02.異世界転生しました(第二話)
目を開いてまず視界に映ったのは、見慣れているけれど見慣れていない天蓋だった。不思議な感覚である。
リデラインは何度か目を瞬かせて視界が鮮明になってから上体を起こす。ぱたりと額からタオルが落ちた。湿気っているので、気絶している間に熱でも出ていたのだろうと推測できる。そういえば誰かが熱がどうと言っていた気がする。
今は特に身体が熱い感覚はないし、寒気もない。ただ疲労感はある。
とりあえず、部屋の中を見回した。
ちゃんと場所がわかる。リデライン・フロストの寝室だ。今座っているふかふかのベッドを始め、リデラインがあれこれとわがままを言って揃えられた豪華な調度品からは、公爵家の財力が窺える。
すっかり痛みが治った頭で気絶前のことを思い返し、自分が置かれている状況を整理する。
日本の中学生だったけれど病気で永眠したのが前世、氷上瑠璃。現在はなぜか前世で読んでいた小説の悪役令嬢リデライン・フロストに転生している。リデラインとして暮らしてきた記憶もしっかりある。
まさか異世界転生が本当にあるなんて、それも自分の身に起こるなんて、想像もしていなかった。
そして、ゲームや小説に限らず異世界に転生する創作物に触れてきていたとはいえ、かなり冷静に状況把握ができている自分自身に驚いてもいた。
小説の悪役令嬢であり、婚約者の心を主人公に奪われて主人公を害そうとしてあっさり失敗。最終的には死んでしまうリデライン。中学生で亡くなった前世もそうだけれど、死んでしまう人物に転生するのも運が悪いと言える。
しかし、小説については書籍版だけでなく作者がSNSで発信していた細かい情報まで頭に入っているので、今後の流れはわかっている。きっと役に立つだろう。
八歳ならまだ王太子と会ったことはないし、婚約も成立していない。いくらでも小説の結末に繋がっていない道を選択できるはずである。
何より、リデラインは性格だけが問題で、それ以外は非の打ち所がない人物だ。養子だけれど公爵令嬢、恵まれた魔力と才能、目を惹く完璧な美貌。人生を有利に進められるだけの力を十二分に持っている。
しかも、フロスト公爵家は権力にまったく興味がないながらも、魔法の功績によって他家に負けない権力を保持し続けているため、望まない政略結婚を強制される心配もたぶんない。簡単に言えば人生勝ち組だ。
王太子との婚約だって、小説のリデラインの望みで結ばれたもの。つまりリデラインがお願いしなければ回避できることだ。
(これだけ恵まれていれば、前世ではできなかったようなことがたくさんできる……!)
瑠璃だった頃は外出もままならず、短い命で諦めていたことが多くあった。リデラインならば自由に好きなことができる。
この先の未来に希望を抱いていると、ノックの音がリデラインの思考を遮った。
返事を待たずに扉が開かれて、公爵令嬢の部屋を許可も得ずに開けるのは誰だろうと、リデラインはきょとんと目を丸める。しかしすぐに思い至った。相手はリデラインがまだ寝ていると判断したに違いない。
どうせ使用人の誰かが様子を見にきたのだろうと軽い心構えで注目していると、扉から現れたのは青年だった。その人物にリデラインは目を見開き、息を呑む。
目が合った青年も同じような反応を見せて固まっていたけれど、はっとしてから「リデル!」と駆け寄ってきた。ベッドの傍らで目線を合わせるように屈むと、心からの安堵を表情にのせる。
「よかった、目が覚めたんだね」
(……な)
「起き上がって大丈夫? まだ頭が痛む? 熱は?」
(生ローレンス・フロスト! 本物!)
濃紺の髪に銀の瞳、老若男女問わず見惚れるほどの美貌を持ち、リデラインに優しく微笑みかけているこの青年は、ローレンス・フロスト。フロスト公爵家の後継者。リデラインの義兄だ。
そして、瑠璃にとってはヒーローの王太子や当て馬役たちを差し置き、小説の登場人物の中で一番心を奪われた推しだった。彼が好きだったからあの小説を読んでいたと言っても過言ではないほどに。
(アニメが始まる前に死んじゃったから動いてるところは見られなかったのに、実物が目の前に……!)
リデラインとしての記憶があるのでもちろんローレンスとの面識は数えられないほどあるのだけれど、前世のローレンス推しの記憶を思い出してから対面するのは初なのだ。興奮が最高潮である。
(顔がいい! 声がいい!)
あまりの歓喜に言葉を失っていると、ローレンスがベッドに腰掛けた。
「じっとするんだよ、リデル」
(え、……え?)
顔を近づけてきたローレンスは、リデラインの後頭部に手を回して動かないように優しく固定し、こつんと額を合わせる。
「うん、熱は下がったみたいだね」
(近い!)
