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私はまた王宮に来ていた。今日は王宮が主催しているお茶会に参加しているのだ。
私がこういった催しに参加するのは久しぶりだ。ケネス様と婚約していた頃は最低限しか社交が許されなかったし、婚約解消後は好奇の目に晒されることが怖かった。
しかし、覚悟を決めて参加したものの、拍子抜けするほど何もない。どうやらお母様は社交界で相当な努力をして下さったようだ。
レンは呑気に王宮のお菓子をねだっている。
「アイリーン様、お綺麗になられましたね。今の方が素敵ですわ」
以前から交友のあった令嬢たちが話かけてくれた。皆好意的だ。
私を心配してくださっていたらしい。
「アイリーン様の前の婚約者の方、かなり苦しい状況のようですわ」
「当然よね。あの方と婚約を結ぶ令嬢などいるはずがないわ」
「まぁ、そうなのですか?」
ケネス様は私と婚約解消してから、いくつかの家に婚約を打診したがすべて断られているという。今は王宮で職を得ようと繋ぎをつけているようだ。
「ハワード侯爵家の持つ爵位は二人のお兄様が継ぐようですし、今のままではあの方は貴族でいられません。婿入り先を探そうにも、アイリーン様への仕打ちが知れ渡っていますからどの家も縁を結びませんし。ご自分で相応の職を得るしかないのですわ」
おそらく領内で兄の家臣になるか、王宮に出仕するかというところだろう。
私はケネス様の顛末を聞いても、不思議と何とも思わなかった。積極的に彼の幸福を願うことはないが、不幸になって欲しいとも思わない。
(あの方は私にもう関わりのない方だものね)
私は当たり障りない相槌を打ちつつ、令嬢たちとの会話を終えた。ちょうどお茶会も終わる時間のようだ。
「アイリーン様、馬車の方へ向かわれないのですか?」
「お父様に少し挨拶してから帰ろうかと思いまして」
「そうでしたか。ではごきげんよう」
ユージーン様にお会いできるかもしれないという下心があってのことだが、私はお父様の執務室へ向かうことにした。
「アイリーン」
王宮の廊下を歩いていると、突然聞きなれた声が聞こえた。ケネス様だ。私は思いがけない人物の登場に驚くが、平静を装い、会釈して立ち去ろうとした。
「こんなところで会うとは。君はやはり僕に未練があるのだね」
理解できない言葉に、思わずケネス様を見やる。
彼の容貌は私の知っているものではなくなっていた。元々瘦せ型だったのが更に痩せ、頬がこけている。瞳の周りは窪んでいて、いつも整えられていた髪は乱れていた。
『アイ。このハゲ何かおかしいぞ』
『そうね。逃げるわ』
レンが珍しく焦った様子だ。私もケネス様の尋常でない様子に、早々に立ち去ろうと判断する。
「ハワード侯爵子息、先を急いでおりますので、これで失礼します」
「僕が王宮にいると聞いてここにいるのだろう?もう十分だよ、僕の気を引くのは」
ケネス様は私の腕を掴み、強く握った。振りほどこうにも動けない。
「お止めください」
「アイリーン。もう意地を張らないでいい。あんなに僕を慕っていたというのに、もう後に引けなくなってしまったのだろう。君の至らないところも全て受け入れてやるから、伯爵に僕と婚約を結び直したいと言うんだ」
ケネス様は私の耳元で囁いた。
彼はいつも私のことを断定する。
僕を慕っている。教養がない。平凡。のろま。
婚約していた時の私は繰り返し彼の言葉を聞くうちに、その通りだと思い込むようになった。彼のアイリーン・スペンサーが出来上がってしまったのだ。
でも、今の私は私のことを知っている。
『アイのどこを見ればお前に惚れてるっていうんだよ。この勘違い野郎!』
レンは頭の中のモヤを消し去ってくれた。明瞭になった視界で見えたのは、本当の私。
「ハワード侯爵子息。私があなたをお慕いしていたことはございません。婚約解消は私も望むことでした。このような狼藉はお止めください。大声を出しますよ」
「なっ…下手に出れば付けあがって!その目はなんだ!女のくせに!」
ケネス様は眉を吊り上げ激高された。殴られるかもしれない。それでも私は恐ろしくなかった。王宮で暴行となれば、彼も流石に私に近づけなくなるだろう。それに彼の細腕では、痛いだろうが大けがにはならないだろうという算段もあった。
「やめなさい!」
声と同時に私の体はグイ、と動かされた。予想外の事態に困惑していると、目の前に私の望む方の後ろ姿があった。頭の中でレンが興奮している。
『カッコいいーー!ユージ君!』
「君は何だ!僕を誰だと思っている!」
「存じ上げています。ケネス・ハワード侯爵子息。私はユージーン・ノースと申します。王宮で文官の任を拝命している者です」
「ノースということは子爵家か!では先ほどの無礼はなんだ!僕は…」
