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それから、私とユージーン様の婚約は正式に取り交わされた。そう遠くない内に、ユージーン様は我が家に婿入りされることとなる。
ユージーン様は頻繁にわが家に訪れ、お父様から領内のことや、伯爵としての業務を学んでいる。その度に必ず私に会いに来て、少し話をしてから帰るのがお決まりとなった。
何もかもが上手くいっている。しかし、私には一つ気になることがあった。
『レン、ビルがクッキーを焼いてくれたわ。まだ寝ているの?』
呼びかけてもレンの返事は返ってこない。最近、レンが「いる」時間が極端に少なくなり、レンと話をする時間がほとんど取れなくなったのだ。
(寂しいわ。そもそもレンの存在自体がおかしなことなんでしょうけど)
くだらない話をして笑ったり、その時々で思うことを聞いてもらったり、レンは今や私にとって大事な存在となっている。
レンのことは誰にも話したことがない。信じてもらえるとも思えないし、むしろ私の正気を疑われることが容易に想像できるからだ。とはいえ婚約してから、ユージーン様にはレンのことを話すつもりだった。しかし、レンは頑なに止めた。
『絶対に言うなよ。アタマおかしいと思われるぞ』
ユージーン様は一方的な決めつけはせずに話を聞いてくださると思うのだが、レンが拒否するのならその意向を尊重することにした。
つまり、私に彼のことを話せる相手は誰もいないのだ。
「せっかく作ってもらったのに。勿体ないからミリーにあげようかしら」
『それはやめてー!食べたい!!』
レンの声が唐突に響く。彼の登場はいつもこうだ。
『あら、レン。勿論、よろしくてよ』
私は椅子に座り直し、クッキーを手に取る。レンと穏やかな午後を過ごしたのだった。
それから季節が二つ巡ると、私とユージーン様の婚姻は結ばれた。
挙式には、家族や友人が出席し、父やユージーン様の職場の方も来て下さった。沢山の花が会場を彩り、友人たちが音楽を奏でた。
皆が私たちを祝福している。私はこの上ない幸福を感じながら、レンがこの場に出席してくれていたら、などと有り得ない考えがよぎってしまうのだった。
お披露目の宴が終わり、母から今日からユージーン様と同じ寝室を使うのだと言い聞かされた。その意味は分かる。
私は夫婦の寝室で縮こまっていた。緊張のあまり、ユージーン様の顔を見られない。
「アイリーン。怖い?」
「…はい」
ユージーン様はそっと私の手を握った。
「僕は緊張している。でも、あなたを愛しているから。家のためだけじゃなく、子を成すためだけじゃなく、夫婦になりたいと思う」
私は、ただ頷いた。それからは、何が何だか分からなかった。
幸せだったことは、確かだ。
レンが一週間、現れない。こんなに長く話せなかったことはなかった。
レンは自分を幽霊だと言っていた。現れないということは、すでに彼は神の御許へ行ったのだろうか。
もしそうなら、レンにとっては喜ばしいことだ。彼は私の外に出られなかったのだから。
今日もレンに呼びかけたが、返事はない。彼が「いない」ことを喜ぶべきかどうか、私にはよく分からなかった。
『アイ』
いつも通り唐突にレンの声が聞こえた。私は先ほどまでの煩悶を忘れ、彼の出現を喜んだ。
『レン!』
『結婚おめでとう。あー、ようやく言えた。俺、本当に嬉しいと思ってる』
『有難う。何もかもあなたのおかげよ。感謝しているわ』
『ま、ちょっとはそうかもな。でも、全部アイが決めて行動した結果だ。俺は結局声だけだから。アイが掴んだ結果だよ。…それでさ、俺多分もう出てこれない』
『…そうなの。どうしましょう。私、寂しいわ。あなたにとっては喜ばしいことなのに』
私は溢れそうな涙を懸命に堪えた。覚悟していたことだ。
彼は長い間、私から出られなかった。ようやく私の体から解き放たれて自由になれるのだ。
『大丈夫だよ。アイにはユージ君がいるだろ』
『そうね。その通りだわ。でもレン、なぜもうお話できないのか、教えてもらえる?』
『うん。俺、死んだって言ってただろ。実は死んだ後、神様みたいなやつと話をしてさ。何話したか覚えてないんだけど、多分あいつが俺をアイのところに送ったんだと思う』
『神様?レン、すごいわ』
『そうか?まぁ、なんでアイのところに送られたのか全然分かんなかったけど、ユージ君が登場してからは何となく理解した』
『何をかしら?』
『さぁな。俺はやり遂げたってことだ。それで、お役御免ってわけ』
レンの声が楽しそうに響く。
『アイ、落ち込むんじゃねぇぞ!そりゃ、話し相手がいないと何となく調子が出ないかもしれねぇけどな、俺は幽霊だ』
『分かっているわ』
私はとうとう涙が出てしまった。しかも困ったことに止まらない。
『じゃ、俺が元気よく旅立てるように、クッキー食べてなんか飲もうぜ!』
レンは最後までレンだった。私は思わず声を立てて笑うと、ビルが毎日焼いてくれるようになったクッキーを手に取り、彼と最後の語らいを楽しんだのだった。