無我無残
はしがき
私は、昭和を思い出す家であの封筒を見つけた。
別に昭和と云う時代を暮らした事は無いが、木造で建てられた家。見るからに「古臭い」雰囲気。つまり「昭和を思い出す」とは、あくまでも私みたいな十代の少女の妄想にしかすぎない。例えば、懐中時計を「明治だなあ」と呟くと似ている事でしかない。
令和二十二年十二月十七日。營じいちゃんの家に遊びに行って、そうじをしている時に見つけた。焦茶色の封筒。何十年前のものにみえた。右下の角らへんに「浪裏瀧」と書かれていた。
ただの封筒なのになぜか妙な魅力を感じる。誘う甘い好奇心。少し古く、ほこりの匂いがした。決して嫌な臭いではなく、ほっとする香りである。おられた開け口に「〆」と書かれている。開けてはだめと刻まれているみたいであった。でも、私は見たい。見なかったら後悔をすると心が強く思った。封筒は、飴玉の包み紙に見えた。
パンドラの箱を開ける気分で中身をのぞいた。
そこには、三枚の写真と手記。
ここからは、私の正直で勝手な考えである。あくまでも女子高校生の想像だとわかってほしい。ただの、そこらの「JK」の独り言だと理解してほしい――――
一枚目は、四人組の男女。ぱっとみ「青春してるなぁ―」である。彼らの後ろには白い壁。写真屋でとられた写真みたいであった。四人とも立って並んでいる。内側に女性二人、外側に男性二人。最初に目につくのは、一番左の青年。二十代で175センチくらいの背丈。右手をあげて今でいう「ガッツポーズ」をしている。ふざけた笑顔で楽しんでいるようにみえた。イケメン。私のタイプだからかもしれない。何十年前の写真だけど、この人が今の時代にいたらきっとモテていただろう。若さと可愛らしさが彼を漂う。私はいつのまにかその男の写真に魅了されていた。彼の右となりにいる女性は、高校生にみえた。十五六才くらいな。髪型は今でいう「清楚系」。好きな人を見るようにあの美しい青年をみている。少し彼女が羨ましくなった。次の女性は、背が低い少女。眼鏡をつけている。でも、決して「地味」な人ではない。なぜならツンとした目つきに、キリっとした背筋を伸ばした立ち方。少女は右にいる男性と目を合わせている。その一番右の男は、背が高く、体も大きい。まさに「男らしい」。ラグビーの選手にみえた。眼鏡もかけている。帽子を被って、甘い物をみる瞳でさっきの少女と目を合わせる。そこに少しの「愛情」がある。いや、「かなわない恋」の方が似合う。でも、その写真をもう一度見ると「矛盾」を感じる。なぜ自分がそんな事を思ったかはわからない。
二枚目は綺麗な写真である。或る男女のキスシーン。背後の窓から光が入って、逆光の影で微妙に二人の顔が見えない。「不快感」を覚えさせる。かすかに「純粋」と見せさせる女の座り方。キスをしているのは男性のほうである。彼は立って、両手を背中に置いている。体をぐうんと斜めにして顔を彼女と重ねあう。女は籐椅子に座って、左手は手のひらを見せて「誘いにのる」様子。でも、右手はグーをして「ていこう」とみせる。女性は二十歳、男性はまだ若い少年に見えた。二人の後ろは、夕暮れをうつし、カーテンがひらひらと舞う。やはり、なんと奇麗な写真かしら。
三枚目の写真は、一人ぼうぜんとしている患者服の若い男。布団から上半身をだしてベッドで座っている。最初の写真と同じ人なのかしら。そうだとしたら、とてもでもないけど、そう思えない。なぜなら、彼の頭は白髪いっぱいになって、前髪が鼻先までに長く伸びて落ちている。疲れ果てた目がまっすぐカメラを見ている。少し睨むように。そこに、「キュン」と感じた。ほうれい線がいかにも「ふけった」とみせる。もう一度目を見ると、真っ黒。でも墨のように奥深くに輝きをうっすらみせる。無感情な顔に見えて少しかすかに微笑んでいる。嘲笑われているように感じる。気味悪い微笑。それでも「男前」と「可愛い」と思ってしまう。「罪な男」と言いたくなる。これ以上見ていると可笑しくなってしまう。そう思い目をそらした。見てはいけないのに、またみたくなる。まさに「不思議な闇」。私はその写真の題名はそれだと思った。それ意外ないと思うくらいの確信であった。もし、写真の男が目の前にいたら、ハグをしたくなる。いや、どの女性も抱きしめて「そんな悲しい顔しないで」となぐさめの様な言葉をかけるでしょう。恐ろしい男。彼の前だとどんな強がりな女の人だとしても、きっと「か弱い乙女」になってしまう。何て美しいの。気づいたらまた写真を眺めていた。彼は「女を惚れさせる薬」でも飲んだのかしら。じーっと一分くらい見ていると、もうどうでも良くなってしまった。酔っていたのかと不思議に思う。「変なの」と自然とつぶやく。初めての経験が最高に良く、二度目はもう面白くない。そんな感じが残った。
手記の方は万年筆で書かれた様子。「無我無残」と書かれている。何を意味するのか知らずパラパラとページをめくった。驚くほどに達筆、だが読める――
私は、昭和二十五年に生まれた。これは、私の小説であり、私の人生の一部でもある。
第壹章
幸せな人生を送って来た。
自分の故郷は遠い田舎町だ。家族は五人、父母と二人の兄、長兄の蓮太郎、次兄の椙雅、そして末っ子の自分。父はいつも忙しかった。貧乏でお金が無い訳ではなく、唯働きたかったのだろう。裕福な生活、食べ物は何時も家にあった。贅沢をしたければできていた。時々父は大人の掌くらいの大きさの餡麵麭を買ってくれていた。兄弟さん人で分けて、楽しく食べていた。その菓子は、中に餡が沢山入っていた。外は揚げた麺麭生地であった。それが自分にとっての「餡麵麭」であったが、何時しかあの菓子は「揚げ餡麵麭」だと知ったのは、大学生の時だった。母は、何時も傍に居て、ニコニコしていた。幸せ、母は自分にとっての幸福の塊であった。そんな大切な事に気付くにも大分年を食ってからの事だ。長兄は父と一緒に仕事の手伝いをしていた。次兄は次兄だ。小さな町に住んでいた。少し離れると畑がずらりと見飽きれるほどにあった。だから、すぐ田舎っぽい匂いがする。
自分が十五の時、色々と悩んでいた、迷っていた。人生の意味や存在意義、哲学的な疑問を何時もしていた。或る意味、哲学者のニイチェのnihilismusに達したような気分であった。精神的に疲れていたのかも知れない。心が何かに取り付かれているような、そういう時期だったかも知れない。
その頃も、独逸語に興味を持って独学で勉強していた。興味? ではなく、森鴎外は、十二の時に東京帝国大学医学部に入学したと同時に、独逸語も知っていたらしい。そんな偉人にあこがれて自分もやって見たいと思った事だけだ。実際、何処で、どんな風に使うかは、知らなかった。英語を学んだ方が、良いのかも知れなかった。
何時も学校の帰り道で「自分は存在価値などあるのだろうか?」と問いていた。この何億と居る地球で居ても居なくてもどうでも良いじゃないか。もし自分が生まれてこなかったら何か変わっていたのだろうか。いや、他の人間が自分の役目を代わりにやっていたのでないだろうか。答えは解らない、何せ今、自分は存在しているのだから。「存在」は謎である。
或る先輩に尋ねてみた。兄と仲が良い漆山菊先輩に。
「生きる意味? 存在価値? 答えになるかは分からないけど、人は何にでも意味を求めるのだと思う。それを自分自身に問うのは可笑しくはない、哲学の始まりはその問いで始まったと言っても過言ではない。でも答えるとしたら――、意味など無いんじゃない。例えば、或る虫が居るとしよう、そいつに意味などある? 唯この世に生まれて、生きている、鳥に食われたらそこまで。でも、その虫は一生懸命に生きていたんじゃない」
「何時か咲いた花は散ります。吹いた風は止みます。同じく、人は何時か亡くなります。僕も何時かきっと死にます。生きる意味は無いのならば、いや、意味を探すことに意味が無いのならば、この命は如何すれば良いのでしょうか?」心が嵐の様に烈しく暴れた。
「そうね、生きとし生けるもの全て死す。『自然の法則』の一つだね。ハル君の人生で何をするか、どんな事をすれば良いのかは最後に決めるのは貴方自身よ。私がどうこう口出しする権利は無いと思う」
「答えてくれて有難うございました」
「悩みごとがあったら何時でも相談してね」先輩はそう言い残して去った。
夕日が目に沁みる。
やはり答えが出ない、いや、考えた先には、存在を消す事しか浮かばない。生きるって何だろう。
生まれてきた意味は――無いのか――。
夜、小説を読んでいた。太宰治の有名な代表作「斜陽」。そこの一行にこう書かれていた。
「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」
自分は、その詞に惚れた。そして春風が吹いた。
寒い曇った土曜日に智哉が本を借りに来ていた。
「何かおすすめあるか」
「お前にか」
「いや、梓が最近文学に興味持ったからさ」
「友情ってどうだ」
「武者小路実篤か――、まだ早いんじゃないのか」
「そういって、梓が結婚してからも言い続けるのか。俺は知ってる、日々梓が成長していることをな」
「サキが言うなら。それにするよ」
梓、智哉の妹であり病弱な体である。殆ど家で看病しているらしい。ちょいちょい顔を出しに行くが彼女は何故か自分を嫌がる、いや、人見知りなのだろう。智哉は妹思いで何時も彼女と一緒に遊んであげるのである。
昼過ぎ、一人で公園に居た。疑問を抱く――恋とは。そこで或る生き物に出会った。その頃はまだ三月であった。
「君の名は」
「桜坂春樹。貴方は」急に飛び出した犬だと思った。
「笹目葵、よろしく。アオイでいいよ」
「ちょっとアオイ、あ、始めまして、小草和凪と申します」お辞儀をした。
「どうも、桜坂春樹です」話すと、彼女等はこの町に住んでなく、偶然この公園に居て、誰も居なかったから、自分に声をかけたと。
自分はその二人と仲良くなった。二人は従姉妹で、和凪さんは一つ年上だった。この町から離れた田舎村に住んでいて、たまに二人で遊びに来るらしい。何時しか和凪さんが東京で高校を勉強するからお別れを自分に言いに来た。もう夕方で彼女達が帰る時間だった。
「もう今日で最後になるかも知れないね」
「ナナさんはもう行っちゃうのか。少し寂しくなるな」
「ハル君、後は任せたよ、ちゃんとアオイを守ってあげてね」自分は、その意味が分からなかった。そのまますっとその詞を何処かで忘れた。思えば随分彼女等と遊んだもんだ。そして、次は二人だけだった。
「何か寂しいね、何時も一緒に居たのに」
「うん、でもナナさんなら上手くやってるさ」
「そうだね」彼女からは、何か薄青と紫が混じった匂いがした。彼女は夕暮れを写す雲を眺めながら、
「月が綺麗ですね」と小声で自分に聞かせた。
「月は見えないけど」その時、自分は確かに何も見えなかった。彼女の口から出た詞も理解できなかった。
「じゃあ、又ね」彼女は微笑み、はてなの顔をした自分に手を振りながら遠くへ帰った。
中三の終り、春休みの始まりに智哉が真面目な顔をしながら。
「実は俺、東京に行っちまうんだ。母さんが仕事の事情でな」智哉は母子家庭で彼の母親は殆ど家に居なくて、週末も居ない時があった。
「誰にも言わないつもりだったんだけどな、サキだけには言おうと思ってさ」一息ついて――
「泣くなよ」
「泣くかよ」苦笑い。
「そっか。梓ちゃんによろしく言ってな」
「おう。でもさあ、東京に行けば、梓の病気も治るってさ」
「そっか、良かったな」遠くで智哉を呼ぶ声がした。
「じゃあな、又会う日まで」手を振りながら云い去った。
又、又誰かのお別れか。「生きていたら会えるさ」と自分の心は智哉に叫んだ。青暗い夕日は又もや、目に沁みて寂しさを少し感じさせた。親友、唯一の友が行ってしまった。独りか、中原中也はずっともっと淋しかったんだろうな。
次の日、葵を待っていたら。彼女は何時もより何か違う気がした。
「何か違うでしょ」
「何か違うが、何が違うかは分からない。服?」
「何時も違うよ」
「だよね、何だろう――」その時、背後から。
「サキじゃない」聞き覚えの声がして、ぞっとした。
「何、可愛い子と二人っきりでいるの」
「誰この女」葵は、ご機嫌斜めなのか?