「確かに私は子爵家の者ですが、今は王宮の文官としてここにおります。王宮で貴婦人に暴行を働いていたのを確認し、止めました。義務としてあなたを王宮警護の騎士に届けなければなりません」
ユージーン様の言葉に、ケネス様はみるみる青褪めた。さすがに王宮の騎士に捕縛されたとなれば、彼の立場は更に厳しいものになる。
「暴行とは、誤解だ。アイリーンとは旧知の仲でね。行き違いがあったようだ」
「…アイリーン嬢。ハワード侯爵子息はこう仰っていますが、あなたは?」
「確かに強く腕を掴まれた上に恫喝されて恐ろしい思いはしましたが、王宮の騎士様のお手を煩わせる程ではありません。しかし、父には報告したいと思います」
ユージーン様は私の言葉を聞き、納得されたように頷いた。ケネス様は焦ったように私を見ている。
「アイリーン!」
「ハワード侯爵子息。私たちの婚約はとうに解消されているのです。私のことをそのように呼ぶのはお控えください。それでは、失礼いたします」
「アイリーン嬢、伯爵のところへ行かれるのでしょう。ご一緒します」
ユージーン様は私の手を取りエスコートを申し出てくださった。私は微笑んでそれに応じる。
ケネス様が後ろで私を呼んでいるが、前にだけ意識を向け歩いていった。
「ユージーン様、有難うございました」
「いえ。もっと早く止めに入れば良かった。申し訳ございません」
「ユージーン様から謝罪を受ける理由がありませんわ。あなたは助けてくださいました。あのまま殴られても仕方がないと覚悟しておりましたから」
「いいえ。私はもっと早くあの場にいたのです。しかし、止めに入らなかった」
思いもしないことを言われ、私は目を丸くした。
「僕は今日、あなたが王宮に来ることを知っていた。少しでもお見掛けできるかもしれないと、お茶会が終わる時間にここへ足を運んだのです」
ユージーン様は私に会えることを期待して仕事を一時抜け、お茶会会場から父の執務室まで続く廊下へ来て下さったという。
私は胸が温かくなった。
「僕はここであなたとハワード侯爵子息が寄り添っている姿を見てしまった。それで、あなたの心がまだ彼にあるかもしれないと思ってしまったのです」
「あり得ません!あの方は、無理やりに私の腕を掴んで引き寄せたのです!」
私は思わず叫ぶようにユージーン様に言った。ひどい誤解だ。
「えぇ。分かっています。しかし、あの時の僕は気が動転してしまった…しかし、あなたが毅然と彼に拒絶している姿を見て、目が覚めました」
ユージーン様は突然、私の前に跪いた。
「アイリーン嬢。今日、あなたの凛とした姿を見て、改めて僕の思いを伝えたいと思いました。聞いてくださいますか?」
「はい…」
『映画みたい!!すげぇ!』
レンは楽しそうだ。私は彼の行動に、ただただ頷くことしかできない。
「僕は前からあなたの事を知っていました。と言っても、伯爵の自慢話で、ですが。伯爵の話から推察されるあなたは、控えめで、努力家で、可愛らしい女性でした」
お父様は職場で家族の自慢話をしていたようだ。恥ずかしい。
「ハワード侯爵子息との婚約が解消されたと聞いたときは、ただ気の毒に思っただけでした。あの日、あなたに初めてお会いするまでは」
私にとっても、ユージーン様と初めてお会いした時のことは忘れがたい。今思えば、一目惚れというものだったのかもしれない。
「一目見て、なんて可愛らしい令嬢かと思いました。声を聞いているだけで安らぎ、微笑みを見ると胸が高鳴りました。あの日、仕事をしても手につかず、思わずスペンサー伯爵に話をしに行ったのです。こんなことは初めてでした。アイリーン嬢、私はあなたに恋をした」
ユージーン様の熱烈な愛の言葉に、私の顔が赤くなるのが分かる。
「伯爵からあなたに会いに行く許可を頂けたときは天にも昇る気持ちでした。何度お会いしても、いくら話をしても、離れがたい。私は自分が次男であることを神に感謝しました。あなたの夫になる資格があるからです」
ユージーン様は私の手を取り、優しく口付けた。私の心臓はうるさいぐらいに存在を主張している。
「例えあなたが私と同じ気持ちでなくとも、私はアイリーン嬢を愛し守りたい。その権利をいただけませんか。どうか、私と結婚してください」
私の心は決まっている。返事は一つだ。
「私も、ユージーン様をお慕いしています。喜んで」
私がそうお答えすると、ユージーン様は破顔し、私を抱き寄せた。同時に周囲からワッと歓声が上がった。いつの間にか注目を集めていたらしい。私はここが王宮だと思い出し、羞恥に悶える。
ユージーン様を見ると、心から幸せそうに周囲に感謝を返している。
『良かったなぁ。あるべきところに収まったよ』
レンがそう呟いているのを、私はこの場の多幸感に飲まれ、深く考えなかったのだった。