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初投稿です。拙い文章ですが、よろしくお願いいたします。
「アイリーン。君って人は教養がない」
月に二度の婚約者との会合は、今日もいつも通りの展開だ。婚約者であるハワード侯爵家の三男ケネス様は、私の至らない部分を絶対に見逃さない。今日は私の古典詩に関する解釈が誤っていることに苦言を呈されている。
昨日から使用人と念入りに整えた応接室には、ケネス様の声だけが響いていた。私が声を出すことを許されているのは、ケネス様から問われたときのみだ
「君はまた僕を落胆させる」
私はケネス様の言葉にビクリと震えた。彼から失望されるのは私にとって恐ろしいことだ。
「まったく君はつまらない女だ。教養もなく、美しくもない。君には家持ちという価値しかない。それも僕が婚姻してやらないと意味がないものだ。そうだろう?」
私はスペンサー伯爵家の一人娘だが、法律により女性は家督を継承できない。ケネス様と婚姻を結ばなければスペンサー家は取り潰しになってしまう。
ケネス様がおっしゃる通り、私は彼がいないと何の価値もない女なのだ。謝罪して彼に許しを請わなければ——
『今日も安定のクズっぷり。いっそ清々しいね!なーにが教養だよ。まずその鼻毛を整えてから言えよ、このハゲが』
「は…」
突然頭の中に声が響き、下げようとしていた頭が止まった。聞いたこともない男性の声に、私は混乱の極致になる。クズ?ハゲ?この声は一体?
「アイリーン!君は動きまでのろまなのか!全く嘆かわしい」
『オメーはアイの親父の前だと返事もできずに停止してんだろーが!アイの前でしかイキれないクソダサハゲは黙ってろよ』
ケネス様の様子を察するに、この声が聞こえていらっしゃらない。
そしてどうやらこの声の主は私のことを思いやってくれているらしい。
「返事ぐらいしたらどうだ!」
『すぐ怒鳴るんじゃねぇよ』
ケネス様にここまで怒りを表されると、今まで私は萎縮して彼の怒りが収まるまで謝罪をしていたが、今日は想定外の事態に気が回らない。
「ケネス様。申し訳ございませんが、体調が優れません。私は本日下がらせていただきます」
「ふん。体調管理もできないとは。もういい。反省するように」
ケネス様はそう吐き捨てると、乱暴に扉を開けて出て行かれた。今日は両親がいないので、ケネス様の振る舞いは乱暴だ。しかし、両親がいる前では礼儀正しく人当たりの良い態度になる。
「お嬢様、お加減が悪いのですか?」
メイドのミリーが心配そうに駆け寄ってくれる。私はよっぽど尋常な様子ではないのだろう。
「大丈夫よ、ミリー。でももう部屋に戻るわね。せっかく用意してくれたお菓子がぜんぶ無駄になったことをビルに謝っておいて。皆で分けてくれてもいいわ」
「ビルのお菓子はおいしいですから、むしろ皆喜びます。お嬢様は私どもまでお気遣いされなくとも良いのです」
「ありがとう」
メイドのミリーも、料理人のビルも、スペンサー家の使用人は皆優しく当主一族に敬意を惜しまない。私は彼らのためにも、ケネス様とうまくやらねばならないのだ。
『お菓子食べないんだ。あのクッキー美味いのに、もったいない』
また声が聞こえる。私は特別に好きなお菓子はないが、何となく声が示すクッキーを手に取った。
「ミリー、やっぱりこのクッキーを後で部屋に持ってきてもらえる?」
「承知致しました。すぐにお持ちします」
どこか嬉しそうにミリーは答えたのだった。
私は自分の部屋に戻り、状況を整理することにした。突然男性の声が聞こえるだなんて、一体私に何が起きているのだろう。私は狂人になってしまったのだろうか。
『なんかアイの様子がおかしいな。どうしたんだ?』
「あなたはどなた?なぜ私だけ声が聞こえるの?」
『えぇーー!聞こえてる?』
「ええ。ケネス様には聞こえていらっしゃらないようだったけれど。なぜ私に話しかけてるの?」
『俺だってよく分かんねぇよ。気づいたらあんたの中にいたんだ。外に出ようと色々試したけど無駄だったから、大人しくアイ、リーン…さんの人生を一緒に過ごしてるってわけ』
「アイでいいわよ。よく分からないわ。私の中ってどういう意味?」