「私は、花々埼紫よ。お取り込み中だったかしら。サキが優しいからって狙ってんじゃないよ」葵の目を睨みつける様に云った。
「まっ、どうせ振られるけどね」そう言い、何処かへ去った。
「ハル、誰? 如何してサキって呼んでるの? どんな関係?」葵は、自分の事をいつの間にか「ハル」と呼んでいた。
「あだ名を付けてくれた人だよ。姉さん見たいな、友達かな」
「何でサキ?」
「桜坂って呼ぶのは長いから、最初と最後の文字『サ』と『キ』でサキ」
そうこうしているうちに人気のない公園のロハ台(ベンチの事である)に座った。
「ハルは、好きな人居るの?」問いに答えるのに少し戸惑い、笑った。だがその笑顔は苦笑いであったと思う。
「居たけど、告白する前に振られたけどね」財布から、一枚の写真を取った。そこには紫と自分が写ってた記念写真であった。
「初恋の相手だったよ。もう二年するけどね。『恋』と呼べるかは分からないけど」葵に全てを正直に話した。
それは、中学に入った時の事。無智な自分は心が躍る出来事があった。花々崎紫に一目惚れしてしまった事だ。彼女と学校の行事で手を繋ぐことになってしまって、この胸が強く響く太鼓の音は「女慣れ」をしていないからだと何回も誤魔化しても、何時になっても彼女の事だけを考えてた。恋だと気付いたのは他の男子生徒が馴れ馴れしく彼女に話しかけるのが変な、嫌な、怒りを感じた時であった。
だが、或る日、耳にしてしまった。家に兄の友人達が遊びに来た日に。なんやらかんやらで彼女の名前が出た。そいつらの一人が、こう云いやがった「実はさああ、俺、あの花々埼にコクリます!」としゃしゃぎやがった。
だが、風の噂で、そいつと彼女が付き合ってると聞いた。いや、噂ではなかった。実際彼女自身から聞いた。確か、彼女を馴れ馴れしく「ユカリ」と呼んでいいと話かけられた時であった。自分の名前を言うとすぐ「長いよ」と言われ「サキと呼ぶね」と笑顔で自分にあだなを付けた時の事であった。
彼女に自分はあの信じたくも無い噂について尋ねた。「まあ、前から好きだったからね」と答えられた。無邪気な、純粋な、何も汚れてない声だった。何時からあの野郎(紫の彼氏)が好きだったと聞くと、彼女は「二年前かなあ」と答えた。それから、自分は、もうどうでもいいと思った。初恋が最初の失恋となった。皮肉なことに自分はその晩泣かなかった。それから、もう恋愛に信じなくなった。「恋とは失恋だ」と思うようになった。
「そうなんだ」葵は石ころを見ながら自分の話に答えた。
「で、まだ未練は残っているの?」
「んな訳無いだろ、もう二年前だぞ」譃だ。実際自分は夜に紫の事を思っていた。
「ならこの写真、破っていいね?」
「はっ」葵は、自分の返事も待つ事なく写真を半分に破って、又半分に破って、もう破れないくらいにした。最初の反応は混乱で、次に怒り、いや安心であった。葵の手にあったあの写真は自分で大事にしていたつもりだが、実際唯捨てるのが怖かっただけなのかも知れない、その数秒間に風が吹き塵になった写真を飛ばした。
「ごめん」
「いや、まあ、良かったのかも知れない。本当はまだ僕は、紫のことが好きだったらしい。だが今のでくぎりがついた。ありがとう」立とうとした時、葵は、自分の腕をつかんで引っ張った。
「月が綺麗ですね」下を向きながら云った。
「夕方だけど、まだ月は出てないよ」又その詞を葵の口から聞いた。
「馬鹿、鈍感、物知らず、阿呆、猿!」自分を罵倒した。
「誰が猿じゃい!」怒鳴ってしまった。
「月が綺麗ですね!」
「だから、どう言う意味だよ!」上を向き、自分の目の奥を見て、
「君が好きだ!」驚くぐらいに彼女は叫んだ。葵は、その時泣いていた。あゝ、泣かせてしまった。いや、告白されてしまった。薄々自分は気付いていたのだろう。だが「そんな訳ない」と誤魔化していた。振られてから、(いや、告白の努力もしていないのにこんな風に言うのは可笑しい)勝手に失恋してから自分は「恋」と云う物に信じなくなってしまった。「どうせああだの、こうだの」と言い訳を作り、自分の心を誤魔化していた。だが今はどうだ、明らかに葵と云う女性が自分に好意を抱いている。さあ如何する。答えないのは覚悟を決めて、勇気を出して告白した人には申訳無い、答えを後にすると言う卑怯な真似もできやしない。だがどうだ、彼女を泣かしてしまった。それは自分には非常に重い罪であった。申訳無いという気持ち、つまり、罪悪感だ。罪悪感がとても短い瞬間の百分の一を過ぎる度に重く、辛く、苦しくなっていく。
「ごめん、やっぱり忘れて。さようなら」葵が自分の腕を離してベンチを立ち上がろうとした。「さようなら」と云う詞に取り付かれた。まさか、もう会えないのか? 嫌だ、嫌だ! 待ってくれ! とっさに自分の体は彼女を後ろから抱きしめていた。
葵は、振り向き自分にこう云う、
「もし――もし、本当にそうなら。本当にその気持ちなら、今此処で私に――私にキスして」確かに自分には時が止まった。どんな条件だ? 譃だろ? 違うのか? 彼女はもう目を閉めて、その準備が出来ていた。恥しそうに、唇を近付けた。ふと葵の方から向かって来たと感じた――。これも初めてであった。
夕日が真っ青な空を何時の間にか赤黒く、黝く染めていた。その日見た雲は、確かに紫色であった。
「私、初めてなの」顔を赤らませた様に見えたが、夕方のせいであったかも知れない。
「そ、そっか。僕もそうだよ」恥しくて。恥しくて、噛んでしまった。
「じゃあ。もう時間だから――」
「僕と結婚を前提に付き合ってください」と彼女に聞こえるくらいの小声で言った。
「はい、喜んで」ギュッと自分を抱きしめた。そこにやわらかさを感じた。
その日は、五月八日、日曜日であった。
それからの日々は、楽園に見えた。楽しくて、楽しくて。初めての彼女。わくわくしていた。彼女、葵は自分に色々と話してくれた。彼女の事をもっと知ることになった。例えば、幼稚園から中学まで一緒にいた親友が、女友達が実は裏で彼女の悪口を云っていたとか、その野郎が他の高校に行く筈だったのが急に葵と同じ高校に行ったとか、その同じ奴が何やらかんやらいじめをしに来る等々。自分はそんな話を聞いて、純粋と思った。いや、未経験の方が似合う。何故そんな事を思ったのだろうか。
笹目葵、誕生日六月二十三日。
と忘れないように帳面に書いた。
恋をしている、恋愛をしている。まさか恋人が出来るとは夢にも思わなかった。毎日会いたいがそれは贅沢だ。週一で逢えることだけでありがたい。彼女は背が低く、キョロキョロした可愛らしい目をしていた。何時も明るい性格で、何処か母に似ていた。髪型は肩につく長さで、肌は少しこげ黒かった。日に焼けたと云っていた。実家は魚跳村と云うらしい、田舎で父親が農業をしているとか。何時か行ってみたい、彼女の家族に会って話したい。まだ早いか。彼女を思う度、考える度、自分は好きだと確認する。あゝ、何て可愛いのだ。花嫁姿はきっと美しいのだろうな。と惚けた事を想像していた。
土曜日に決まって葵と会っていた。逢っていた? いやデイトであった。 今日も綺麗だ。だが、葵は「好きだ」とは言わず、決まって「月が綺麗ですね」と言う。自分も少し照れながら「死んでもいいわ」と答える。
町の夕方、告白の公園。二人でニクマンを食べていた。
「おごってくれて、ありがとう。でもいいの? お金」
「あゝ、まあ、こずかいだからさぁ」
「そう」
「もう、一ヶ月か」
「覚えていたの」
「うん、これ」彼女に甘糖楼を渡した。
「えっ」驚きの中に喜びを見た。
「ありがとう」嬉しそうで何より。
「ま、ほら、食べたら誰にも分からないだろ」
「お付き合い」の事は、家族に隠していた。中々言えなかった。恥ずかしいとかではなく、唯々口から出せなかった。言ったって面倒だけだ。まあいいや。自分は、その頃、真面な生活を送っていた。勉強も、部活も、恋愛も、人生が充実していたのである。懸命に生きていたのである。頑張っていた。
やがて六月二十五日土曜日、午後四時半過ぎ。葵を驚かせようと思ってお洒落な少し柄の悪い半袖のシャツを着た。兄の知り合いのお下がりであった。黒に赤い花の絵柄。彼女を驚かすにはいいだろう。待ち合せ場所に行くと学ランを着て変な髪型をした奴らが葵を囲んでいた。あれは、俗に云う珍走団、暴走族だろうか。葵に声をかけているようだ。
「いいじゃん、遊ぼうぜ。おごるからさぁ」ダサい髪の不良。
「もしかして、彼氏持ち? 言わないからっさ」ぶさいくな顔の不良。
「ねーねー。うちら、一応この桜桃鬼丹組なんだけどさぁ。知ってる?」ちびな不良。
「だからー。いくら君の彼氏でもうちらに勝てっこないって事。わかった?」だらしない言い方だ。
「遊ぼうよ。せっかく人が誘ってんだからさぁ」
「な、いいじゃん?」犬か。奴らは犬なのか?
何てことだ、脅かそうと思ったら、驚かされてしまった。まあ、喧嘩はしたことないが、何とかなるだろう。
「おまたせー」葵は泣きそうであった。怖かったのか、申し訳ない。
「何だてめぇ」振り向く三人は自分の顔を見ておびえた変な顔をした。
「たっけー」この頃、自分は成長期なのかせがドンドン伸びている。
「しかも、顔こっわ」酷い言い草だ。
「柄わっりー」お前が云うか。
三人は少し葵から距離を置き、
「もう彼女を一人で待たせるんじゃねーぞ」と言い去った。
謝ろうとしたが、彼女は「怖かった」と小声で言い、自分の胸に涙を拭くのであった。まるで怖がる子兎の様にびくびく震えていた。
夕方の同じ公園で誕生日プレゼントを渡した。葵は、まだ自分を怒っているみたいだ。何度も謝っても許してくれない。
「キス、許しを得たいなら、それが条件よ」彼女は目を閉めた。チョコ玉を口に加えて、口移した。
やがて、八月になり。夏の季節が始まった。夏休み、夏祭り、残念なことに葵は忙しくて遊べないそうであった。仕方がない。自分は、少し働くことにした、遊ぶ友達はいなかった。働くことで稼げる事を覚えて、思い出したのは「働かざる者食うべからず」であった。こずかいができるとは、金の力があるものだろうか。チェリオを飲みながらカタカタ音がする扇風機にあたる。やがて夜が来て、季節の終わりを示す蝉が鳴く。八月いっぱい彼女と会えなかった。まあ、いいじゃないか。一人もたまには良いものだ。
九月四日、日曜日に葵が、誕生日で或る本をくれた。
「これ、夏休みにおとんを手伝う代わりに、買ってもらったんだよ」
「これは」薄い本、「人間失格」であった。これだけには、手を付けまいと思っていたが運命は違った。人間失格を読む前に父が、
「影響されるな」と呟いた。
が、あの、小説は、自分を大人にした。現実とは何か、人とは、確かに知らない、まだ分からない事を書いてあった。あっつい夏には、とても似合わない本だ。初めてお酒を飲んだ時みたいだ。だが心に沁みる焼けた味ではなく、精神に、意識にとって苦痛であった。現実を突きつけられるとはこの事だ。
自分は悩んだ。もう高校一年生だ、人生に向けて何に成りたいのかを考えなければならぬ。実際、長兄はこの町にある県立大学に入学して勉強をしている。次兄は、受験生で毎日頑張っているところを良く見かける。机に向かって図書館で朝から晩まで没頭して学問に励んでいるところを、時々自分は弁当を持っていってあげていた。あんなに勉強が好きなのだろうか。人のことよりも自分の道を探さないと。
何処かで読んだ「勉強すれば、君の夢は叶う」が記憶を切る。勉強さえすれば何でも手に入るのか。財力も、人間関係も、恋愛も、名誉も、すべて手に入るのか。確かに努力さえすれば人間は何でもできる。だが努力の仕方は、目的は、結果は、どうなる。その道のりにどれだけの時間を使えば、あっ、確か兄が云っていた。
「一万時間の法則が人間を天才にする。一日一時間で二十八年間何かをするとそれに天才になる。他の詞で才能が生まれる。毎日毎日同じ努力できてこそ『天才』と呼ばれる。だが、好きなことを見つけて一生を捧げる覚悟と決意、さらに考えだけじゃなく行動にも移さないといけない――そんな事、誰がする」
自分は、天才か? いや違う。ドストエフスキィが「罪と罰」で語るように、凡人が天才だと勘違いしてはいけない。自分は秀才になりたくない。平凡人、mittelmäßigにもなりたくない。
「ま、人生を気楽に生きおう」と呟いた。まるで何かの恐怖を闇で包んだ様に、軽い詞だと自分は心細さと一緒に薄々感づいていた。
気付くと夏が終わって、九月が始まって二週間がたっていた。
「今日、キクの誕生日会があるけど、お前行く?」兄の椙雅であった。
「行くよ」先輩の誕生日は、九月九日であった。先輩の父親は、何故か父と仲が良くて、色々と世話になる。長兄は、いけないらしい。先輩の家では、犬を何匹も飼っていた。先輩のお爺さんが犬好きだとか。自分は犬が怖かった。道で野良犬を見ると心臓が耳元にあるみたいで、震えだす。心的外傷(トラウマの事である)とかでは無く、唯々怖い、吠えるとなおさら。自分に向かって走り出すともう嫌で仕方がない。
誕生日会は大勢の人がいた。
「来てくれたんだ、ハル君」先輩は、元気であった。だが、何か兄に対して変な態度をとっていた。
「レン兄ちゃんは、来られないみたい」長兄、蓮太郎をレンと呼んでいた。
「そう、残念ね。せっかく御馳走作ったのに」それは、如何言う意味だろうか。まさか好意? まさか。
「ほら、あの子来てるよ、マサ」嫌味で兄に言う。兄は舌打ち、
「お前、まだ怒ってんるのか。ガキだな。焼餅なんか焼いちゃって」
「あんたこそ、如何なのよ」そんな会話が始まってしまった。自分はその空気に息苦しさ感じ、中へ入った。
「お邪魔します」あの若いお二人に何があったかは、知らないがとても気になる。まあ、青春だろうな。後から聞こう。そこに紫がいた。寂しそうな、声をかけた。
「どうした」近くで見ると、目辺りが赤かった。泣いたのだろうか。
「振られた」
「あの男に?」
「そう」肩ポンは、しないように意識した。
「甘い物食うか」飴玉をあげた。
「優しいね」口に入れるあの瞬間が自分を魅了した。あの少しつばで濡れた唇に、少し開いた口に手を添えて食べるあの瞬間。少し、ほんの少しだけ、色っぽいと思った。
「優しい? 他に褒めるとこがないから?」
「素直じゃないね」
「そうかい」彼女を笑わせた。
「相談なら乗るよ」
「ほら、やっぱり」上を向いて両手で髪を直した。
「サキは、可愛いね」
可愛い? 男子に対して、可愛いは褒め詞ではない。決して、決して違うのだ。五六の頃、幼稚園の先生やら、お姉さん達などが必ず「可愛いね」と褒められていた。だが、自分にとっては、悪夢である。もう一生「可愛い」なんて褒められるたくないと思うようになった。何故女性は「カッコいい」とか、「綺麗」と褒めないのであろうか。愚問。自分は可愛いからなのか。
彼女から、自分は「優しい」と云われた。何故だ。大抵の人は、誰から悲しんでいると助けないのであろうか。何かを必要としていたら、手伝おうと思わないのであろうか。そもそも、「優しい」は、いいのであろうか。そんな事を考えながら、彼女の話を聞いていた。
「あいつ、ヒコ君は、浮気してたの」何故「君」をつける? 浮気? 糞野郎ではないか。
「そっか」
「ほら、最近転校してきたあの外人さんにね」自分は、紫と同じ高校であった。
「あの金髪の?」
「そう。何故だろうね」
「あゝ。まあ。その、何だ。生きていれば辛い事だってあるさ」
「そう。残酷な事いうね」
「そうか」
「ま、ありがとう。相談乗ってくれて」
「おう」自分は他の女を心配していたのか?
「一つ、頼んで良い?」
「どうぞ、僕に出来ることなら」
無言で彼女は、自分を抱きしめた。ハッとびっくりしたが、あの体は冷たかった。寂しいのだろう。もうちょっとギュッと自分を抱きしめた。彼女の髪の匂いは、甘かった。その「甘さ」とは大人っぽかった。女の匂い。そう、自分はこれが「女の匂い」と知った。
「ごめんね、少し、ちょっと」彼女は、髪で顔を隠した。恥ずかしいのだろか。
「うん」自分はその時、少し、自分が娼婦と思えた。
「じゃあ、この事はないしょで」そっか、彼女は自分が恋人がいる事を知らないのだった。恥ずかしくなった。浮気していた野郎の事も言える口ではない。自分は最低だ。最悪だ。死にたい。隠すか。言えないだろ、恥ずかしいから。でも、葵の事は、好きだ。好きなのか? 唯寂しいからなのではないか。黙れ! 黙れ! 自分は畜生だ。
自分は、如何すればいいのだ。勉強だ。勉強すればいいのだ。勉強すれば、何とかなるはずだ。自分をだまして、進めばいいのだ。
誕生日会は、無事終わった。自分は次の朝を迎えた。考え続ける中、葵に会いに行く。
「ハル、ため息多いね」自分は、疲れているのか? 若いのに疲れる訳ないか。
「そっか、心配させてごめん」
「読んでくれた?」
「あゝ、うん。面白かったよ」自分は、まだ幼いガキだ。
「よかった」
「ありがとう」
「学校は、どう?」
「まあ、そこそこ」自分は、勉強しないでも点は取れた。
「そういえば、うちの猫が太ってるの。本当よ」
「葵も太らないように気お付けろよ」
「何それ」彼女は笑いながら自分の腕に胸をあてるように抱きしめる。態とではないと思う。
「当たってるよ」
「あててんの」女性人は、やはり可愛いと思うが、やはり怖い。自分は、恐怖を可愛さで着せて誤魔化しているのか?
