お手紙と夜会
眩しい日差しが差し込む薬師寮の自室の中で、北国の薬草について書かれた本を読む。
何の声も耳に入らない程夢中になって本を読み進めていると、急に視界が大きく揺れた。
「わっ、わわわ……⁉︎」
「ソフィアさん。アーバスノット侯爵からお手紙が届いたそうです」
驚いて顔を上げると、そこには私の肩を片手でぐらぐらとゆするノエルさんがいた。
「あっ、ありがとうっ、ございますっ……」
「いいえ、気付いていただけて何よりです」
お礼を言う私に肩をゆする手を止めて、ノエルさんがもう片方の手に持った分厚い封筒を差し出した。
もう一度お礼を言って封筒を受け取り、その封を開ける。その分厚い手紙にはいつものようにやや小さく几帳面な文字が、びっしりと並んでいた。
内容は前回私が手紙に書いた質問への答えと、新薬についての意見だ。文中に出てくる珍しい薬草や製薬方法には、注釈までつけられている。
知っている内容であれば少々得意気な気持ちに、知らない内容にはすぐにでも試してみたいわくわくとした気持ちで手紙を読み進めていく。
逸る気持ちに任せ、まずは速読で手紙を読み終えて顔を上げると、そこには不思議なものを見るような目で私を見るノエルさんがいた。
「どうしましたか? ……あっ、もしかして、ノエルさんも先日発表された貧血の新薬がやっぱり気になりますか……?」
「いえ、私の専門は麻酔薬ですので。専門外のものは今のところ大丈夫です。ただ、楽しそうに読んでいるのでびっくりして」
「それはもう楽しいです!」
拳を握り締め、早口で熱弁する。
「お祖父さまの薬草や製薬についての知識はやはり圧倒的でして、たとえば皆様ご存知の通りイチョウというハーブは今まで肩こり等のハーブとしてのみ使われてきましたが、この手紙には記憶力の低下や不安、めまいに対しての軽減効果が見られると書かれており、その上なんと類似薬に対し副作用が格段に減るという研究結果が……」
興奮のままにまくしたてる私の眼前に、ノエルさんが冷静な表情で手のひらをずい、と差し出す。
「いえ。そういったお話をソフィアさんが喜ばれるのはさすがにわかるのですが、今は薬ではなく他に優先して話し合わなければならないことがあるのでは、と思いまして」
「薬よりも優先して話し合わなければならないこと……?」
そんなことが一体この世にあるのだろうか……?
小首を傾げる私に、ベッドの上で熱心に美容体操を行っていたナンシーさんが「夜会の件でしょう?」と口を開いた。
夜会。
つい今まで本を読んで忘れていたその言葉を思い出し、心の中に暗雲が立ち込める。
「そうです。ソフィアさんは夜会に強制参加と聞いていましたが、そんなに悠長に薬草の話ばかりしていて大丈夫なのですか? アーバスノット侯爵家は代々薬にしか興味がなく、社交性の欠片もない変人の家系。侯爵閣下も社交に出ることは殆どなかったとお聞きしましたが……」
「……」
「国王主催の夜会における社交は、薬草の話ばかりして成り立つものではないと思うのですが」
「……」
反論の余地もない。
心底不思議そうなノエルさんの正論が、鋭く心を抉る。
薬草や製薬以外に語れるものを持たない私は、社交界デビューさえ(私自身は)果たしていない。
ヴァイオレットさまに、日々地獄の淑女教育を施されているおかげで多少は令嬢としての何たるかは身に着いたと思うものの、それでも合格点には程遠かった。
毎日のように「田舎にいる鶏の方がよほど物覚えが良くてよ」と冷ややかに駄目だしをされつつ、「せめて姿勢を保つという貴族として最低限のことはできるようになりなさい」と叱られている。
私一人が参加をするのならできるだけ息をひそめ、壁と同化するように努めれば失笑されるだけですむだろうけれど、今回は。
(こんな私を、エスコートしてくださるお相手がいる……)
もしも恥をかかせてしまえばどんなことになるのか。
想像だけで身震いした。
「心配よねえ。だってエスコートしてくれるのは、アーバスノット侯爵なのでしょう?」
堅く決意し背筋を伸ばす私に、ナンシーさんが柔軟をしながら小首を傾げた。
私には到底無理な体勢を保つナンシーさんに心の中で感嘆しつつ、勢いよく首を振る。
「いえ! そもそもお祖父さまはきっと、私が夜会に出ることもご存知ないと思います」
「え?」
「え?」
二人が同時に目を瞬かせ、顔を見合わせる。
「そんなに頻繁にお手紙をやり取りをしているのに、ですか?」
