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【電子書籍化記念番外編】ビルとレオナルド


 俺がスペンサー家に勤めて、何年経ったか。若い頃からだから、もう十数年だ。


 俺——ビルが厨房を任されるようになった頃、お嬢様の最初の婚約が結ばれた。それから色々と事件が起きて、お嬢様の婚約は解消となり、最終的に今のご当主様がお嬢様の婿になった。

 正直、最初の婚約者殿と婚約をしていた頃のお嬢様は人が変わったみたいに表情が暗かったから、俺も心配していた。妻のミリーから聞いていたお嬢様に対する振る舞いも許し難いものだったし、あの人との婚約が解消になったときはホッとしたものだ。


 その後お嬢様は今のご当主様と結婚されて、レオナルド様もお生まれになって。お嬢様——いや、もう奥様か——は本当に明るくなった。今でもスペンサー家の使用人仲間と、本当に良かったなと言い合っている。


 俺は今日もバターをこねて、クリーム状になったバターにはちみつを混ぜる。次に粉を用意していると、厨房の外に珍客がいることに気が付いた。


「レオナルド様、どうされました」


 スペンサー家の長男レオナルド様が、興味深そうにこちらを見て、厨房の入口に立っていた。

 レオナルド様は五歳になった。その天使のようなお顔と、五歳とは思えない聡明さで、屋敷中の人間から愛されている。


「ビル。いまつくっているの、クッキー?」

「そうでございますよ」


 俺が答えると、レオナルド様は厨房の隅からずるずると椅子を持って来て、ちょこんと座る。


「見たい」

「そ、そうですか。しかし……」

「クッキーできたら、おかあさまに、あげる」


 真剣な面持ちでレオナルド様が言ったので、少し逡巡した後、俺は頷いた。




 粉を混ぜた生地をこね、まとめていく。それを氷が入った箱にしまうと、レオナルド様は首をかしげた。


「なんでしまうんだ?」

「こうして、生地をしばらく休ませてやるんです。こうすれば、クッキーがもっと美味しくなります」

「そうなんだ……」


 レオナルド様はじっと生地が入った箱を見つめている。


 今日は早朝から屋敷中が騒がしく、先ほどまで厨房も慌ただしかった。それもようやく落ち着いたので、他の料理人たちは休憩させて、俺はこうして一人クッキーを作り始めたのだ。

 しばらくすれば、また慌ただしくなるだろうから。


 今の今まで、誰もレオナルド様を気に掛けることができなかったのだろう。よくよく見ると、レオナルド様は普段とは様子が違う。少し落ち込んでいるらしい。


「レオナルド様。俺は毎日このクッキーを焼いてますけど、いつからだと思います?」

「ずっとずっと前からじゃないの?」


 俺はしゃがみこんで、きょとんとしたレオナルド様の目線に合わせた。


「良く作るようになったのは、奥様が旦那様と結婚される少し前からですが……毎日作るようになったのは、レオナルド様がお生まれになった後です。二、三年前じゃないかな。奥様がそのようにして欲しいとおっしゃったから」

「おかあさまが」


 レオナルド様は目を瞬かせた。


「レンがこのクッキー大好きだから、毎日焼いてくれる? と俺におっしゃったんです」

「……」


 レオナルド様は黙り込んだ。

 今日屋敷は慌ただしい。それは、奥様が産気づき、レオナルド様の弟か妹が今まさに生まれようとしているからだ。

 レオナルド様はずっと、当主ご夫妻や隠居なさった大旦那様や大奥様、そして使用人たちからの愛情を独り占めにしていた。彼なりに、自分を取り巻く環境が変化することを理解していて、複雑な思いがあるのかもしれない。


「ビルのクッキーは、ほんとうにおいしい」

「ありがとうございます」

「それに、これをたべると、おかあさまも笑う。それもうれしい」

「そうですか」


 俺はレオナルド様に温かいミルクを入れた。レオナルド様はゆっくりとそれを飲んだ。


「おれ、おかあさまのおなかに赤ちゃんいるって聞いて、うれしいとおもった。でも、いまはちょっと、さみしいんだ。なんでかな」

「それは、レオナルド様が奥様のことを大好きだからですよ」


 レオナルド様は太陽のような笑顔を見せた。


「うん。おれ、おかあさまがだいすきだよ」


 その笑顔につられて、俺まで思わず笑顔になった。




 生地を取り出して、平らにならす。それを俺が型で抜いている様を、レオナルド様はじっと見ていた。


「それ、おれがやってもいい?」


 俺はこくりと頷いて、「いいですよ」と答えた。レオナルド様は丁寧に生地を抜いていく。たくさんのクッキーのもとができていく。

 それらを天板に並べ、火をつけたグリルに入れた。


「焼きあがったら完成ですよ」

「たのしみだ!」

「味見はお願いしますね」


 小さな助手に一番重要な仕事をお願いする。彼は目を輝かせて頷いた。



「ビル、ちゃんとできてる! おいしい!」

「そうですか。良かったです」


 レオナルド様は出来上がったクッキーを箱に入れて、リボンを付けた。なぜかそれを二つ作ったので、俺は不思議に思う。


「なぜ二つ作るのでしょう?」

「これは、おかあさまに。これはうまれてくる赤ちゃんにあげるんだ。うまれてきて、おめでとうって」


 この小さな男の子は、つい先ほどまでまだ見ぬ赤子に複雑な気持ちを持っていたはずなのに、もうその気持ちに折り合いを付けて進もうとしているのだ。思わず俺は感心してしまう。


「レオナルド様。このクッキーははちみつが入っているので、赤子は食べられません。それに、赤子はしばらく乳母の母乳で育ちます」

「そうなのか!」


 レオナルド様は明らかに意気消沈したように表情が沈んでしまう。


「はい。ですから、これは旦那様に差し上げられては? これをレオナルド様が作ったと聞けば、きっと驚いて喜ばれますよ。赤子は、別の方法で慈しまれたらよろしいかと」

「べつの?」

「はい。レオナルド様は生まれてくる赤子にとって、たった一人のお兄様です。だから、レオナルド様をたくさん頼りにすることでしょう」


 レオナルド様はぱぁっと表情を明るくした。


「うん。おれ、おにいちゃんだ。いっぱいおしえてあげなきゃ! じゃあ、これはおとうさまにあげてこよう!」


 大事そうに二つの箱を抱えて、レオナルド様はぱたぱたと厨房を出て行った。



 しばらくして、屋敷に元気な産声が響いた。

 無事に奥様が出産されたのだ。

 きっとレオナルド様は良い兄になるだろう。赤子の産声を聞きながら、俺はそう思った。







本日(1月19日)、エンジェライト文庫様より電子書籍化、配信開始です。

記念に小話を更新しました。

※このお話は電子書籍には掲載されていません。

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― 新着の感想 ―
[一言] 番外編尊い… 少しうるっときてしまいました
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