それでも、それでも悩みは消えなかった。
十月、十一月、十二月。点々と月日が流れていく。変わらない自分に嫌味で、気障で、仕方がなった。いや、変われた、変われた筈だ。二月、或るダンスパアテイに招待された。行ってみた。行かせたのは、
「経験と体験が人生を味付ける」
「昔、私は、自分のした事に就いて後悔したことはなかった。しなかった事に就いてのみ、何時も後悔を感じていた」
と、誰かの詞が浮かんで、ならば行動のみと考えた。行くと、心臓に響く爆音。飲み物を取り、男女達が、手を取りながら踊るのを眺めてた。女性が近づいて、
「私と踊らない?」軟派か?
「いや、いいよ」
「そう」あっちへ去ったと思ったら図体のでかい奴が腕をつかんでくる。抵抗はしないで人気の無い処へ連れてかれた。あの女子がいた。自分は背中を壁においた、とたん、彼女は、両手を壁においた。自分が出られないように。
「僕、十六ですよ」
「えっ」彼女は少しオドオドして、キスをしようとした。
反応で、右に首をむけた。
「嫌い?」
「いや、その。犯罪ですよ」
「あら、そう」自分は逃げた。家に帰りすぐ寝た。
何だ、女性は自分の何に魅了されるのか。いや、偶然だ。そんな訳ない、あの女は酔っていたのだ。きっとそうだ。
三月、四月。桜が咲いた。いつの間にか葵の手を握るのが慣れた。
五月、授業は、面倒であった。
自分は、不安が、少しずつ、少しずつ雪玉みたいに、大きく、大きくなっていく。気付くと、戻れない。それは、あの悪夢である。ある女性が浮気をして、その男と結婚する夢だ。その光景はきっと葵だ。そう信じて、考えた。もし、彼女と別れれば浮気されない、裏切れられない、そうだ、そうなんだ。もし、唯の夢だったら、わからない。起こったら如何する? その時に後悔したくない、もう訳が分からない。
電話で、別れをつげた。
「ごめん、こんな奴で」
「そんな所も好きなの」泣いていた。彼女は、きっと涙ぐんでいた。電話を切り、すっきりした。何時か葵が、「おとんが、『どうせ一年したら別れるさ』って言ってたんだよ」を思い出した。
あゝ、そうだ。その通りだ。不安で、怖くて、卑怯者だから責任取れなかった。初めての相手? そうだ、自分は、馬鹿でどうしようも無い阿呆さ。見くびるなら、けなすなら、軽蔑するなら、してみろ。もし、お前も、間違えたことがないのなら。無いかもな、何も行動出来ない凡人が。くしゃくしゃだ。心はむしゃくしゃでしかない。彼女の為? いや、自分の為に、自分が傷つくのが嫌だからだ、笑えるな。このカスが。利己主義者(エゴイストの事である)だ。独我論で自分を見て、自分の事しか考えられない人間だ、いや、人と呼べるものではない。あゝ、バカだ。畜生か、畜生だ。自分が嫌で、嫌いになる。なら、他人はそうではないのか、「人の為、世の為、身の為」と云うが、結果的に誰かの為になるが、原因は自身から来るではないか。自分は、凡人がその時から嫌いになった。人間が気持ち悪いと思えた。仮面を外してみろ、あの笑顔と泣き顔をとってみろ、残るのは、何だ? そう、気持ち悪い、気味悪い、嫌な臭いの畜生者だ。もし人間の心に光があるなら、同じく闇もあるはずだ。「光が強ければ、強いほど影は濃くなる」を思い出した。そっか、これが、これが絶望って奴か。これで、葵の大切さが理解できる。「人は、何かを失った時にその大切さを真に知る」は本当だった。あゝ、持ったない。
六月二十三日。葵の誕生日。何故忘れられない。自分はまだ、まだあの子の事が好きなのか。好きだ。だが、他の女友達と変わらない「好き」ではなった。友情では無く、愛情であった。情が売れるのなら売りたい。
手紙を送った。答えが来た。
「春、好きって伝えてくれてありがとう。でも今は、恋愛したくないから、その気持ちに何て答えたらいいかわからない」
と書かれていた。彼女の匂いがぽっと付いていた。風が吹き、消えた。又、失恋か。情けない。自分で振っておいて寄りを戻したいなんて、情けない。あゝ、死にたい。
あの、「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」の通りだと、恋もしないなら、革命が残る。革命とは、何だ。不良になることか? 高校生だと遅いか。あゝ、死にたいか。死ぬ勇気もないだろ。皮肉だ。あゝ、何も考えないで、勉強しよう。懸命に生きるのだ、生まれ変わるのだ。誰かが云った、
「成功が最高な復讐である」と。
親に真面目に勉強したいと告げた。家庭教師を雇ってくれた。訛のない都会慣れしたような女性であった。名は、蒼蔵栞。三十は過ぎていた。家で勉強するのでは無く、先生のアパアトで勉強していた。朝から昼過ぎに学校の授業、それから午後十時まで勉強、復習、試験。まるでスパルタ教育。そのほうが楽だ。「やれ」と云ったことを唯々こなす。当然をするだけだ。成績は上がり町の県立大学に入れるくらいになった。
が、自分は考えていた。葵は、好きとか云っていたのに今はどうだ。無である、無関心である。逆にいらつく、今はもう好きでもないんだろ。偽善者が、どうせ彼女も寂しいから、心に何かを埋めたいから自分を狙ったんだ。違うか? あのアマ、どうせ今は、もう他の奴とやっているのだろうな。あのアマ。まだ自分は、彼女に「関心」を持っていた。今、何をして、何を考えているのか。考える意味もないのに。もう一生逢いたくない、会う時には自分の葬式でありたい。あゝ、自殺してやる。何故? 何故自分は自殺などして、彼女の気を引きたいんだ? 好きだからか? 愛しているからか? 笑わせるな。自分は、自分はクズだ。カスだ。糞野郎だ。あゝ、忘れたい、記憶から消したい。誰かに自分の物語をするとしたら、「元彼」という文字が、判子が押されたのだ。嫌だ、嫌だ。何故自分はあの時別れたのだろう。後悔か、恥ずかしい。死にたい。そんな勇気もないのに。情けない。あゝ、考えるのをやめよう。
失恋の事を蒼蔵先生に言ってみた。
「クラ先生」自分はこう先生を呼んでいた。
「ん?」
「今から三ヵ月前の事です」八月であった。
「女か?」
「はい、実は、笹目葵と云う子に恋をしたのです――」思い出せる事をすべて話した。
「そっか、バカだなお前。恥知らずの上に、阿呆だ」そんな詞が心に残った。
「はぁ」
「それで勉強か。意味ないな。この本を読め」先生は太宰治の「正義と微笑」をくれた。
何でこの本を、読んだことがないが、先生の事はきこう。
読んでいくうちに面白いと思った行を赤ペンで横線を引き、帳面に書き込んだ。
「正義と微笑」 太宰治
三五頁 才能というものは、或るものに異常な興味を持って夢中でとりかかれる時に現出される。
七四頁 人間は幸福な時には、ばかになってもいいのだ。神もゆるし給わん。
九一頁 白痴五十人、点取り虫十人、オポチュニスト五人、暴力派五人、
一二三頁 「とても読めるもんじゃないよ。でもこうして並べて置くと、必ず読む時が来るのだ。」
一四九頁 「生ける屍」になるのだ。生きても、意味の無い人間になるのだ。
一六四頁 「大事なものは、才能じゃなく、やはり人格だ。」
一六七頁 学校へ出てみたが、学生が皆、十歳くらいの子供のようにみえた。
一六八頁 自殺。けさは落ち着いて、自殺を思った。ほんのの幻滅は、人間を全く呆けさせるか、それとも自殺させるか、おそろしい魔物である。
一六九頁 むなしいのだ。すべてが、どうでもいいのだ。
一六九頁 世の中は、ばかばかしい、というよりは、世の中に生きて努力している自分が、ばかばかしくなるのだ。
一七〇頁 なんだ、才能なんて、あてにならない、やっぱり人格が大事だ。
二一〇頁 「善くかつ高貴に行動する人間は、唯だその事実だけに拠っても不幸に耐え得るものだということを、私は証拠立てたいと願う。」これは、ベートーヴェンの詞だが、壮烈な覚悟だ。
二一三頁 僕の悩みは、お前たち白痴にわかるものか!
二一七頁 役者でもなんでも、まじめにやって行けたら立派なもんだ。
二二〇頁 その苦しみが、ふうと消えて、淋しさだけが残った。
二二三頁 性欲の、本質的な意味が何もわからず、ただ具体的な事だけを知っているとは、恥ずかしい。犬みたいだ。
二二五頁 己の只一人智からんと欲する大愚のみ。(ラ・ロシフコオ)
二二五頁 まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。知らない事は、知らないと言おう。出来ない事は、出来ないと言おう。思わせ振りを捨てたのならば、人生は、意外にも平均なところらしい。磐の上に、小さい家を築こう。
一か月が経った時、九月。
「何か、わかったか?」蒼蔵先生が訊いた。
「はい」
「そっか」
「当然と思っていたことが文字になって、詞となって書かれていました。何かすっきりした気分です」
「おう、青春もいいがな、勉強しないと後悔するからなぁ」確かに、先生が云う通り今勉強すればなんやかんや未来の自分が苦労しない、今努力すれば、後から努力する必要がない。
例えると、人生で或る程度の努力をしなければならないとすると、今やるか後からやるかといった選択肢がある。が、やらないというのはない。ならば今やった方が後から楽をする。
自分は、今、懸命に勉強したいと、努力したいと本気で心から思った。
通知が来た。大葉大学の通知であった。そしてすぐ開けた。「合格」と書かれていた。三文字ではなくてよかった。安心感だ。やったー! と云う気持ちだ。親に伝えた。
「ハルちゃん! おめでとう!」母が自分を抱きしめる。
「良くやった」父が云う。兄達も喜んでくれた。三月に東京に引っ越すことになった。
新しい住処、人々、経験、体験、空気、東京一人暮らしだ。何ていい気分だ。ここは、天国か。皆が幸せで、笑顔でいる。綺麗だ。美しい。努力が報われるとはこの事か。
「クラ先生。ありがとうございました」
「おう」いつもの用に煙草を吸っていた。
「ただ、お前。女には気を付けろ」
「何故ですか」
「都会以外に、お前、顔が可愛いからな」
「は、はい」どんな忠告だ。笑ってしまった。
「ま、優しいからな」又か、呪の詞。気にしないでおこう。新しい生活が待っている。
十八歳、東京。自分のアパアト。28番。大家さんはいい人であった。色々と教えてくれた。近くのうどん屋が美味しいとすすめられた。行ってみると顔の怖いおじさん。
「学生さんか」
「はい、近くのアパートに最近引っ越しました」
「キョウさんのとこか」
「はい」
「いっぱいめは、うちのおごりだ。遠慮すな」
「いや――」顔を見たらやけに鬼であった。黙った。
「何か入れるか」
「生姜を」
「して」
「玉ねぎを」
「いいね、あんちゃん。きにった。名は」
「桜坂春樹です」
「おお、立派や。わしゃあ、大将だ」
「なぁに、タイちゃんや!」奥から聞こえる女性の声。
「あんた、何格好つけようとしてんだい」顔を出して、大将の背中に手で強く叩いた。
「あら、可愛い。あたしゃ、ヤッコ。よるしゅう」大将の奥さんかな。
「あ、はい。どうも」うどんは、美味かった。
「又こいよ」
「はい」
良い人達だ。善人とはまだこの世界にいるのだ。自分も父が云った様に「強い善人」になるのだ。これからも懸命に生きるのだ。東京一人暮らし。
第貳章
八月、又暑い夏が来た。東京はやはり騒がしい。祭りも人は多かった。あれから二年も経った。二十歳だ。あゝ、そう思えば来年は成人式か。たこ焼きでも食うか。
「まいど」
うまかった。一人でロハ台に座っていたら。
「サキじゃねえか」そこには、背の高い筋肉隆々の男と十五六の少女がいた。
「ん?」
「お前、親友を忘れたのか」
「まさか、トモ?」驚いた。
「そうだよ」
「だとすると、梓?」
「は、はい」
又会えた。
「何年ぶりだ、五年か」
「おう」
色々と話をした。智哉の母親は再婚したらしい。相手は、新聞関係の偉い人みたいだ。梓の病気は治ったみたいだ。智哉は新聞記者の道を選び進学しているらしい。アパアトに連れてった。
「サキ一人か」
「おう、東京一人暮らしだ」
「東京一人暮らし、良い響きだな。女はいねぇのか」
「いる訳ねぇだろ」
「ダメだなあ」
「ならお前はどうよ」
「梓さえいればいいさ」
「そっか」相変わらず梓は人見知りだった。
時々智哉は飲みに来ていた。自分は、空っぽに思える日々が続いていた。医学部に入学出来たのは嬉しいものの、二年も経てばその勢いは冷める。「受かったぞ」という灯は時と云う風に吹き消される。周りを見たら皆医学生だらけじゃないか、学校と変わらず優秀な生徒もいれば怠け者、調子者、凡人、変人と云った人材がぞろぞろといる。進まなければ追い越される。確かに幾ら学問ができても人間性がクソだったら意味は無いが、勉強の基本もちゃんと出来ない奴が言える事ではない。
大葉大学は私立だ。かなり高い、確かに東京の十の内に入るが、ボンボンしかいないようで少し嫌いになる。自分が貧乏とは思わない、大富豪でもないが、小金持ちどころだろう。親の金を食いながら生きるのは簡単だ。この時代は働かないといけないのだ。のろけては、堕落してはいけない。だが、坂口安吾の「堕落論」では、落ちて、堕ちて、上を見るのだ。人間は地獄の底に落ちて、もう落ちられないくらいに落ちて、上を向けば、上へ進むしかないのかもしれない。だが、自分は落ちたくない。怖いのかもしれない。まあ、いいや。
あゝ、主よ、生きるとは、何ぞや。
あゝ、主よ、死とは、何ぞや。
くだらぬ事を考えても仕方がない。だが、迷う。
真夜中のぼやけた月を眺めながら、「上も向いて歩こうよ、涙がこぼれないように」と歌っていた。気持ちよく静かに細雨が降って月が見えるのが不思議だ。あのくらげ見たいな満月。満月? まあいい。「俺に似ている」と呟いた。すると玄関から。
「おいサキ。いるかサキ!」戸をドンドン叩きながら自分を呼んでいる。煙草を灰皿に消し、面倒臭そうに戸を開ける。
「よくもこんな深夜に人様の戸を野蛮に叩いてくれるな」
「一人暮らしの親友のアパートに飲みに来てもいいだろ」
「トモならな」
「優しいねえ、よっモテ男のサキさん」二人で笑った。
「そんな冗談を言いに来たのか。トモさん」
「いや、聞いてくれよ」彼の後ろに人影が見える。少女のようだ。
「その前にこの子を風呂に入らせてくれよ」雨で濡れた少女を入らせた。
少女は荷物を担ぎながら入っていった。「失礼します」と小声で言う。智哉は傘を指していたので大丈夫みたいだった。
「でっ、説明してくれるか」
「それがな、このアパートの入口の門にしゃがみ込んでいたんだよ。心配して話しかけたら、紙を見せてくれたんだ。そこにお前の名前と住所が書いてあってさ。でも何故か部屋の番号だけが書かれてなかったんだ。まっ、そういう訳だ」
「そっか。まあ良いや、明日になったら交番に連れて行くわ。飲むか?」
「いやいいよ、可愛い妹が待っているのでね」ニヤニヤしながらお気に入りの帽子を被った。
「おいサキ、手を出すなよ。親友が犯罪者なんて嫌だぜ」
「残念ながら、今の俺はそんなのには興味が無いのでね」鼻で笑ってやった。
「そっか、信じてるぞ」
「はいはい。早く帰ったらどうだ、お前の大好きな梓ちゃんが待っているんじゃないのか」
「おう、あと煙草はあの子が居る間は止めろよ」と言い残し暗い夜に帰った。その時にはもう雨は止んでいた。流石に女性人が来たから部屋を片付けだした。ガラクタが出るわ出るわ。片付け終わる頃、少女は風呂場からでた。
「わざわざ、ありがとうございます」
「おう、風邪、引いてないか」お茶を湯飲みにそそいで少女にだした。
「どうも、御丁寧に。おば様から聞いたと思いますが、私の名前は烏谷茜と申します。どうぞ宜しくお願いいたします」と行儀良く挨拶をした。何も理解していない自分は一瞬、凍った。何も聞いていない、唯の迷子じゃないのか? いや待てよ確か母から手紙が届いたはずだ。
「ちょっと状況を理解するのにお時間ください」
「いいですよ」少女は、はてなを顔に描いた様に首を十度くらい右に落とした。急いで母からの手紙を探し始めた。後から読むと言いながら忘れてしまった。あった! そこにはこう書かれていた、
「元気にしている春ちゃん? 貴方の大好きな母さんだよ!