心の準備は到底間に合わず、イケメンとの至近距離にリデラインの脳内は思考停止状態に陥った。顔が沸騰したように熱くなっているのがわかる。
「あれ。赤くなってる……」
たった数秒で見るからにリデラインの様子が変化し、ローレンスは曇り顔になる。
「つらい? 横になった方がいいんじゃないかな」
リデラインはふるふると首を少し横に振る。この赤みは体調の問題ではないので、横になったところで改善はしない。原因は他ならぬローレンスであることに、彼自身はまったく思い至っていないようだ。
顔が赤くなったことに加えて先程からまったく言葉を発しないリデラインに心配が本格的にぶり返したようで、ローレンスの眉尻がまた下がる。その表情さえも美しいとは反則だ。
「リデル。お兄様に君の可愛い声を聞かせてくれ。そうでないと安心できない。やっぱりまだ体調がすぐれないのかな」
ローレンスの手はリデラインの頬に添えられており、促すように、そして心を落ち着かせるように指が肌の上を滑った。
興奮と緊張で上手く呼吸ができていなかったことに気づき、リデラインは空気を吸い込み、それからゆっくり吐いた。
「大丈夫だと思います。……お兄さま」
喉がカラカラで、少し掠れてしまったけれど、言葉はしっかり紡ぐことができた。
ローレンスはほっと安堵の息を零し、サイドチェストに置かれていたコップを手に取る。手の中のコップに水が出現し、リデラインは瞠目した。
(魔法……!)
前世を思い出して初めて目にする魔法にまたも感情を昂らせていると、ローレンスに「はい」とコップを差し出される。
「喉が渇いてるだろうから、ゆっくり飲んで」
「……ありがとうございます」
両手で受け取り、コップの水をじっと観察した。
推しが魔法で創り出してくれた水。この世で一番尊く貴重な水で恐れ多いけれど、喉の渇きは無視できない。
意を決して口をつけ、ごくごくと飲み干す。程よく冷たい水はしっかり渇きを潤してくれた。
「まだほしい?」
その問いかけにこくこくと頷けば、ローレンスはコップの上に手をかざす。そうするとまた水が現れた。
(なんて贅沢な)
今度はちびちびと少しずつ飲んでいく。
そんなリデラインをローレンスが注意深く、じいっと観察しているので、リデラインは気になってその美麗な顔をまた視界に映す。
リデラインの表情から「あまり見ないでください」という心情を読み取ったのだろう。ローレンスは「ごめんね」と告げた。
「症状は昨日には落ち着いていたから医者も心配ないと言っていたのだけれど、やはり目を覚ましてくれないとどうにも安心できなくてね。……本当によかった」
安堵を浮かべる微笑みは色気が爆発していて、リデラインの胸を貫いた。しかしリデラインは叫びたい衝動を抑える。
「とにかく、医者に来てもらうから診察だ。休んでいなさい、リデル」
立ち上がったローレンスを見つめて、思わず口を開く。
「怒ってないんですか?」
そう訊ねると、ローレンスは首を傾げた。
「侍女に……」
思わず俯いてリデラインがそこまで言うと、ローレンスの手がリデラインの頭に優しくのせられる。目線を合わせるように身を屈めたローレンスは、とても優しい笑みを見せていた。
「悪いことだと理解して反省しているなら、それでいいよ。――僕たちはね」
そうだ。リデラインが真っ先に謝罪するべき相手は、ローレンスではない。
「ミスをしたのは確かに彼女だけど、リデルの叱責はミスの大きさに対して過剰だった。だからちゃんと彼女に謝ろうね」
「はい」
「うん。いい子だ」
頭を撫でて、今度こそローレンスは医者を呼びに部屋を出て行った。
リデラインはコップを置いて、ぽすりとベッドに倒れ込む。
(はああ、かっこよかった……!)
ローレンスの笑顔と頭や頬に触れられたことを思い出して暫く悶えて、少し落ち着いた頃にぼうっと天井を眺める。
(そっか。私、ローレンスの義妹なんだ)
前世の記憶とリデラインとして育ってきた記憶が馴染んで、改めて思う。リデラインはとても恵まれている。権力、財力、魔法、美貌、これがすべてを持っているということなのだろう。しかも推しから溺愛されている義妹。
(最高では?)
この幸せな生活を自ら手放すなんて、愚行も愚行だ。
(悪役令嬢になんかならない。せっかく健康な体を手に入れたうえに魔法まで使えるんだから、また死ぬのなんて絶対嫌。私は平穏な生活のために生きる……!)
前世の記憶を思い出したリデライン・フロスト八歳は、こうして新たな人生の明るい未来を切り拓くと決意したのだった。