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お父様に次回の会合の私とケネス様との会話を聞いていて欲しいと相談すると、すぐ了承された。気遣わしげな目をしていらしたので、何かご存じなのかもしれない。
それからは、これまでケネス様が嫌がるため控えていたことも再開し、久々に楽しいと思える日々を過ごしている。
レンとは相変わらず奇妙な同居が続いている。彼は四六時中「いる」わけではない。「いない」ときについて尋ねると、彼曰く、眠っているという。
「アイ」というのは彼の国で一般的な名前らしい。アイリーンと呼ぶよりも親しみが湧くので私をそう呼ぶことにしたという。レンやアイという名前は聞いたことがないので、やはり彼の国はかなり遠いようだ。
『やっぱりこのクッキー美味いなぁ』
ビルは私の好物と思ったのか、頻繁にレンお気に入りのクッキーを作ってくれるようになった。レンが喜ぶので私も有難い。
『何だか前よりお菓子が美味しく感じるわ。私はクッキーよりマフィンの方が好きかな』
『活動的に過ごすと嫌がるとか、あいつほんと陰険だよな。あ、マフィンを食べてもいいけど、クッキーも食べてくれよ』
『ふふ。分かっているわ。…好きなことをしていると、何だか気持ちが上向くのね。明日ケネス様とお会いするというのに、全く恐ろしくないもの』
『あんなハゲは怖がる必要もないし、もうすぐおさらばだ』
『まだどうなるか分からないわ』
お父様とお母さまがどう判断されるかは分からない。しかし、今の私はケネス様の言うことを鵜呑みにすることはないだろう。
「アイリーン。今日の君の服装はなっていない。流行りのものを追いかけるなど、僕は好まないと前に言ったはずだ」
ケネス様は今日両親が在宅していることを知らない。事前に二人とも外出していると伝えているのだ。
予想通り、挨拶が終わるなり今日の私の不備を指摘していらっしゃる。
「今日の洋服は、お母さまが先日購入してくださったものなのです。私も気に入りましたので着用しました」
「な!夫人が購入したから何も考えずに着たというのか!君には知能がないのか?まったく」
私はもうケネス様の言葉を真に受けて傷つくことはない。何も返答することなく、応接室まで案内した。応接室の隣には両親が控えている。何よりも心強い。
いつもと様子が違う私にケネス様は明らかに苛立っている。メイドが退出すると、彼は私を睨みつけた。
「前に言いつけておいた詩はもう暗記したのか?」
「いえ、まだです」
「なんだと。随分反抗的な態度だな。僕の言うことを聞かないとどうなると思っている」
「ケネス様がおっしゃる詩は、一般的な教養とは言い難いものですわ」
「なんだと?派手な服装をして、屁理屈を言い、未来の夫の言うことに反抗するとは。君に自分の立場というものを分からせる必要があるようだな!」
大声で叫びながらケネス様は私の椅子を横から蹴ったので、私はバランスを崩して倒れてしまった。予想外のことだったので、心臓がひゅっと縮んだような気になる。
『いきなり蹴るな!このハゲが!』
一瞬前の私に戻ってしまいそうになったけれど、レンの声で我に返る。
私は一人じゃない。レンもいるし、両親が聞いてくれている。
「僕は君と仕方なく結婚してやるんだ。君のような平凡でつまらない女など、普通の男は相手にしない。そんな女の分際で僕に反抗するなど——」
「それはそれは、申し訳なかったね。では婚約は解消させてもらおう」
少し開いていた扉から、お父様とお母様が入ってきた。ケネス様が帰ってから話をする予定だったはずだ。私は困惑した。
「お父様、なぜ…」
「そんなに娘に不満があるとは知らなかったよ。もう縁談は白紙だとハワード侯爵に僕から伝えておく。それでいいだろう」
「ス、スペンサー伯爵?今日はいらっしゃらないと…」
「家の者から、君の娘への仕打ちについては度々報告が入っていた。アイリーンが何も言わないので様子を見ていたが…今日は真偽を確かめようと思ってね。まさか、暴力を振るうとは」
「ち、違うのです。これは、その…アイリーンが、約束を、断りなく破ったので」
「だから椅子を蹴り娘を罵ったと?いいか。僕たちは家門も大事だが、娘が何よりも大切なんだ。娘を尊重しない婿などいらん。すぐに立ち去るがいい」
お父様の言葉にケネス様は何か言いたげではあったが、控えていた執事のダンが重ねて退室を促したので、彼は部屋を出て行った。
お父様がここまで怒りを表されるとは思わなかった。お母様は目尻に涙が浮かんでいる。二人は途中まで成り行きを見ていたが、大きな音が聞こえて思わず出てしまったという。
「アイリーン。すまなかった。あんな男だと知っていれば縁など結ばなかった」
「あの方は表面を取り繕うのがお上手ですから、無理もありません。婚約を解消していただけるのなら、それだけで十分です」
「なぜ今まで言わなかったの!長い間我慢することなどなかったわ」
「ケネス様に、私が至らないのだからお父様とお母様に報告してはいけないと厳命されていたのです。私はそれが正しいことだと思い込んでいました」
「腹立たしい。アイリーン、あとは僕たちが処理するから、お前はしばらく家でゆっくり過ごしなさい。今後のことは何も考えなくてもいい」
「そうよ。あなたの不利にならないように、私も尽力しますからね」