烏谷家の茜ちゃんが三月頃に着くと思うのだけどね、その時は宜しく。あの子が着く前に読んでいると嬉しいのだけどね、春ちゃん面倒臭がりだから、着いた後で読むかも知れないけど。この手紙が説明書だと思ってね。
一、彼女は烏谷家の娘、つまり或る大企業のお嬢様。絶対に手を出しちゃメッよ。
二、茜ちゃんの父親は貴方のお父さんと親密な関係。昔からの幼馴染みたい。
三、茜ちゃんは今まで欧羅巴で学問を学んでいました。でも高校は日本で勉強する事になったの。『母国の文化と人生の勉強でもあるから』と茜ちゃんの父親が云っていたよ。
四、春ちゃんが三年間面倒を見る。
以上、何故春ちゃんに決まったのと云うのは『現在東京に居るのはハルだからだ』とお父さんが云っていたよ。後、疑問に思う事があるなら貴方のお父さんに尋ねるように。お母さんからも頼むよ。
春ちゃんの大好きな母より。」
少し考えて、深呼吸をした。母が自分に頼んだ事だ。仕方がない。
「どうやら、確かに君、烏谷茜さんは、高校卒業まで俺が面倒を見る事になった。始めまして。桜坂春樹、大学二年生だ。どうぞ宜しく」
「改めて、三年間宜しくお願いします」綺麗なお辞儀だ。
「何て呼べばいんだ? これから一緒に住むんだからさ」
「其の儘、アカネでいいですよ。あちらではそう呼ばれていたので」
「そっか。俺は、家族はハルと呼ぶ、友達はサキと呼ぶ。どっちでもいいぞ」
「じゃあ、ハルサキで」
「何でだよ。変人か?」
「冗談です。ハルさんとお呼びします」
自分は令嬢の寝る所を何とか用意した。
令嬢は、十五歳。梓と同年代であった。四月に高校の入学式に責任者としていくことになった。行ってみたら、桜が見事に咲いていた。黄桜、白桜、紅桜。健気で、あでやかであった。
「よっ」
「トモ?」
「何でここにいるかって? 梓もここだ」
「あゝ」
「お前こそ」
「あゝ、実は――」令嬢の事を話した。
「マジで手を出すなよ!」
「オメェな」
「サキ、そんなのいいのか」
「さあな、親が決めたもんだからなぁ――」
古桃女学院、お嬢様学校だ。女生徒達は、英語と仏語は話せるみたいだ。生徒達は、皆、話し方がとても独特な「平安時代」みたいだと噂されている。庶民には通じない不語だとか。
「私、梅坂八之助は、この学園の校長先生として今年もお願いいたします」
「おい、サキ、聞いたか、『坂』がついてるぜ。親戚じゃねのか」
「さあな」
生徒たちの親はいなかった。執事とか、女中とか代わりにいた。金が有り余ってる奴らだ。どうせこいつらも意識を持ていないだろうな。軽蔑していない、唯予測している。人生に対して意識がないという事は、残念なことだ、何故ここにいるかがわからない兎だ。笑えるな。いや、悲しいな。
梓は頭が良いから、成績が非常に良いから入学できたそうだ。この学校は仮貴族達だけを入学する仕組みになっているらしい。名がある奴らだけが、あの「華族」と呼ばれる奴らが、あゝ、気持ち悪い。庶民は、努力で。金持ちは金で。笑える社会だ。どうせこいつらは皆「斜陽家」なのにな。落ちぶれた奴らの集まりなのにな。
今の日本は何だ? 金がすべてだ。物質がいいのか。働いたら金が入る。その思想だ。物質思想だ。精神は? 心は? 無いか、ならその罪は、罰に子孫がつぐことになる。残念だ。いや、可哀そうと人を見ていけない。人ならばな。あいつらは、人の皮を被った悪魔だけだ。悪魔の呪は強いぞ。覚悟しとけ。いや、人の不幸を願うのはよくない。願う? 願っていない。忠告だ。お前らの子孫は懸命に生きなく、だらしない奴らになってしまう。わかるはずがない。凡人が、秀才が、無智が、白痴が。いや、人を馬鹿にしていない。情けない、情けない。人を罵倒する権利があると思うのか、痴だ。自分は愚か者だ。人の事も知らないのに軽蔑した、決めつけてしまった。あゝ、阿呆らしい。いや、実際奴らはそうだろ。違うか、神は自分に天の才をくれた。あの果実を食ったんだ。意識をもっている。持っていない豚共とは違う。いや、それでもだ。同じ人間ではないか。何が違う。手も、足も、耳も、目も、口も、あるではないか。肉と骨でできた体では無いか。神に似た一番の体。血肉でできている。なら何故こうも自分は違うと思いたい?
そっか、思い出した、
「例外でありたいという願望ほど一般的なものはない」
自分も人間なんだ。そう思うようになった。なら、天才は存在するのか? それとも我々が「天才」と呼ぶ者は、努力で追いついたのだろうか。何時か、兄が云った、
「努力が天才を作る」
なら努力のみ。苦痛だろう、だか人が成長している時程痛い時は無いのだ。
あの学院の奴らもきっとまだ失敗して、絶望して、希望を見つけるだろう、成功の光を見つけるだろう。あゝ、がんばれよと云う願いがあふれた。
主よ、人々に頑張りの力をどうか与えてたもう。例え我が身が滅びても、どうか――――
自分は、酔っていたのか?
令嬢、茜は、背が梓より低く、眼鏡をかけていた。
只のボンボンではない。金で努力を買っていない、金で時間を買っていない。偉い。きっと此の儘続けば良い大人になるだろう。此の儘続けばな。勉強だ。令嬢は勉強を好む。何故勉強するのかと聞いてみた。
「ハルさん、私は親が勉強しろと云ったからではありません。私は学問が好きなのです。学ぶのが、新な事を覚えるのが大好きなのです」純粋だ。だが、知識と知恵は違う。まあ、目で見たものを彼女は懸命に勉強する。それでも偉い、ちゃんとした理由がある。「好き」という志だ。自分は「興味」であった。が、それだけでは嫌い、無関心な物から逃げている。あゝ、後悔である。
「ところでハルさん、恋愛経験はありますか」あゝ、女性から必ず聞かれる。「キスしたことありますか」とか、「何人泣かせたの」とか。まあいい。
「あるさ、人間二十歳にもなれば青さを捨てなければならない」
「どこまで」
「ま、小僧程度には」
「具体的に云ってくれますか」
「俺を観察して実験対象にでもしてるのか」笑った。
「いや、唯、頼まれたので」
「あゝ、キスぐらいは」
「それ以上は何もないと」
「はい、そうでございます。デカさん」
「失礼しました。聞きすぎました」
「いや、いいよ。慣れてる」
「事情聴取されるのが」
「チゲェよ、不良か俺は」
「なら――」
「女性に聞かれるのが。年、顔、体、関係なく」
「それは、『モテる』と云うことでしょうか?」
「違うな、女性は欲深い生き物だからなあ」
「そうでしょうか、男性方の方が一分に一度エロチックな事を考えてると云う科学的研究結果がでてます」
「女性がそんな事言ってはいけない」
「失礼」
「でもまあ、肉欲ではなく、負けず嫌いみたいなぁ、諦め深い心を持っているのだ」
「それなら、全女性が前見る男性に聞くのでは」
「それは、確かに。なら何故俺はよく聞かれるのだろうなあ」
「優しいからじゃないですか」又か、
「そんなに俺は優しいか」
「はい、それ以外にハルさんよく可愛いと言われませんか」
「あゝ、よく知ってんな」魔女かこいつは。
「外見でなく、雰囲気ですかね」
「そっか、罪な男だな」鼻で笑った。
「本当、そうね―――」真面目な小声であった。少し大人びたような、寒気のある仕草であった。
「本屋いくか」
「行きましょう」
アパートの近くにある古本屋、令嬢は外国の本は読んだことがあるが、日本文学はあまりないと云う。十冊くらい手に取り買ってやった。川端康成、武者小路実篤、等々。大半が恋愛小説であった。さて、令嬢は知っていたのか、どうなのか。
四月の終わり「桜が咲いた後、桜葉は紅葉する」を思い出した。その続きは確か「皆は、それを知らない」であった。何を意味するかは知らぬが、強いて言うならば、全員は死ぬまで無知ってことだ。ま、死んだって全てが知れるとはわからないが。知れるものなら知りたい。何時か何処かの王が神に欲しい物を何でも頼んでいいと云われ、王は知恵を頼んだという。神がくれるのなら、欲しい物だ。
自分は考えた。もし令嬢の両親が心配なら、何故新しい住処を買ってあげなかった? 執事か女中でもやとって、日本に置いとけばいいではないか、どうせ金持ちなのに。それとも、隣の部屋でも買ってやれば、同棲しなくて済むのに。あゝ、面倒だ。令嬢は、文句とかないのか?
「アカネ、お前は、男と住んで怖くないのか? 苦しくないのか?」
「いえ、父上が云うのであれば」
「いや、そういうのではなく――」説明した。
「それは、そうですが。それでは、両親の真心に守られています。父上はきっと庶民と云う暮らしを私に体験した方がいいと考えたと思います」
「何故男だ。男は、駄目だろ」
「私、お邪魔ですか? いたら、お困りますか?」
「違う、唯。襲われるとか――」云い終わると、茜は初めて笑った。
「失礼。ですが、その分父上がハルさんのお父様に信頼しているからではないでしょうか。そして、貴方も信頼されてるからではないでしょうか」
「正当な答えだな」納得だ。
「この生活に嫌気がさしたり、私が何か嫌な事をしたら、すぐ追い出していいとの許可がハルさんにあると承知しております」
「そんな権限。ま、いいや」
「お好きにどうぞ」
「さっき何で笑った」
「失礼。ハルさんが『襲う』と云いますから」
「男に気を付けろよ、野生な生物は何をしでかすかわからないからな」
「承知しました」きっちり返事する。まさに令嬢だ。話詞が良い。ちゃんとしている。親が厳しく教育したからだろうな。
自分は、悩んでいた。恋とは恐ろしいものだ。魔物だ。実際「六箇月経てば恋は終わる」と何処かで読んだことがある。信じている訳ではないが、希望があった。自分は未だに葵の事が好きなのかと時々考える。心の何処かで彼女からの手紙、電話を待っている。何かの合図を。待ったって意味ないのに。不見目だ。勉強に前より集中できないのである。恥だ。恥なのだ。
気付くと五月であった。十六日、土曜日に智哉、梓と茜でアパアトに集まっていた。六時過ぎに手紙が届いた。
「おいサキ、笹目葵さんから手紙だ」来た!
