結
笑萌の名前を呼ぶ声が聞こえた。地面に衝突すると思われた笑萌を抱き止め、腕の主は後方に倒れる。
「っ、てて……何やってるんですか」
「莉桜ちゃん?」
莉桜が笑萌を抱き止め、笑萌に怪我がないように自分の体を緩衝材代わりにしたのだ。
笑萌がはっとする。
「れいちゃんは!?」
「まず人の心配しましょうね……まあ、いいですけど。笑萌、確認してもらいたいことがあります」
莉桜は笑萌を下ろし、土埃を払う。ここが土の空き地でよかった。草がぼうぼうとしているので、僅かではあるがないよりましくらいの効果をもたらしたようだった。少々体は痛むが、怪我というほどの怪我はない。
笑萌が不思議そうな顔をする。
「莉桜ちゃん、どうしてここに? 反対側の探索をしていたはずでしょ?」
捜索を効率的なものにするために、と莉桜が採った案のはずだった。上下に分かれた上に、東西に分かれて捜索を行うことで、捜索範囲を広げ、たった二人の人員でも発見率が上がるように。
結城探偵事務所の売りは「探し物の発見率100%」だ。その評判を落とすわけにはいかない。笑萌の知り合いなら、尚更のこと。
莉桜は鞄からスマホを出す。
「ボイスレコーダーで笑萌が捜索中の猫の名前を叫んだのを聞きました。他にも色々なアプリを併用しているというのは話したはずです。そのうちの一つがGPS。俺は徒歩で探すからまだ追いつけるとして、笑萌、あんたは結構アグレッシブに動く。だから、GPSとマップを合わせて、あとは先回りできるように合流できそうなポイントを絞って、そこに来ました。間に合ってよかった。怪我ありません?」
「ないよ。莉桜ちゃんこそ、大丈夫?」
「大丈夫ですよ。そんなヤワじゃないです」
さすが、私の助手はよくできてるなあ、と笑萌は鼻を高くする。莉桜はスマホをバッグに仕舞うと、捕獲用籠に被せていた布に手をかける。
その目はどこか遠くを見て、告げた。
「それと、笑萌。俺がここに来たのは、もう見つけたからです」
「え?」
笑萌の疑問符に答えるように、布が取り払われる。籠の中で丸まっていたのは。土で汚れた白猫。笑萌が知っているより、毛はごわごわで、薄くなっている。
閉ざされた目が緑を現すことはもうないのだろう。猫は穏やかに目を閉じ、眠るように息を止めていた。その首には赤茶けた首輪。「ARAI」と彫られたホルダーがついているのを見て、笑萌は息を飲む。
笑萌の追いかけていたれいは首輪をつけていなかった。毛並みも綺麗で、さらさらしているのが見ただけでわかるほどだ。それは笑萌の知っている、十数年前のれいの姿。
十数年という時は長い。人間ですら、たった五年会わなかっただけで、誰かわからなくなったりするほどだ。時間がもたらす変化というのは万物に平等に注がれる。それは白猫のれいだって同じだ。時間がもたらす変化は容姿の変化だけではない。
生きとし生けるものには平等に死が与える。あらゆる不平等が存在する中で、死だけは必ず訪れることが約束されている。無生物さえ、いつかは「壊れる」ことで存在意義の「死」が訪れるほどに、死とは世の理として絶対のものなのだ。
昼、莉桜は言った。「二十年も生きているのなら老猫だ」と。人間にすれば、八十歳から百歳くらい。そのくらい生きれば、医療技術が発展し、人間の平均寿命が伸びた現代でも「十分生きた」と言えるくらいである。
「新井さんにはもう連絡してある。この事件は笑萌には解けないものだった。笑萌の直感が働くのは生き物に対してだ。事件という生き物を笑萌は見ている。だから、もう終わっている事件のことは笑萌には見えないんだよ。だから俺は足を使って探すことを提案した」
「……莉桜ちゃんはわかってたの? れいが死んでるって」
「確証はなかった。けど、可能性は高かった」
莉桜は籠に布をかけ直し、笑萌に行こう、と声をかける。けれど、笑萌は動かない。
莉桜が振り向くと、笑萌は両手を白むほどに握りしめ、ぶるぶると震わせていた。
その大きな瞳には零れんばかりに雫が湛えられている。莉桜はそれを見て、微かに眦を下げた。
「どんなものにも平等に死は訪れる。病気で死んだ俺の親友に比べたら、この猫は十分生きた。悲しいだろうが、受け入れるしかない。笑萌」
「そんな簡単に受け入れられるわけないよ!!」
笑萌は固めた拳で、莉桜の胸板をどん、と叩いた。
「莉桜ちゃんだって、友だちを亡くして、落ち込んで学校に行けなくなったんじゃん。死はどんなものにも平等に訪れる? そんなの知ってるよ、わかってるよ! わかってても、悲しいんじゃない!! 莉桜ちゃんだって、わかるでしょ!!」
莉桜は不登校の理由を笑萌に話していた。つまらない日常の中で、唯一心を許せた親友。同じ高校に行こうと約束して、その友人は中学を卒業せずに死んだ。
病気だったから仕方ない。寿命だったから仕方ない。莉桜が笑萌に説いているのはそういう摂理であり、理不尽だ。
笑萌の言う通り、悲しいものは悲しい。死とは残されたものの心を深く抉って、傷痕を残す。それを癒す術は今のところ、時間しかない。
莉桜は笑萌について来い、と言った。笑萌の手を引き、莉桜が連れて行った先に、新井は既に来ていた。
「笑萌ちゃん、すごいわ!」
新井の明るい声に、笑萌は疑問符を浮かべて、顔を上げた。
そこは一面の黄色い花。カタバミの群れのようだ。笑萌はその小さな花に見覚えがあった。
「白猫はここで亡くなっていました」
昔、笑萌によく、れいが持ってきてくれた花も、カタバミだった。
「気に入りの場所だったんですかね。俺は詳しくないですけど。
ご連絡した通り、白猫はここで眠るように亡くなっていました。猫の習性で、親しい人に、自分の死ぬ瞬間を看取られたくない、というものがあります。死期を悟ると飼い主の元から離れるというのは、そう珍しくない話です。こういう誰にも知られていないような場所で、誰にも知られずに息を引き取る。それが猫の在り方なんです」
「……だから、莉桜ちゃんは私が知らない場所を探したの?」
莉桜は笑萌に振り向き、確かに頷いた。
その目にはいくばくかの寂寥が込められている。
「友だちに亡骸の第一発見者になんか、なってほしくないだろう」
余計だったか、と莉桜が問うのに、笑萌はふるふると首を横に振る。
「莉桜ちゃんが探偵助手でよかったよ。ありがとう」
涙の跡はあるものの、笑萌は花のように笑った。
こうして、とある迷い猫の捜索は幕を閉じた。友だちに宝物の在処を教えて。