『他に何て言えばいいか分かんねぇけど。感覚を共有してるっていう感じかな。今まで何回も呼びかけたけど全く気付かなかったのに急にどうしたんだろうな』
「あなたの声は他の人には聞こえないのよね。私の思ってることは全部分かるの?」
『そうでもないと思う。でも、そうだな、声に出さずに呼びかけてみて』
『こう?』
『お!聞こえる!』
強く言葉を意識して呼びかけると彼に聞こえるようだ。私の考えがすべて彼に筒抜けという訳ではないらしい。声を出さずに話ができるなら有難い。
『あなたは誰なの?』
『俺はレン。日本っていう国にいたんだけど、死んだ。多分幽霊ってやつかな』
日本という国は聞いたことがない。遠い国なのだろう。
日本という国で亡くなったレンが、どういう因果か魂になって私の中に入ってしまったようだ。
男性が自分に憑いているなど、とんでもない状況だ。でも不思議とレンに嫌な気持ちは湧かない。彼の声があまりにもあっけらかんとしているからだろうか。
話を聞くと、彼は十六歳で死んでしまったという。事故だったようだ。
死んでしまった上に、見知らぬ女に入ってしまったというのに、レンに悲壮感は全くない。
『落ち込んでても仕方ないだろ。まぁあのクソ野郎のことは死ぬほど嫌いだから嫌な気にはなってたけどな』
『クソ野郎って、ケネス様のこと?多分悪い言葉よね。いけないわ、レン』
『クソ野郎じゃなかったらハゲだな。アイ、あんな奴と結婚するのは絶対にやめとけ』
レンのケネス様への評価は最低なようだ。クソ野郎もハゲも聞いたことがないが、彼の話しぶりからするとおそらく相手を罵倒する言葉なのだろう。
『…レンの国ではどうか分からないけれど、この国では女性は家を継承できないの。私のような何もできない女でも、ケネス様のおかげで家を守ることができるのよ』
『別に違う男と結婚したらいいだけだ』
『私なんか、他の殿方に相手にされないわ。ケネス様が私と婚姻して下さらないと、わが家は断絶してしまう』
『そんな訳ねーだろ。もしかして、アイはあいつに惚れてるのか?』
惚れているとは、恋情のことだろうか。私はケネス様を慕っているはずだ。
しかし、はっきりと断言できない自分に気づく。
『どっちにしても結婚するなら最低限相手を尊重する気持ちは必要だろ。あいつはアイを見下すことで自分を優位に立たせる最低野郎だ。そんなやつと一生過ごせるか?』
『そんなこと、考えたことなかったわ。お父様が決めた縁談だし、私にはケネス様しかいないと…』
『あのクソ野郎が良い当主になるわけもないしな。あいつの態度を見てたらどんな当主になるか想像つくぜ』
レンの指摘に、私は頭を殴られたような衝撃が走った。
ケネス様は時折、使用人に対して辛く当たる。家を守るために婚姻するのに、そのケネス様が彼らを虐げることになれば、本末転倒だ。なぜこんな簡単なことに考え及ばなかったのだろう。
『私、どうすれば…』
『まぁ、何か飲んで、クッキーでも食べようぜ。アイが食べると俺にも味が分かるんだ。そのクッキーが一番美味い!』
机にはミリーが持ってきてくれたクッキーが置いてある。私はビルが作るものは何でも美味しいと思うが、レンはこのクッキーがとりわけお気に入りのようだ。
レンの言う通りに紅茶を飲んでクッキーを一つ頂くと、少し気持ちが落ち着いた。ケネス様とお会いした後だというのに、ここまで気持ちが穏やかなのは初めてかもしれない。
『アイ。次の会合の時は、隣の部屋にアイの両親に待機して貰え。アイの親は、あいつの本性を知らないだろ』
『そんなことすれば、ケネス様に何と言われるか…』
『何言ってんだ。あいつの許可なんて必要ねぇ』
『でも…』
『しょうもないこと考えるな。男なんて腐るほどいるんだぞ。あえてクズと結婚することなんてない』
レンと話していると、目が覚めたような、そんな気がする。私が一番守りたいのは何か。とても大切なことのはずなのに、今まで考えが及ばなかった。
『ケネス様と…婚姻しなくても、いい?』
ケネス様と婚姻しない未来を想像すると、心が晴れやかになった。ようやく、私は自分にケネス様を恋慕する気持ちなどなかったらしいことに気づいた。
『私、あの方が怖かっただけ。お慕いしていなかった』
『そりゃそうだろ』
レンは何を今更、という声を出した。
ケネス様の頭髪は、無事です(今のところ)