「結婚式だってよ」
「ん?」
「結婚するみたいだ。ほら」勝手に開けた。
「あゝ、六月十三日。土曜日か」
「笹目葵さんって誰?」めったに話さない梓が声を出した。
「あゝ、誰も知らないか。古い友人さ」
「仲が良かったのですか」茜。
「まあな」
「そんな奴中学ん時にいたか?」智哉は、知る訳がない。
「ま、違う学校さ」
「あっそ、まあええや」
「何の話だっけ」
「猫の名前です」そうであった。夏目漱石の「吾輩は猫である」であの「吾輩」の名は「ない」と書かれている。そこで自分は「名が無い訳でなく、名前がナイなのだ」と馬鹿な事を言った。何故言ったのか不思議だ。そこで議論が始まった。「ナイ」と云う名ではなく夏目漱石は、「猫の名前は『ネコ』だろ」と云った事があった。即ち元々なかった、考えて無かったんだ。「ナイ」と云う名前があるはずが無いんだ。可笑しな事に頭を使ったと思った。
「ハルキさんは、猫に名前を付けるとしたらどんなの付けますか」梓は、自分を「ハルキさん」と呼ぶのであった。
「毛の色による。例えば黒色はクロかコクそれともコゲ。白色はシロかハク。三毛猫はミケか三味線」
「サキ、三味線は酷いぜ」
「何故です」茜は三味線を知っているのか。
「三味線に使われている皮は何のか知ってるか」二人に聞いてみた。
「牛か馬。もしくは、兎とか」純粋な梓。
「答えは、猫だ」二人は嫌な、引いている顔をした。智哉が気を使って、
「カピバラって知ってるか」
「あの可愛いの」梓は好きなのか? 「あの鼠の」茜は何故そんなことを云う。
「あれは、実はブラジルで食べるみたいだぜ」智哉、何故そんな事を云う。
「兄さん」
「美味しいのですかね」茜は興味があるのかな。
「いや、臭いがすごくて、肉がかたくて食べにくいってさ」
「何でそんな事知ってんだよトモ」
「新聞の仕事で日系ブラジル人で上条って奴がいてさ。そついがそんな事を教えてくれたんだ」
四人で良く遊ぶようになった。男子校との交流で梓と茜がモテまくったとか、智哉の東京に来てからの暮らし、茜の欧羅巴での経験、梓の告白された数とか。何時か智哉が写真屋に行こうと云い出し皆でとりに行った。そこで、
「あの、すみません」四十近い女性が自分に声をかけた。
「モデルに興味は、ありますか。いえ、そのとても美しいと思いまして」
「あゝ、そう云う関係の会社ですか。いや、結構です」
「もしありましたら、私、二松と云います」名刺を渡された。
帰り道、
「サキ、何もらったんだ」
「あゝ、モデルになりたくないかと誘われた」
「へぇ。やれば」
「やだよ」
「金幾らか稼げるだろ」
「いや、金じゃねえよ」
「何でだ」
「抱かれる可能性があるからだ」
「あぁな。まぁ、そうだな」
梓と茜は前を歩いていた。
「えっ、ハルさんが!」茜は叫んだ。
「しっ」梓が後ろ向き自分の目を見た。顔が赤かった。いや、あれは夕日のせいだったのかもしれない。
やがて六月。思い出した。葵が結婚するのだ。二十歳だぞ。まあ、いいや。いや、嫌だ。寝取られた? 自分が捨てた女なのに? だらしない。だらしないのだ。悔しい。後悔だ。だが今更何ができる。嫁を結婚式にさらうのか。映画じゃあるまいし。その前にそんな勇気がない。情けない。恋とは魔物だ。思い出した、「恋は盲目」シェイクスピア「ヴェニスの商人」。その通りだ。恋とは見るものではなく、感じるものだ。痛く、苦しく、消えない炎の様に。詩か? 駄目だ。詩人とはもっと激しく表現するであろう。自分は、阿呆で、できそこないで、馬鹿で、如何仕様もない奴さ。忘れたと思った人は、あの心は、又来る。まあ、ガキだ。だが、「結婚とは、恋愛でするものでは無い。何故なら結婚は契約だから」と実家の女中さん、浦梅さんが云っていた。契約、そうだ。結婚すれば離婚しても「傷跡」が残る。「バツイチ」とされるのだ。だが、付き合うだけはどうだ、例え浮気されても、別れれば互いに「青春」だったことを記憶の中に残すことができる、忘れられる。だが、恋だけであったならばの話だ。結婚とは尤、ずっと尤真剣に取り扱わなければならない。「好きだから結婚しました」だけでは駄目なのだ。女中の浦梅が云う通りなのだ。さて、笹目葵は、どっちで結婚したのだろうか。後悔しないか、離婚しないか。別に彼女の不幸を願っているわけではなく。心配なのだ。彼女はどうせこんな事知る訳ないからな。自分は軽蔑したのか? いや、事実だ。二十歳で結婚するなんて、馬鹿げている。尤ちゃんと人生計画を立ててからするべきだ。いや、彼女の勝手だ。間違えても、失敗しても自分にはもう関係ない。関係ないのか? もし、あの人が自分に助けを求めに来たら話は別だが、そんな事をする人ではないと思う。まあ、いいか。他人の様な関係ではないか。いや、他人だったら、結婚式などに呼ばない。あゝ、古い友人みたいな者かもな。正直行きたくもないが。行って見よう。暇なのだ。勉強以外することがない。読書以外趣味がないのだ。忙しいからいけないと譃を吐けないのである。あゝ、面倒臭くなってきやがった。駄目だ。まあ、後一周間。実家に顔を出そう。母の顔が見たい。序に茜を連れてやってあげよう。何か楽しくなってきた。
「アカネ、六月十三日。土曜日に実家に帰る。その日開いているか」
「はい」
「そしたら、土日いるつもりだ。俺は、結婚式に行くがな」
「おば様の家にいてもいいのですか」
「勿論だ」
「行きます」しっきり答える。母に電話をして、その話をした。嬉しそうであった。
六月十二日、金曜日。夜、新幹線に二人でのった。十時間以上の旅であった。新幹線は初めてであった。やはり早い物だ。
「あれが富士山でしょうか」
「そうだ、ヤマナシって云うのにな」
「山梨」
「可笑しいだろ、山梨って、山無しって聞こえるだろ」
「良く考えますね」彼女は、ふふっと笑った。令嬢は、髪は長かったが黒色ではなく、少し茶色が混じっていた。太陽に当たるとちゃんと見えてくる。いや、日光のせいではなく、茶色っぽい。十五の娘に興味は無いが、髪は美しかった。
「若いお二人さんやなぁ」後ろから聞こえる。
「ほんまやなぁ、兄妹さんかなぁ」二人の大阪のおばさんみたいだ。
「おなごの方はべっぴんさんやなぁ」
「ほんまやぁ、女優さんに似とるわなぁ」
「男性の方も、かわええなぁ」
「ほんまやなぁ」
「兄妹やのうて、恋人さん同士でデイトなのかなぁ」
「まぁ、なぞ、いやらしいぃ」
「なんや、いやや」とキャッキャ騒いていた。気にせず寝た。
町に着いた。駅から降りて、家に着いた。朝六時。
「ただいま」
「待ってたわ」母であった。
「お邪魔します」
「アカネちゃん!」母は飛び出して、抱きしめた。
「父さんは」
「仕事」
「おゝ、ハル。来たか」蓮太郎兄さんであった。
「久しぶり」
「彼女は例の――」
「初めまして、烏谷茜と申します」綺麗なお辞儀をした。
「御丁寧に、桜坂蓮太郎です」
「知っての通り、ハルの母よぉ」又茜を抱きしめる。
午後六時過ぎ。着替えて結婚式に行った。魚跳村。
結婚会場は、少しも田舎臭くなかった。入るとすぐに花嫁姿の笹目葵と結婚相手の滝川さんが目に痛く焼き付いた。
一応、挨拶をした。
「ご結婚、おめでとうございます」ちゃんと言えただろうか。
その瞬間思ったことは、さびれた「良かった」と云う気持ちと謎に奥深い、闇暗い、詞に出来ないほどの罪悪感? いや、唯の鬱。唯のうっすらとした、ぼやけた淋しさに似た感情であった。うまく頭の中で表現できない様な。唯、心の中で思う、無気味な、あゝ、そうだ。虚しさである。精神的感動。あゝ、自分も人間だったのかと確かめた。自分も感情を持った畜生だと再確認した。むなしい。無無しい? 無亡しい? むなしい。
一人、誰とも話さないで、ぽつんとしていた。そこに、同じく、隣の卓子に一人でいる女性を見た。こちらに気付いた様子で、立って話しかけてきた、
「あんた、四十歳みたいだね」
「はぁ」
「疲れた目つきに少し白髪が頭の後ろにはえてるわ」
「四十は酷いだろ」笑った。
「あたし、篠風紬。よろしく。気軽にツムギでいいよ」
「そう。桜坂春樹。よろしく」
「サクラって呼んでいい?」ぐんぐん来る。
「どうぞ」如何でも良かった。
彼女は語りだした。結婚式に来ているのは、あの滝川さんの関係者で来ているとか。親戚ではなく、友達の友達みたいな関係であったと云う。薬学生で看護婦になりたいと云う。不美人ではなく、話し方、仕草が彼女を美しくしていた。隣にいるだけで安心する様な不思議な雰囲気を感じた。東京大学の生徒であった。そこに何故か自分を比べてしまった。大葉大学は私立であったからだ。篠風は、豪くしたしく話してくれた。そんな処を葵に見られた。恥ずかしくなって、恥じることないのに。
「サクラは、知り合い、いないの?」
「いないね、アオイさん以外は」
「へぇ、そうなんだ」
「まあ、モトカノだからさ」何故自分はこんな事言ったのだ。別に言う必要ないだろ。親、兄弟、親友にも言ってないのに、内緒にしてたのに。何故言った。これを「口が滑った」と云うのだろうか。
「そ、そうなんだねぇ。なら来る必要ないじゃん」尤もその通りだ。
「古い友人だったからね」
「へぇ」
「踊らない?」誤魔化す様に言った。その頃には、式が終わって皆、音に合わせて男女で踊っていた。
「私でいいの?」
「勿論、君じゃないといけない」何故自分は「思わせ振り」見たいなことをしたのだろうか。
「with pleasure」英語で「喜んで」と彼女は答えた。
酔っていたかもしれない。唯楽しみたかった。踊って、踊りまくって。浮かれて、疲れて、忘れたかった。篠風に悪いと思った。利用している感じで、自分を嫌になった。だが、言い訳の様に「もし彼女に好意がなかったら断っていた筈だ」が、同時に「お前が誘ってなかったら彼女を好意を持たれていると勘違いしなかった」と心と頭の中を過った。情けない男と思った。
外へ出て、二人になった。
「寂しい男ね」篠風は、そんな事自分に云った。急に肉刀で後ろから刺された様に感じた。涼しい詞だ。
「あゝ、寂しいさ。俺は、情けない男だ。捨てた女をまだ好きになった馬鹿な奴さ。阿呆で、如何仕様もない人間さ」
「そんな事言ってない。あんたは立派よ」
「白痴にわかるものか」
「失礼ね」
「ごめん、取り乱した。今さっきの忘れてくれ」彼女に背を向けた。後ろ向くと崖であった。柵に腕をおき、無き月を眺めた。
「でも、好きよ」混乱した。
「酔って空耳も聞こえるなぁ」口に思う事を気違いみたいに出した。
「一目惚れよ」
「思わせ振りしてすまない」
「知ってるは、でも、私は、サクラが会場に入った時から好きなの」
「女性って身勝手だな」又阿呆な事を口に出した。
「好きなの」
「駄目だ。俺と関わっちゃあ駄目だ」
「如何して」
「不幸になるからだ」
「そんな事やって見ないとわからないでしょ」尤もだ。
「俺は、今酔ってんだ。どんな答えでも明日になったら忘れるかもしれない。今君を襲う事だったあるかもしれない」
「それでもいいわ。狼男さん」
「危ないな。魔女さん」
「あら、やだ」
「知ってたか、満月の夜には星が見えないんだ」
「でも、月がなかったら星が代わりに光るわ」
「だが、曇りだったら、どんな星でも、どんな立派な満月でも見えない」
「それでも、月は輝いている」
「暗い夜が好きだ」
「理想ね。でも現実は違うわ」
「あゝ、その通りだ。どんなに曇っていても星と月は空にいて光を放っている。なら雨の夜はどうだ」
「夜雨にも満月が見える時もある」
「ほう――」篠風は何時の間にか自分を後ろから抱きしめていた。
「サクラの匂いが好き」
「性癖かよ、いや、匂いかよ」
「違う。一緒にいてこそ好い匂いなの」
「責任とれないぞ」
「いいわ、それでもいいわ」
「責任取るさ」
「やっぱり、サクラは優しいね」
朝、如何家に帰ったか知らない。故郷を茜に案内した。日曜日は昔と変わらず赤い太陽のしたに人々がぞろぞろと出かけている。この町も年が経つごとに大きくなっているのを感じた。茜は初めて豚カツを食べた。
「ハルさん、もし私が好きな人がいたら、如何したらよろしいでしょうか」茜から恋愛相談は、意外であった。
「お前の場合は、身分による。もし俺みたいな庶民だったら、親や社会の反対がある。そこで何処かの小説みたいに『駆け落ち』するか、諦めるか―――。でも、まあ。あんたの親ならきっと良い奴を見つけてあげるさ」
「そうですか――」
「親を信じないか?」
「いえ、とんでもない」
「庶民みたいに自由恋愛ができたらいいと思ってるようだが、大人の世界とは面倒臭い物がごちゃごちゃとあって、時には自分の『正義』を折り曲げてでもしないといけないものが殆どだ。もし、お前が、誰かを好きになったら、如何するか何て結局自分自身が選択肢を選ばないといけないのだ」
「でも、もし最後に丸く治まる答えがあったとしたら――」
「それを見つけるのが困難なんだ。別に無いとは言わない。唯、その選択にどれくらいの時間、苦労、努力、金を使うかわからない。そこで、不安が生じる。その不安にも負けずに出るのなら、いいや」
「そうですか――」落ち込んだ仕草を見せた。
「いや、まあ。でも人生って長いモンだから、恋愛だけじゃないし、金だけじゃないし、家族だけじゃないし、神様
だけじゃない。全てにとってにある程度あれば幸せな人生になるんじゃないのか」
「恋愛は、心の病気ですか?」
「いや、まあ。『恋とは精神病だ』と云った希臘の哲学者もいる。自分はそうだと思う。恋に落ちたら、冷静に物事を判断できなくなる、判断基準と自分の価値観が混乱する。つまり、色眼鏡をかけることになる」
「もし、叶わない恋だとしたら、この感情を殺すべきでしょうか。それとも告白して、答えを受け入れて、現実をしって、『しょうがない』と云って、自分の道を歩むべきでしょうか?」
「感情何て、売れないし、殺せない。告白しないといけない状況が絶対くる。その時に告白したらいいとおもうね」
「そうですか、恋愛とは、何でしょうね――」
「恋愛とは、心の問題たったろ」
「そうでうね」茜はニコッと笑顔を見せた。その笑顔は、苦笑いじゃなければ、直な笑顔でも無かった。唯の、仮面だったかもしれない。
東京のアパアトに帰り、茜が手紙を自分に渡した。丁寧に書かれているあの古桃女学院からであった。責任者を呼んでいた。行ってみた。綺麗に桜が剪定されていた。校長室に入った。
「良く来られました」成績やら、学園内での茜の態度やら、人間関係とかであった。
「話は聞いています。責任者の桜坂春樹さんでよろしいのですね」
「はい、その通りです」
「烏谷さんの生活には問題はありませんか」
「いえ、異常はありません」
「学校としても、責任がありますからね。変な事とかないなら問題ないです。教師からも、生徒からも烏谷さんは慕われています。とても良い子です」
「はい」
「以上でございます。お時間取らせてありがとうございました」
「こちらこそ」出る時にその校長から手紙を受け取った。裏に「貴方だけが読んで良い物です」と書かれていた。家に帰り早速開けてみたら、
「拝啓、我が孫へ、
驚くであろうが、この梅坂八之助は貴方の祖父である。詳しく知りたいならお前の父親と一緒に葬式に
来るがいい。絶対に一人で来るな。父親が嫌と云うなら、来るな。」
と、書かれていた。知りたい。何故だ、確かに今まで父型の祖父はいなかった。父は何時もその話になると上手く誤魔化していた。だが、何故葬式?
