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それから、本当にレンは出て来なくなった。
ユージーン様は私の変化にすぐ気が付き、そして寄り添ってくださった。
一度だけ、彼は私に問いかけた。
「アイリーン、何が君を悲しませるか聞かせてくれるかい?」
「大切な友が、遠いところへ行ってしまったのです」
それだけの返答しかできない私を、ユージーン様は何も言わずに抱き寄せてくださった。私は夫の優しさがどれだけ得難いものかを分かっている。
ひとしきりユージーン様の胸で泣いた私は、前を向けるようになった。
レンとの別れから季節が一巡したころ、私のお腹に小さな命が宿った。スペンサー家はその吉報に沸いた。お父様とお母様は赤子の服を大量に買い込み、ビルの料理はより優しく滋養が溢れたものになり、ミリー達は更に張り切って屋敷中の掃除をした。
ユージーン様は元々の心配性が更に加速し、遂には私の外出を禁ずるまでになった。さすがに夫はお母様からお叱りを受け、私の外出の権利は守られた。
大きな問題もなく順調にお腹はどんどん大きくなり、産婆が「そろそろ出てきてもいい」と言うまでになった。
ぽこぽこと小さかった胎動が、ボコボコと力強くなる。腹が重く股の付け根が痛くなる。腰が痛い。足がつる。
つわりはほとんどなかった私だが、赤子の成長によって当然ながら体に負担がかかっている。
(あなたがお腹にいる今も幸せだけど、早く出てきてくださいな。母のために)
ボコ、と返事のように胸の下あたりを蹴られる。元気な子だ。
(どんな子かしら)
愛おしい私の赤ちゃん。私は元気な我が子に、毎日語りかけている。
月が満ち、遂に陣痛がきた。
産婆がきて、女性たちが慌ただしく赤子を迎える準備をする。
父とユージーン様は部屋の外に追い出された。
そんな事は意識の外にある私は、分娩椅子に座りながら経験したことがない痛みの波と戦い、はしたなくうめき声を出していた。
「若奥様!もういきんで大丈夫です!さあ、次の波で存分に!」
許しを得た私は、痛みと共に力を込めた。何度目かのいきみで、どぅるん、と何かが出た感覚と共にこれまで私を苦しめていた痛みが嘘のようになくなった。
産婆が赤子の背を撫でると、赤子は顔を真っ赤にして泣き声をあげた。
部屋中に元気な泣き声が響き渡る。
「若奥様、元気な男の子です!」
私は、まさに今誕生した息子を信じられない思いで見つめる。
女性たちが息子を清め、真っ白な布で包むと、ミリーが赤子を抱いて私の横まで来てくれた。赤子は、そっと私に顔を覗かせた。
「何てことなの…」
この子は、レンだ。
なぜ分かるかと言われると、説明ができない。でも、息子を見て、すぐにそれと理解した。
この子は私を助けてくれたレンだ、と。
感動に胸が震える。目尻からとめどなく涙が溢れて、止まらない。
ミリーが再び赤子を遠くに運ぶと、私はお産の後始末をされ、体を清められた。
ひと月はゆっくりと体を休めるようにと産婆が私に重々注意をする。ベッドに横たわった私が頷くと、彼女は満足して帰っていく。
「息子としばらく一緒にいたいわ。乳母に渡す前に」
その願いは了承され、彼は小さなベッドに寝かされたまま私のベッドの横に運ばれた。
しばらく立ち上がらないでくださいませね、とミリーは言って退室した。
「レン。あなたはこんな顔をしていたのね」
僅かに震えるちいさな人。目は中々開けてくれない。手や足をもぞもぞと動かしている。
「もう名前を考えていたのかい?」
横を見ると、涙目の夫が立っていた。入室が許可されたらしい。
彼は私の頭を柔らかく撫でると、レンを壊れ物のように恐る恐る抱いた。
「レン、レンか。アイリーン、なんて美しい赤子だろう。この子はレオナルドだ。僕たちの、愛すべき息子だ。幸せだ。アイリーン、有難う」
ユージーン様の目から、遂に涙がこぼれる。
(なんて可愛い殿方かしら)
私は泣きながら妻に感謝を告げる彼が心底愛おしいと思った。
ユージーン様はまた恐る恐るレオナルドをベッドに寝かせると、私を優しく抱き寄せる。私は思わず愛しい夫の頬に口付けたのだった。
「おかあしゃま」
三歳になったレオナルドはすくすくと成長している。
私の部屋に現れた彼は、今行儀作法の時間のはずなので、乳母の目を盗んでやってきたようだ。
「レン。まだおやつの時間じゃありませんよ」
私が彼を抱きあげてそう伝えると、レオナルドは目に見えて落胆している。
「今日のおやつはくっちーですか?」
「どうかしら。レン、今はお稽古の時間ではなくて?最後まで頑張ればクッキーをあげるわ」
そう言うと、私はレオナルドを抱いたまま彼の部屋まで送る。きっと彼の乳母は屋敷中を探し回っているに違いない。
「おかあしゃま、約束、ぜったいですよ」
一人前な口調をするレオナルド。今日もレオナルドは元気だ。
彼はレンだったころのことを覚えていない。でも構わない。レンのことは、私が覚えていればそれでいいのだ。
今日はユージーン様とレンが部屋を抜け出した話をしよう。きっと笑うはずだ。
ビルに、今日もクッキーを用意してくれるように頼まなければ。
私は、足取り軽く歩き出したのだった。




