説みたいな悪役令嬢には絶対になりたくない。ここでの生活を手離したくない。
ローレンスに抱きついたまま、リデラインは眠りに落ちた。
間章・終
何事もなければ来週から第三章を開始します。