「アカネ、あの校長はやめるのか」
「はい、来年の四月には、確か、病気であったとか」
「あゝ、そっか」
「たしか肺結核だとか」
「ほう、だいぶ年取ってんのか」
「七十歳とか」
「ありがとう」結核、七十歳、葬式。如何父を説得する――。何故だ。自分があの人の孫? 信じられない。そうだとしたら、何故自分だけ? 兄達も呼べばいいではないか。理解に苦しむ。まあ、事情があるのだろう。
自分の心は、篠風にたいして愛情は無かった。恋でも無かった。だが興味はあった。一人暮らしで、恋愛経験もなっかた。時が経つにつれ、彼女と出かける様になった。それなりの肌の関係はあった。大人の階段ともいえばいいのか、若い頃の歴史とでもいえばいいのか。白い肌であった。豆腐の様なつるんとした、なでやかな。
紬は、努力家で、ちゃんとした人間だ。親の教育なのだろうか。何故勉強したのか、何故努力できるのかと尋ねてみると、「考えた事ない。時間の無駄だと思うから」とすんなり答えられた。きっとこれが彼女の才能かもしれない。何時しか、紬と付き合っていた。いや、親友であった。「友達以上の、恋人未満」であった。世界がどんなに変わっても、彼女と一緒にいたいと思った。好きではなく、それ以上の何か。きっと詞に出来ない感情である。人として紬を見る。「女」としてみるのではなく、外見も関係ない。魂の繋がりとでも例えれる、詩人か? 笑ってしまった。
試験勉強で茜は梓の家行くのが日課となり、智哉は仕事と大学で忙しくなるから前見たいに遊び来なくなった。皆忙しいのだと呟く自分。「暇人とは我なり」と変な事を思うようになった頃、紬が来るようになった。
「疲れた。癒して」など云ってアパアトに入ってくる。
「あゝ、暇だ」とだらしない事を彼女は云う。
「勉強は」
「毎日したらする必要ないでしょ」
「そっ」
「サクラこそ大丈夫」
「あゝ、まあ。それなりには」
「今暇?」
「おう」
「映画みに行こうよ」
「面白いのあるのか」
「さあ」
「予定も無いのに何だよ」
「横浜行こうよ」
「行こう」特に考えなかった。
夕方頃に着いた。
「あれ何」
「赤レンガ倉庫」
「あれは」
「中華街」
「中華そば食べようよ」ラアメンの事である。
「おう」
店のおっちゃんは優しい人に見えて、高くとりやがった。
「餃子か春巻き、どっち派?」
「私は春巻き」
「ほう、何故」
「ハルが食べられるから」いやらしいと少し思った。
東京に帰り、うどん屋へ行った。
「大将、口直しに来た」
「おう」
「二人、いつもの」
「あいよ」
「こんな処にうどん屋あったんだね」紬はラアメンが味っけなから口直しがしたいと云ったのである。
「ここは、何時も来るとこだ、ほら大将」
「タイショウ?」
「うまいぞ、覚悟しとけ」
来た、うどんに生姜ましまし、葱ましまし、玉葱ましまし。
「美味しそう」
「だろ」
食べてる処を見ると、紬は可愛かった。自分の者だけにしたいと思った。束縛見たいな事をしたいと少し思った。
時が経ち、大学を卒業する一年前。二十三歳の時。自分に紬が電話した。
「サクラが卒業するのに後一年か」紬は、もう卒業していた。
「サクラ、私、他に相手ができたの。ごめんね」
「はっ」
「今までありがとう。本当にごめんね」
「ちょ、理由だけ話せてよ」
「浮気じゃないから、又逢ったら言うよ」
「あゝ、そっか」自分は彼女を止められなかった。情けない。いや、自分はもとの姿に戻っただけだ。クソが、あゝ、人何か信じたからこんなものになるのだ。三年間付き合った結果が「振られる」様。因果応報か。神は俺にこんな事をくれたのか。いや、こんな状況も考えるべきだった。ふざけるな。人と関わると如何なる。不幸じゃないか。失恋か、いや、怒りだ。「人は理由がわからなければ混乱し怒る」その通りだ。怒っている。捨てられたからだ。違うかもしれない。だが、今更遅い。女性は何を自分に求めて奪うのだろうか。自分は、被害妄想しているのか情けない――――。自分は、篠風紬と云う人間の所為にしたのか。自分自身の行いを。あゝ、怒る。彼女にではなく、自分にだ。何て弱いのか、思うようにできなかったら嘆くのか。子供か。だが、彼女も悪いのでは? 違う。全てのこの世での行いは、自分の中から来た結果だ。自身の弱さを受け入れたくないからって、他人の所為にするのか。情けない。汚い。あゝ――!
自分は、恋愛と云う病につかれていたのだ。きっとそうだ。冷静の自分はこんな事なんかしない。考えろ。自分は何故「恋」の様な事をしたのか? わからない。わからない? 馬鹿か? 女を抱いて、性欲を満たすためか? 違う。愛か? 違う。何だ? この腐った感情は何だ? こんな人間になるのだったのか? 感情を治めろ。爆発的な感動を如何する。何も止められないのでは? 言い訳か? わからない。この世のすべてが分からない。悲しくなければ、「悔しさ」と云った思いも薄れていく。鬱か? これは鬱なのか? あゝ、鬱陶しい。この心を売ってやろうと思った。ふざけるな、自分の完璧な人生計画をこの感情の所為でぶっ壊された? 又、又何かの所為にして逃げようとしている。何が「完璧な人生計画だ」、凡人で生まれてこなければ、天才でもない。努力しても何者にもなれやしない。他人からは理解されず、変な被害妄想をする。あゝ、自分が憎い。心底憎い。怒り? 鬱? 自分自身もちゃんち出来ないのに、如何社会と共存しろと云うのだ? 自分は社会不適合者じゃない。そんな犬畜生共とは違う。そうか、そうだ。元々紬と上手く行く筈がなかったのだ。あははは!
勢いで夜を走った。橋の下にある赤提灯に飲みに行った。一人で、自棄酒だ。寒い十二月。その晩、東京に灰雪が降った。煙草を口に加え、火をつける。夜道を歩いていると転んだ。血を吐いた。口の中に血、酒と煙の味が混ざった。雪に血は溶かしていく、まわりの白い雪を赤くギラギラ輝くように染めていく。「ギラギラ」三島由紀夫「仮面の告白」の最後を思い出した。次に太宰治が雪に喀血して「日の丸」と云った事を思い出した。自分は結核になったのか? いや、手が痛む。そっか、酔っぱらって右手を思いっきり噛んだのであった。その血が収まらないから口でふさいであった。そんな事も忘れていた。自分はどんだけ絶望しているのだ。その瞬間もうどうでもいいやと思った。あゝ、死にたい――――
その夜どんな風に家に着いたのか知らない。
第參章
起きた。手に包帯が巻かれていた。梓が横で寝ている。自分のアパアトにいた。
「起きた?」見知らぬ派手な格好の制服を着た女生徒。
「貴方は――」
「ハルキさん、良かった」梓は起きた。
話を聞くと自分は道端で倒れていたみたいだ。偶然通りかかった茜と梓がアパアトまで運んでくれたと云う。その場面を見た女生徒「菖」が応急処置をしたそうだ。何てこった女性人が三人も男子大学生の自宅にいる。やなこった。
自分は手に傷後が残る程度であった。少し痛む、何日か重い物は持てない。まあいいや。昨日の事は少ししか覚えていない。ドンドンと誰かが戸を叩く。あの野蛮な叩き方。智哉であった。
「おい、サキ、生きとるか」
「おう、生きとるぞ」
「驚かすなよ」
「すまん」
「話は聞いた。まあ、大丈夫ならいいんだ」
「おう、心配したか」
「するわな」頭を叩かれた。
智哉と梓は、帰ったが、あの女生徒は帰らなかった。
「どうも、ありがとうございました」
「あん」
「あんた、いや、初めまして。桜坂春樹です」
「溜口でいいさ」
「はあ」
「家出して来たの」
「ほう」
「ここで一年間泊まらして」
「はっ」
「体なら売るし、何でもするから――」
事情を聞いた。親の会社が買われて、父親の頭が可笑しくなったらしい。暴力をふるい、酷い生活であったと云う。お姉さんが東京に住んでいるから、遠くからやって来たが、姉は何処にもいなかった。親と電話したが、勘当されたと云う。本当、酷い話だ。何もない一人。そう思えば自分は幸せの方かもしれない。だが何故か、何処か彼女の事が――羨ましい。
「アヤメって呼んでいいさ」
「はぁ。高校生だっけ」
「うん」
田舎娘か。
「あんたのお姉さんはここら辺に住んでいたんか」
「うん、この隣のアパートって云ってた」
「ほう」
「大学生で、勉強ができてあの東京大学に入ったんだよ」自慢気に云う。姉に憧れているのだろう。
「ほう」
「彼氏がいたみたいだけど。あのクソおやじが売っちまったんだ。自分で作った病院を買われたって、少し権力が欲しいからって、自分の娘を買った奴の息子と結婚させたんだ。あのクソヤロウ」
「何の生徒だったんだ」
「薬学部」
「まさか――」
「ツムギお姉ちゃんは――」はっ。そうだったのか。彼女は売られたのか。あゝ、やっぱりそうだ。自分と関わる人を一人一人不幸にしてしまう。何で自分は紬を恨む事をしたのだ。情けない。あゝ、如何か許してくれ。自分が生きているから、自分がいるから周りの人を不幸にしてしまう。あの時の黒血みたいに。白い雪を赤く染めていく―――
あゝ、主よ、我に許しを。
あゝ、主よ、我に天罰を。
女生徒、篠風菖は、紬の妹だ。梓と茜の同年代。つまり、十七八歳だろう。高校三年生。よし面倒見よう。何故? しらん。可哀そうだからか? ちがう。恩返し? かもしれない。
「いいだろう」
「はい?」
「ただし。一年だけだ」
「ここに住んでいいの?」
「あゝ、だが、場所を変える」
蒼蔵先生に電話をした。
「クラ先生」
「やっとるか」
「やっとるぞ」
「がんばれよ」
「よしきた」先生との暗号みたいな挨拶である。
「如何した、女でも妊娠させたか」
「いや、その――」
「猫を拾ったか」
「まあ、はい――」
事情を話して、頼んだ。先生は東京の銀座に家を持っている。実際東京に行く前に先生が「あの家に住め」と云ったがあえて自分はアパアトを選んだ。あの28番アパアトは三人暮らしだと狭い。勿論父に電話をした。菖を女中として雇っていいかと。「自由うにやれ。唯、金は送らんぞ」とのことだ。許しをえた。茜の親も別に勉強がちゃんとしているなら気にしないそうだ。先生に感謝して。引っ越した。
別荘みたいな、二階建て一軒家。広くて、まさに「でかい家」であった。東京の銀座。蒼蔵先生は一体何もんだ?
「おゝ、サキ。遊びに来たぞ」
「手伝いにな」
「あゝ、引っ越しのな」
「ありがとう」
「なぁに。親友だろ」
それから、三人暮らしが始まった。茜は相変わらず勉強熱心であった。それにつられて菖も勉強がしたいと云いだした。何とか高校に入学させた。智哉と梓に紹介した。
「お前、運がいいのか、悪いのか」
茜、梓と菖は仲良く見えた。三人は受験勉強のため毎日勉強していた。寒い一月、二月。彼女等の頭の中は勉強でいっぱいだろうな。疲れないのかと聞くと「それなりに休んでいる」と答えられた。心配だが何も出来ない。強いて云うなら、手作りのおむすびを握るくらいの事であった。
白米に塩をかけて食べるのとむすびを握るとは大分味が違う。何故かはわからないが、自慢できる。世界に向かって「俺のむすびが最高だ」と叫べる。
三人が食べているのを見ると何か母性本能がわく。親が子を見る様に。その頃、自分は幸せだった。
努力の結果と云おう。三人は大学受験に通った。智哉は大喜びであった。自分は何時の間にか泣いていた。人は感動すると泣くのだ。良かった。本当に良かった。
梅坂さんから手紙が届いた、筆で書かれた崩し字。
「時が来た。お前の父親と来い」その意味は知っていた。実家に帰って父を説得しなければ。だが、如何説得する。
「アカネ、誰かを如何しても説得したい時に何をしたら良いと思う」
「二人きりになることですかね」
「散歩とか」
「はい、女性ならば花でも買ってやればいいのです」
「いや、まあ」
「まさか、ハルさんは――」
「違うわ」
「そうですか。ふふ、失礼」
急いで帰った。
「あらハルちゃん。お帰り」抱きしめる母。
「父さんは」
「事務所よ、でも今は、ほらレンのお見合いの話だから」
「あ、まあ、何とかする。一週間父さん借りるよ」
「そう、気を付けてね」ふふっと母は笑った。
事務所に着いた。兄が若い和やかな女性と手を繋いでいた。自分が見ているのを長兄は気付かなかった。二人はお似合いだった。まあいいや。事務所に父の声が聞こえた。
「これからも頑張りましょう」
「バァ、こちらこそ。うちの娘を貰ってくれる人がいるなんて。ありがたやぁ」
「では、後日」
「バァ、飲みましょうやぁ」そのおじさんが事務所から出た。頭を下げた。去った。
「父さん」
「おう、ハル。如何した」
「碧嶽に行きましょう」梅坂さんの実家であった。
「何処か知らんが、馬鹿云え。仕事がある」
「一生のお願いです。この我儘を聞いてください」
父は、真剣に自分の目を見た。心を読まれていると感じた。
「わかった」よっしゃ。新幹線で碧嶽へ向かった。父は疲れて眠れなかったみたいだ。途中、宿に泊まった。
深夜の三時頃、
「起きとるか」
「はい」
「お前ここまで来たって事は、そうとう大事なもん何だな。女か」
「違うよ、尤大事なもんさ」
「ほう」
「父さんは母さんと如何出会ったの?」誤魔化した。
「あれは、十五の時に母ちゃんが結婚しようと云ったんだ」
「それだけ」
「そうだ。詳しく知りたいなら母ちゃんに聞け」
電車の窓硝子から見えた隧道を抜ける瞬間、降る粉雪と白に負われた山の岩々に囲まれた。
「雪國」とつい呟いた。
あゝ、そっか。これが、川端康成が云った「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の意味か。さて「国境」は、「こっきょう」と読むのか、「くにざかい」と読むのか――
朝、九時半頃、梅坂さんの送られた住所に着いた。家は和風であった。
「どうも――」
「来たか」白髪、奥深い目つき。やせ細った体。ゲホっと吐いた。
「大丈夫ですか」
「かまうな! お前に云わないと行けない事がある」
「ハル、こいつは誰だ」怖い声であった。
「梅坂八之助さんです。話があると」
「お前、お前に名をつけたのはワシじゃあぁ」苦しそうに云う。
「あんた――まさか。ハル、二人にしろ」
「はい」ささっと庭に出た。成功だろうか。二人を本当に合わせて良かったのだろうか。山は四月の花で咲いていた。遠い道から黒百合の着物をした女性が見えた。まだ若いような、十代に思えた。自分に微笑んでいる。顔は見えない。大人びたスッとした立ち方。美人。知らぬ彼女は美人であった。近ずこうと思った時、
「ハル、入れ」父は顔を手でかくして。後ろを向いていた。
「あんた。よおやった」
「おじいちゃん――」初めて呼んだ。
「おお――、ハルキ。生きろよ――――」
「じいちゃん――」手が冷たくなっていく。やだ、やだ。やめろ。救えないのか。待て。待ってくれ。じいちゃん。気づくと目は涙いっぱいであった。思い出も何も無い、何て事だ。純粋に悲しい。唯々悲しいのである。死とは、何ぞや。窓から見える景色、雪はまだ溶けてなく、桜が舞い散る。青い山々の寒い空気が涙を冷めさせた。ほっこりとした心だけが残り、やがて空は晴れる。じいは、幽かに笑っていた。
葬式が行われ、帰った。途中父は封筒を渡した。
「これは」
「しらん、唯お前に渡せと。お前は東京で降りろ」
「はい」