「それもそんなに分厚いのに、近況報告の一つもしていないの?」
「はい! お祖父さまとのやり取りは薬作りに関してのお話だけで……それ以外の話題をお話したことはありません」
無言になった二人の視線が、私の手にある手紙に向けられる。
確かに、お祖父さまからの手紙はいつも分厚い。少し薄めの薬術書くらいはある。
おまけに小さな文字でびっしりと、しかし簡潔な文章で書かれた情報量は見た目の予想をはるかに上回る内容が書かれているのだ。
しっかり読み込もうと思ったら、最低でも一晩はかかってしまうだろう。
「……お祖父様なのよね? 毎週その分厚さの手紙を送ってくれる」
「それはそうなのですが、お祖父さまである前に偉大な薬師の先輩ですから」
そもそもお祖父さまとは初対面の時に、祖父ではなく薬師としての対面だと釘を刺されている。
血の繋がりがあるとはいえ、お祖父さまとは伯爵家を出るまで会ったこともなかったのだ。
きっと私のことは孫ではなくひよっこ薬師と思い、こうして薬作りの相談に乗ってくださっているのだろう。
しかしそんな私の言葉に、二人は少しだけ引いてしまった様子だった。
「……うーん。さすがはソフィアちゃんとソフィアちゃんのお祖父様だわ。一切のブレがないわね」
「家族間のコミュニケーションのすべてを薬作りで行うのですね。……予想以上です」
「家族間のコミュニケーションをとっているわけではないですよ⁉︎」
なんだか少し誤解があるのではと思い、慌てて口を開く。
「コミュニケーションをとっているわけではなく、これは単純にひよっこである私に薬師としての助言をいただいているだけで……」
「それはないわよう」
器用な体勢でひらひらと手を振りながら、ナンシーさんがけらけらと笑った。
「この間、薬師長が行き詰まって相談の手紙を出したら薬術書の名前がびっしり載ったリストと一緒に『まずは基本の勉強をすることだ』とだけ書かれた手紙が届いたらしいわよ」
「えっ……」
驚きに目を見開く。普段から薬師長には、色々な知識を教えていただいている。
おそらく王宮薬師の中でも群を抜いた知識を持つ薬師長に――でなければその座につくことはできない――基本の勉強をしろと言えるのは、世界広しといえどもお祖父さまだけだろう。
「基本的にはどなたに対しても似たような対応をなさると聞いていますね。とはいえ、新人ベテラン問わず力量以上の努力をなさる方には、助言されることもあると聞いていますが」
「けれどねえ。ここまでの手間は異例でしょう? コミュニケーションの方法が異常なくらい偏っていたとしても、それだけまめに、そんなに分厚いお手紙のやりとりができるのって愛よね〜」
「確かに。頻繁に手紙をやりとりすることって、早々ありませんよね」
少し得意げに胸を張るナンシーさんに、ノエルさんも頷く。
確信したような二人の口ぶりに、そんなことはないと思いつつ、頬がむずむずとした。
(もしもお祖父さまが、私に少しでも孫に対する多少の情を持っていてくださったら……)
それはとても嬉しいことだ。
「なんだか懐かしいです」
そんなことを考えていると、ノエルさんが何かを思い出すようにそう言った。どこか遠い目をしながら、「私も小さい頃はよく、父にお手紙を書いては渡していました」と続ける。
「その場で返事がもらえると嬉しくて、飽きもせず何通も何通も書いたものです」
「いいお父さんだったのねえ」
「はい」
淡く微笑むノエルさんのお父さまは、数年前に病気で亡くなったのだという。薬師を志したのもお父さまの病気がきっかけだったそうだ。
長年看護をしていたというノエルさんは、その経験のおかげもあるのか色々なことによく気が付く。厳格にルールを守りつつも周りに気を配ってくれるノエルさんだからこそ、こうして私の夜会のことも気にかけてくださったのだろう。
そう思った瞬間、私の考えを見透かすようにノエルさんが小首を傾げながら口を開いた。
「それよりも。ご一緒に行かれるのがアーバスノット侯爵でないのなら、どなたと夜会に行かれるのですか?」
「確かに気になるわ。王城の方から招待状を届けられた時、『身内の男性にエスコートをしてもらってください』と言われて困っていたでしょう? 解決したのかと思ってたんだけど」
「それは……」
心配そうな二人を余計驚かせてしまうのではと躊躇いつつも、口を開きかけたその瞬間。
「最低限姿勢だけは保つようにと、あれほど言ったでしょう」
震え上がる程冷ややかな、美しい声が聞こえた。