「あと、ありがとう――」父は赤青の山を眺めていた。夕暮れの赤が山の先っぽを照らし、空と雲が山の根を青く染める。少し暗くて、何か自分も感動してしまった。
又、泣いてしまった。
まっすぐ家に帰った。
「お帰り――」茜は気を使いそっと自分を一人にしてくれた。
死は悲しむものだろうか、いや、良く生きたと思うべきだろうか。他人ではない誰か。梅坂さん。夜考えた。死後の世界はあるのか。奈落、地獄、天国、楽園。いたら閻魔大王に会いたい。地獄に行きたい訳ではない。まあ、いいや。きっと気楽にしているだろう。
深い眠りにつき、起きると、まだ泣いていた。良くある事だろうか。この命ちゃんと生きないと。
六月。
茜は高校を卒業したから外国へ帰ってしまうみたいだ。飛行場で女子三人が抱き合って、泣いている。
「ほんと、姉妹みたいだなぁ」智哉は云った。
「おう」泣きじゃくの茜は、
「ハルさん、今までありがとうございました」
「おう。あっちでも無理しない様に頑張れよ」
「はい」素直な涙笑顔であった。
「これをもっていけ」智哉はお気に入りの帽子を茜にかぶせた。おやおや、面白そうな事になろうとしている処を梓は自分と菖の腕をつかみ遠くへ連れてった。五分か十分後智哉が戻ってきた。茜は飛行機に乗る時手を振っていた。その晩、智哉と飲みに行った。
「俺、好きだったんだなぁ」
「飲め飲め」
「ああああ、サキ。結婚したいよなぁ」智哉は完全に酔っていた。
「そうか」
「そうだ。結婚したいよな。だがなぁ、アカネは、お嬢様じゃねぇか。俺とは身分が違いすぎる」
「まあ、そうだったのか。手、出したか?」
「んな訳ねぇだろぉ」号泣であった。
「お前は相手いるのかぁ。サキィ」
「いねえよ、逃げられた、つか、取られた。いや、売られた」
「そうだったのかぁあ。ごめんよサキ。お前も悲しいだろぉお」
「ま、今日は飲もうぜ」
「あああ、サキ。女がお前を好きじゃなくても俺は超大好きだぜぇえ」
「はい、はい。俺も好きだぜ」
「サキィィィイ」
酔った智哉を運び梓の元まで連れてった。
「アズサ、お前の兄ちゃんはいい奴だな」
「ハルキさん」
「じゃ、又」
「あ、あの、これ」羊羹であった。
「ん? おう、ありがとう」梓は可愛く微笑んだ。
家に着くと菖が話だした。
「桜坂さん、本当にありがとうございました。幾ら感謝しても足りません。もう世話になりません。その恩は何時か必ず返します」
「まあ、お前を成長したな」
駅前で、
「ほら、最後に」腕を広げた。
「いいんですか?」
「もう会わないかも知れないだろ」彼女は強く自分を抱きしめた。少し離れ走って云った。そこに誰かが遠くに少女を待っていた。あゝ、もしかすると紬かもしれない。だが今更遅い――
暗くなった江戸川をぼんやり眺めながら羊羹を食らった。思いっきり。月羊羹。真っ黒? いや、濃い茶色の羊羹。栗の味がしみた。梓の気持ちが伝わった。あゝ、美味い。これは美味い。一人で全部食って、感謝した。
独り。あゝ、そうだ。眠る東京一人暮らし。
蒼蔵先生に会いに行った。
「クラ先生」
「やっとるか」
「やっとるぞ」
「がんばれよ」
「よしきた」笑った。
「家の件については、本当にありがとうございました」
「おう、一人で住み続けるか?」
「いえ、元のアパートに戻ります」
「そうか。まあ、いいや」鍵を渡した。
「先生、生菓子です。坂上餡のですよ」お土産である。
「ほう、高かっただろうに」
「先生は恩人ですから。これくらいの事は」
「可愛いな」
先生に三人の事を話した。
「ほう、そりゃすごいのう。どれを狙ったんだ」
「誰も。もう恋はこりごりです」
「若いのに」
「先生こそ」
「うまいねぇ」
昼、引っ越した。何か、すっとした。すると、葵がやってきた。
「ハルゥウ」
「アオイ? 何でここに」酒の匂いがした。
「いいから」酔っている。薬指には輪。葵は、風呂に入り寝て、夕方頃おきて、話しだした。あの滝川と云う男が浮気をしているとか、こそこそしているとか。何とかしてその滝川に来てもらった。彼の話からするとサプライズパイテイをしたかっただとか。二人は帰った。何だったんだ? 人生には時々意味のわからない事があるのである。
夜。暗い部屋の天井は月光が舐めたように暗い影なのに見える。暗くなっても橙色の電柱が光る。涼しく風が吹く。何も考えなく、寝た。夢を見た。葵が笑っているのを、紬がはしゃいでいるのを。起きた。汗が脇や首にべっとりついている。気持ち悪い。あゝ、彼女等はもう誰かのそばへ。恋しい、愛おしい。まだ自分は未練があるのか? いや、葵は幸せに生きている。紬は、どうだ。泣きたい。泣きたくなった。自分が情けないから? 違う。なら何故? わからない。唯、紬の笑顔を思い出すと泣きたいのだ。悲しくなるのだ。もどれたら、どんなに幸福だろうか。もう、彼女はそばにいない。あゝ、疲れた。寂しくなったら疲れた。心が「どよん」と疲れを感じる。あゝ、こう云う時は、二度寝だ。
九時半頃起き、公園に行く。あの封筒を開ける。そこには、自分が梅坂さんの孫と示す書物が書かれていた。正確には父が息子と書かれている。空は、赤と青が混ざった。後ろから、
「青年、少し貸してくれるかい」お爺さん、何も考えなく渡してしまった。
「なっ」驚きの声。
「あんた、桜坂さん?」
「あゝ、の息子です。ハルキ。桜坂春樹です」
「これは失礼。私は、黒亀正三朗と云う者です」渋い声。
「はぁ」
「実は――」黒亀さんは語りだした。昔、まだ明治、大正時代だった頃にあの梅坂八之助との幼馴染だったのである。兄の様な存在であったと云う。
「まあ、良かったら、尤話そう」すると、誰かが彼を呼んだ。
「黒亀教授――」教授?
「あ、すまぬ。すぐ行く」名刺を自分に渡して去った。そこには、「黒亀正三朗、大葉大学医学部教授」と書かれていた。驚いた。大学の教授とは、失礼な事をしてしまった。謝らなければ。
次の日、授業後すぐ呼ばれた。
「昨日は御無礼を、失礼しました」
「頭を下げる事はない、桜坂君。君はこの大学でも優秀な生徒ではないか。どうだい留学とかは」
「はい?」
「あなたのおじいさんには恩がある。それなりの事はしないと」
「そんな――」
「実は、勝手にもう推選してしまったのだけどね。まだ断る事はできるが――」
「ぜひ!」
「ドイツ語は話せるかい」
「はい」
「良かった。卒業後、すぐ行きなさい。こちらからも連絡しとくよ」
「ありがとうございます。あの、心ばかりの物ですが」高級な茶を渡した。
「いただこう」
ドイツ留学。夢にも思わなかった。やはり勉強しといて良かった。やった。実家に八月の休みに行った。
報告した。
「ハルちゃん、すごい」母は、笑顔だった。
「お前、良くやった」父も喜んだ。
懐かしい町を散歩していたら、
「漆山先輩!」
「あら、ハル君、帰ってたの」
先輩と話をした。
「そっか、ドイツ留学か」
「来年の四月に卒業ですから」自分はその年、二十四であった。
「そっか――」先輩は腹に手をそえた。
「おめでたですか?」
「そう――」だが、先輩の左薬指には指輪は無かった。
「相手は――」
「マサよ」
「えっと――」初耳だ。次兄の椙雅が? 結婚決定だな。兄が何時か「子さえ作れば結婚できる」とか云っていた。
日曜日の昼頃、母が倒れた。町の病院に入院した。
「母さん――――」
母は、目を開けたが詞は語らなかった。医者によると倒れた時に頭を打ったようだ。が、命に別状はないと。一箇月くらいで退院できると。少し安心して東京へ帰った。
夜、不安が心を狂い切る。もし母が亡くなったら――。黙れ! そんな事考えたくない。やめろ! 聞きたいくない! 何が亡くなるだ! だが、確率は零ではないだろ。それでも、信じたい。母は、頑張って退院するのだ! 母を心配させるのは何だ? 勉強? 違う。お金? 大丈夫。結婚? そうだ。自分には嫁がいない。如何にか安心させないと。誰かいないか。探すしかない。そうだ、お見合いだ。
「黒亀教授。お願いがあるのですが」
「いいたまえ」
「お見合いをしたいのです」
「その年頃か」
「お願いします。母を安心させたいのです」
「あんたなら、相手は――。わかった。探してみるよ」
「ありがとうございます」
九月、黒亀教授から、お見合いをしたい人が見つかったという。ありがたい。
「ここで会う事になっている」写真とメモを渡した。
「誠にありがとうございます」
「ずいぶん可愛い子じゃないか。後、あの茶は美味しかったぞ」
「良かったです」
場所は、銀座であった。服を智哉にみてもらった。
「サキ、似合ってるぞ」
「おう、ありがとう」
「お前、何か焦ってないか」
「心配か?」
「いや、ならいいんだ」
「おう。行ってくる」
「気を付けろよ」
見合い相手は、葉下月美さん。十九歳であった。五歳年したであった。とても美しく、処女の匂いがした。例えるなら洗濯の匂いに太陽に干しといた布団の匂いを合わせた様な、不思議な匂いであえった。「純粋無垢」と彼女を感じた。話し方、箸の使い方、座り方。彼女は御令嬢であるみたいだ。親御さんは笑顔で自分を迎えてくれた、
「君が結婚してくれるなら安心だ」お父さん。
「本当。娘をお願いします」お母さん。
娘は何も話さない。彼女の両親は去り。二人っきりになった。
「改めて、桜坂春樹と申します」
「初めまして、葉下月美です」声は静かな川の流れる様に聞こえた。
彼女は婚約を望んだ。自分も望んだ。
トイレに行き、出た時、内庭であの子の父親が電話で誰かと話していた。
「あの顔だけのいい、役立たずが、何も出来ない娘がやっと何かの為になったよ――」
何て事だ。「やくばらい」って事か。酷いな。自分には何故か「幸せにしてやる」と云う変な自信があった。
十月、黒亀教授に報告した。
「そっか、それは良かった。これから、太るか?」
「はい」少し笑ってしまった。
「家も買ってくれるみたいで、引っ越します」
「幸せになりなさい」
そうである、あの娘と二人暮らしになることになった。婚約したのだ。江戸川が見える家であった。親に電話をして、母に見せに行った。
「ほら、母さん、月美さんだよ。婚約者だよ」母は、目を少し開けて、笑った。良かった。良かった、これで安心だ。ほっとした。
東京へ戻り、一箇月が経った。寒くなってきて、マフラアを月美に買ってあげた。少し、にあけた。可愛くて。つい手を取ってしまった。彼女は手を強く握った。そこに愛情をぽっと感じた。
母が心配だった。医者が云う様に命には別状はない。が、不安だ。何故? 知らない。嫌な予感。
「お前、クズだな。こんな奴が生きててもいいのかなぁ」
「黙れ、ちゃんと生きているではないか」
「そうかぁ」
「違うか?」
「どうも、こうも。許せないんだよねぇ」
誰だ? 二つの声は? 悪魔か?
「残念、心の声を聞こえまぁす」
「ま、じゃあ、又」
起きた、
「大丈夫ですか!」自分を心配そうに見る月美であった。
「うなされていたので――」
「あゝ、ありがとう」汗をかいていた。夢か。
「もう、大丈夫。月美さん。心配させてごめん」
「何か、私にできる事はありますか」
「あゝ、そばにいるだけで嬉しいよ」
「そうですか、もっと手伝いたくて、何かしたくて――」
「大丈夫だよ、君が生きていれさえばいいんだ」
「ハ、ハルキさん」初めて名を呼んでくれた。
「役立たずでごめんなさい」彼女は泣いていた。
「そんな事ないさ。僕こそ、何もできなくてごめんね」泣かせてしまった。
「とんでもない、ハルキさんは、ハルキさんは、私に優しくしてくれました」
「それだけではないか」
「わ、私にとって、それは、幸せです。誰も、優しくしなかったので。『顔だけ』とか、『何もできない人形』とか――」
あゝ、又泣かしてしまった。あたたかく抱きしめた。
「もう、大丈夫。僕がいるから」
「惚れちゃいます。一生ついていきます――」
一月二十四日。母が亡くなった――――
無だ――。もう、会えないのか。あゝ―――
悲しすぎて、如何仕様もない。生きる意味って何だろうなぁ――
四十九日が経った後、父が、
「ハル、母さんが最後に、お前のむすびが食べたかったってさ――」
うわあああああああ! くっそがああああ! 自分は、そんなこともできなかったのか。役立たずが。無知が。白痴が。馬鹿が。阿呆が。ああああ、なんてこった。なんてこった! 死は何だ。何故だ。たんたんと疑問がわく、答えも知らない疑問が。寂しくて、寂しくて! 涙がどんなに出ても足りなくて。腐って、止まっていた。神に問いたい。それともこれが「運命」って奴か? あゝ、わからない。わからないのである。
「後、母さんが。お前らに『生きろ』と。『世の為、人の為』に生きろと――」
生きるさ、母さん。生きてやる。生き残ってやる。何があっても、どんな絶望があったとしても。生きてやる。絶対に生き続けてやると誓った。
「ハルキさん」月美は、自分を撫でた。あたたかいぬくもり。
やがて四月、卒業。飛行場。独逸。大学の町。一人。これから一年間。
六月、変な奴とあった。
「Japaner」(ヤパアナ)ドイツ語で日本人と呼んだ。
「お前の名は」
「ハルキ サクラザカ」
「意味は」
「Frühling」春。
「女みたいだな」へらへらしてやがる。
「あんたは」
「クヌット」
「よろしく」
「おう」
酒場であった。何処の奴で、何をやっているかは知らないが、何時も話しかけてくる。
「フランス人ってのはよ、パンをナイフで切らないみたいだぜ。マナアとして手でちぎるみたいだ」
「ほう」
「唯の面倒臭がりじゃねえのか」皮肉に笑う。
「麦酒好きだね」
「珈琲を混ぜると美味いぜ」
「はあ」
「Scherzen」冗談。
「何だよ」
「サムライってお前、そうか?」
「いや」
「なら、ブシなのか?」
「いや」
「お前本当にヤパか? Chinesischじゃあねえのか?」中国人。
「何故だ。日本人は侍か武士じゃないといけないのか」
「いや、違う」
「馬鹿にしないでくれ」
「空手や柔道とか極めないのか」
「いや」
「スシとか、ヤキソバ作れるのか」
「いや、焼きそばは中華だ」
「そうか。つまんねぇの」
「なら、あんたソウセイジでも作れるのか」
「いやあ」
「麦酒は」
「飲めるぜ」
「ほらな。同じじゃないか」
「まあ、いいや。あの壁、酷いみたいだぜ。もう十年もするのになぁ」壁とは、ベルギイの事であった。
「はあ」
「ま、俺はDeutschlandのじゃないけどな」ドイツ。
「お前、何処の人だ」
「さあな」話を聞くとこのバアの店長に拾われたそうだ。二十一歳。学校でいじめられて、今は工場で働いている。
「二ホンはいい国なのか」
「さあねえ」
「ニホンゴ話せたら、食っていけるか――」と色々と日本について聞かれた。
大学では、日本人もいたが、「俺はエリイトだ。お前等とは違う」と云う雰囲気を出していた。他国まで来てそんな事を思うとは、厭きれた。留学生達は皆、寮に泊まっていた。嫌がらせをする奴もいた。いや、殆どしていた。或る日は卵を窓から投げられた。もったいないではないか。偶然、道で卵売っている人がいた。
「あんた、この卵買ってくれるか――」
「何かおかしいのですか」
「腐った」
「安く買う」
腐った卵を使ってもいいだろう。食べられないからな。犯人を見つけて、戸の前に酒の瓶を置いた。腐った卵を中に入れといた。濃い色の瓶であったから気付かれなかった。ふたをちゃんと閉めたから臭いももれない。後、開けたら、くっさい臭いが部屋中に蔓延するだけだ。隣の奴、あの犯人が「ウギャアー!」と叫んだ。完全犯罪である。彼は、もういたずらな真似は二度としなかった。
定期的に、父、月美、智哉、梓と手紙のやり取りをしていた。電話は高かった。
「春樹、元気でやっとるといいが。蓮太郎に事業を任せることにした。椙雅は、相変わらず会う度驚かす。まさか、いつの間にか孫がいたなんて。強く生きろよ。
父より。」
「春樹さん、御無事ですか。私は、色々と元気に生きています。ドイツは、どうお過ごしですか。
正直に書きます。私は、夕日過ぎるたんびに少しずつ寂しくてたまりません。
早く帰ってください。
少し我が儘を云っても良いでしょうか。家に居るのはとてもぼんやりと生活をするので、美術学校に通いたいと思うのです。フランスのパリで過ごした名のある先生が只で教えてくれるそうです。勝手にいくのは失礼と思うので、御報告です。」
「親友の桜坂春樹へ、
この手紙を読むかどうかは、君次第だ。
俺は人生に向けて何もかもが駄目だとは云いたくはない。だがな、誰しも恋をしたいと思うんだ。「恋愛」と云う燃える炎を求めているのだと考えるんだ。俺は今、恋をしようとしている。恋をしたいのだ。君はなぜ「愛」じゃないと問うだろう。答えは簡単。「愛」はとても曖昧な、意味不明な事、思いだからだ。いや、思いでもないかもしれない。「愛」とはもっと深い心のどこかに潜む魔獣に似ている感情であろう。
恋はもっとわかりやすい、好きとか嫌いで決めれるものだ。「人は寂しいから恋をする」と悲しい論理を君は俺に教えてくれたが、精神論で恋は語れないと思うんだ。恋だぜ。論理で語れない筈だ。君は平然に「馬鹿な事を抜かすな」と台詞を考えたであろう。そこでだ、反論しよう。
人は恋をすると馬鹿になるならば、そして馬鹿は風邪をひかないなら、「馬鹿は恋をするのだ」それが当たり前だ。俺がどうこう言おうと君は、君の現実と比べて又、悲観的な論理をたてるだろう。そんなの聞きたくない。
この手紙は我が儘にみえるかもしれないが、俺は好きな子がいるんだ。妖精の名は、小草和凪。
一つ年上で、一人暮らしだそうだ。いやらしい意味じゃない。俺もびっくりしている。何せ梓意外の女性に好意を寄せているのだから。梓は可愛いが、やっぱり「大人の女性」とは比べ物にならない。熟女好きとかじゃないぞ。
(この手紙を誰にも見せないでくれ、燃やしてくれるとありがたい)
時にはドイツの事話してくれよ。電話は高いから、手紙でな。」
智哉は恋人ができたそうだ。しかも知り合いの。まさかナナさんが、「世界の偶然」で親友と恋仲になるとは、この世も驚くものは千程あるのかもしれない。
週に一度バアに通っていた。
「今のドイツ人は誇りを忘れたのかね」クヌット。
「何云ってんだ。じじぃみたいだ」
「だってさぁ。ま、いいや」
「女はいないのか」
「魔女は怖いぜ」
八月、一人誕生日。
年が明け、二月。金をためてポラロイドカメラを買った。凄い物だ。一瞬を記録し、紙に写す。これが現代、これが近未来! すごい。早く日本に帰り月美に見せたい。そうだ、帰ったら彼女を最初に取ろう。「驚いた妻」と題をつけよう。わくわくしていた。
四月。帰国。実家に帰り父に会い少し話して、母のお墓に線香をそなえた。線になった煙が少し青く見えた。智哉に連絡する。次の日に東京に行った。大葉大学に行き黒亀教授にお礼を言った。残るは月美。二人の家に行く。
午後六時半過ぎ。家に灯りが点いている。いるなら好都合。カメラを用意して、家に入る。誰も出迎えない。何かドキドキする。窓を後ろにカメラを目の前におき、パシャリ。そこには男女の接吻の場面。混乱。誰だ? 兄妹? 姉弟がキスするか。なら何故? 如何して? 何でだ? 写真を見たら二人の顔は微妙に見えない。夕日の逆光で顔が影になっている。女が椅子に座っている。男が立っている。腰を曲げて女と顔と顔を重ねあっている。写真を手に取り、家を出て、走った。幽かに「ハルキさん、まって」と聞こえる。彼女は誰だ? 純粋無垢な月美ではない。そうだ。そうだ! あの女は月美ではなく勝手に家に入りあの男とイチャイチャしていただけだ。そうだと云ってくれ。な訳ないだろぉ! 浮気だ。裏切りだ。いや、唯自分が勝手に信じていただけだ。自業自得だ。人を信じたら裏切られる。簡単な話しではないか。誰かを責めるのは良くない。誰かのせいにするのは良くない。自分は笑った。きっと笑顔であった。
町を歩いていると、
「あの、あんた」女性が自分を道端で止める。
「私よ。二松。今、写真大会があるのだけど参加しない」あゝ、あのモデルにならないかと誘った人か。
「じゃあこれを」後ろに「955」と横書きで書いた。
「綺麗な写真。この数字の意味は」
「あゝ、ドイツ語でキスを意味します。KUSSと書きます」
「へぇ。わかったわ。ありがとう。で名前は」
「いいです」
「本当? 優勝でもしたら、賞金もらえないわよ」
「なら」尾泉智哉と書いた。
暗くなり、強く雨が降り出した。独りで海へ着いた。高い崖をのぼった。桜が咲いていた。
「桜の下は、男が狂う」と聞こえた。
叫んだ、
「人間失格!」
「皆人間失格だ! 偽善者だ! この世は狂っている。可笑しい。この人の皮を被った悪魔達め! 気持ち悪い。心を持った畜生共が――――」
ここは、どこだ――。幽かに声が聞こえる――、
「生きているのが奇跡です。何せ落雷に打たれたのですから」医者。
「自殺ではないのですね」父。
「ハルキさんは大丈夫なのですね」女性の声。
「なんてこった」智哉。
「東京は、高いねぇ」椙雅。
「私が払う――」黒亀教授。
「いえ、私が――」蒼蔵先生。
「骨や筋肉には異常はありません。唯、精神的に問題があるかもしれませんので――」医者。
「てめぇ、サキが可笑しくなったとでもいいてぇのか」智哉。
「いえ、その可能性があるだけです」医者。
「そうですか。先生。如何かお願いします。他の病院に入院しないといけないなら――」父。
聞こえなくなった。
「俺は、サキ」
「僕は、ハル」
「あんただ」
「あなたです」
「誰」
「人格とでも言いましょう」
「違う人格?」
「そうだ」
「は」
「そうです」
「何云ってる。お前らが悪魔か」
「思うように」
「間違っちゃいない。が、お前でもあるから――」
起きた。戸の近くで二人の看護婦が話している。
「では、竹川さん。患者様をお願いします」
「はい」
「あの」声をかけた。
「先生、お願いします」
「私は、あなたの担当医師。藤波と申します」涼しい顔の、目の暗い医者である。死神みたいだ。
「はい」
「お名前、憶えていますか」
「あ? あゝ――、サクラザカ、ハルキ」
「そうですか。ここは、精神病院です」
「気違い病院?」
「その名はもう使いません。精神病院です」
「私は、可笑しくなったのでしょうか」
「いえ、脳に――」と優しく藤波先生は説明してくれた。
「何箇月で引退できますか? 記憶では大学を卒業したばかりでした」
「はい、その通りです。退院は個人によります」
「そうですか」
「落ち着いてください。精神病といいますが、けして感染とかしません。ゆっくり、時間をかけて直しましょう。薬も使う必要はありませんから」死んでいる。あの目は確かに死んでいる。
「わかりました」
「私はあなたの味方です。何かあればすぐ呼んでください」親切であった。
「後は、看護婦の竹川さんに聞いてください」
「はあ」
「サクラ――如何して」と聞こえた気がした。ふと看護婦の顔をみる。
「はじめまして、竹川です」
窓から、見える景色、春霞が見える。霧のかかった山や森、谷。あゝ、美しく不思議であった。
「タケさんと呼んでもいいですか」
「どうぞ」
「私は、どうやら、記憶喪失です。家族とトモ以外、忘れてしまった」
「脳には異常はないと先生が云っていました。ですから、精神的な何かです」
「はい、承知です」
竹さんは、「裏切られた」後傷がある様であった。
「ご結婚されているですね」
「三年前の事です」
「あなたの夫は良い人ですか」
「いえ、最低です」
「そうですか。人間ってそんなものではないですか。表側ではどんなに立派でも、裏では畜生ですよ。私みたいに」
「やめてください」
「何を?」
「手をかむのを」
「はい?」痛い。痛い。血が出ている。口に血の味がした。
「あゝ、失礼」包帯で巻かれた。
「気を付けてください」
「はい」
「先生を呼んできます」
「はい」幽かに壁の奥から聞こえる。
「先生、私を彼のつきそいをさせてください」
「君が熱心に云うとは、珍しいですね。どうぞ。ご自由に」
「ありがとうございます」
部屋に竹さんが戻って、
「私が、これからあなたのつきそいをさせていただきます」
「はい、よろしくおねがいします」
次の日、少し思い出した。尾泉梓、笹目葵、ナナさん、烏谷茜、蒼蔵栞先生。今思えばすごく楽しかった。
「ハルキさん」
「アズサ、こんな遠くまで来てありがとう。でも大学の勉強は大丈夫なのか」
「人の事よりも、自分の事を考えてください」
「おゝ、サキ。生きとるか」
「あゝ、トモ。生きとるぞ」
「心配したんだぞ」
「何がおきたんだ」
「それは医者から云うなと」
「そうか」
「自分の力で思い出さないと意味がないとか」
「ほう」
智哉は、恋人と別れたみたいだ。梓は大学で勉強は難しいが楽しいだとか。幸せに見えた。
「じゃあ、又な」
「又ね。ハルキさん」
二人は帰った。
「お二人との関係は思い出せましたか」
「あゝ、親友とその妹です」
「良かったですね」
窓から、智哉と女性が話している。女性は走って病院に入った。自分の部屋に入って来た。
「ハルさん」
「もしかして」
「はい」
「アカネ」
「そう。良かった。心配したのですよ――」親に無理を云って日本に帰ったみたいだ。海外で色々と頑張っているとか。
次の日。思い出した。死の事を。母と梅坂さんの事を。又泣いた。深夜も泣いた。
「すいません。大事な人の死を思い出しまして」
「そうですか」竹さんは何時も傍にいてくれた。
そして思い出した。篠風紬、菖。
「ツムギじゃないか」竹さんは、紬であった。
「思い出したの」
「あゝ、思い出した。お前の妹から全部聞いた――」話した。妹が頑張ってしたことを。その日の昼に、会った。
「お姉ちゃん、あれ本当?」
「ほら」
「桜坂さん」
「アヤメ。大きくなったな」
「何、おじさんみたい」笑った。
一週間が過ぎ、
「本当にごめんなさい。逃げるように別れて」
「あゝ、笑い話みたいだね。でもほら、君は悪くないからさ」
「でも――」
「いいさ、君が元気で生きているなら。でもその後、色々あってさ。ほら婚約してさ――。婚約? 誰と? あ、そっかそうだった――」思い出した。浮気されたのを。いいさ。あゝあ――――
「落ち着いて、思い出して」
「いや、実は――」思い出した。葉下月美。紬に話した。
「そう。だから。自殺みたいなことを」
「いや、しようと思ったが。やめた――」
智哉に電話をして、ポラロイドカメラを持ってこさせた。
「サキ、思いだしたか」
「おう。なぁ、賞金もらったか」
「お前だったのか」
「あゝ」
「もらったさ。一等賞だとさ」
「皮肉だな」
「金は、病院に使った」
「そっか。ありがとう」
「あゝ、あとこれ」梓の手作り満月羊羹。
「じゃあ」
「あと、トモ、一枚、写真とってくれ――」
数日過ぎて、梓が来た。
「美味かったよ」
「ありがとう。何時退院できるの?」
「さあな、何時だろうなぁ――」
私は、芝生を走った。霧がかかった、小雨で少し濡れた原っぱをはだしで走った。
最後にこんな事を書いた――
絶望論
「あまり不幸ではない人生こそが幸福な人生である。」
「孤独は優れた精神の持ち主の運命である。」 アルトゥル・ショウペンハウエル
「人生は苦痛であり、人生は恐怖である。だから人間は不幸なのだ。だが、人間は今では人生を愛している。それは、苦痛と恐怖を愛するからだ。」 フョウドル・ミハイロビッチ・ドストエフスキィ
「自分を破壊する一歩手前の負荷が、自分を強くしてくれる。」
「神は死んだ」フリイドリヒ・ニイチェ
人間は、幸せになる為に生まれて、生きている。幸せはあくまでも瞬間でしかなく、後の「生きている時間」とは、味わった幸福感を畜生の様に欲しがって「生き延びようとする」それが、人間の姿である。
「知らず不幸は、知らず幸せ」と一緒に「悪を知れば、善を知る」。ならば、絶望を知れば、希望も知る。希望があれば幸福が手に入る。絶望とは、一番の不幸だとしたら、絶望こそが幸せになる道である。即ち、
人間は、絶望のために生きているのだ。
あとがき
何て話だ。読み終わった時に風鈴が鳴った。
「じいちゃん、これは?」
「おゝ、これは、ナミウラさんの小説だね」
「下の名前は――」
「タキ、リュウ、タツとも読める」
「字は『瀧』なのに」
「あゝ、ほら、『氵』が少しずれているだろ」
「龍につけたの?」
「おう、本名はタツキだ。ほら、瀧の中に『立』と『月』があるだろ」
「へぇ。じいちゃんが桜坂春樹?」
「かもな」
「何それ」
「しらん、もう寝る」
「ちょっと、写真は? どう言う関係?」
「しらん、昼頃に浪裏さんが来る、その時に聞け。行儀よくな」そう言って、寝に行った。
昼過ぎ、夕暮れが川に浸る時。ピンポンが鳴った。戸を開けた、
「あゝ、お孫さんですか」落ち着いた声。
「あ、はい。お爺ちゃん、今寝てるよ」
「そうですか、なら、又、今度来ます」
「あの、お茶でも」
「いえ、お邪魔になるのは」
「あ、や、ケーキ作ったので」
「いや、ありがたいですが――」
「早く」腕をつかんで、必死に家に上げた。
「すいません、わざわざ」苦笑い。
「あの、質問していいですか」お茶を飲みながら目で答えた。
「この写真は」
「あゝ、四人組のは大学、いや、留学時代の友達です。キスシーンも友達です。後は、自分です」
「そうですか。なぜ『無我無残』って題を付けたのですか」
「あなたは、どう考えますか」
「無我は、『我に何もない』。そして無残は『何も残っていない』とか」
「なら、それが答えですよ。一人一人個人の解釈がありますから」彼は可愛く笑って、
「まあ、唯、頭にその題が浮かんだと言った方がいいでしょう。別に決まった意味は、ありません」
「あ、そうでうすか。あの、春樹は誰と結婚したのですか」
「あゝ、最後に梓が『私のために生きて』と云います」
「あなたは、小説家ですか」
「あゝ、まあ、『自称小説家』ではないけどね。でも、まあ、ほら、その短編小説は十五六の少年の青い経験に基づいた落書きみたなものだからさ。生真面目に読んで、考えるのは馬鹿馬鹿しいのかもしれないよ。さらに、まだ完成では無いからね」
「えっ。でも、あなたが書いたのですよね」
「あゝ、そうだね」
「なら、あの葉下月美さんは、どうなったのですか」
「キャバ嬢になって、あの浮気相手と結婚するかなあ」
「彼女は幸せになりますか」
「さあねえ」
男は青空を悲しく眺めて、呟いた。
「彼女は私だからねぇ」
令和四年四月三十日。完。