ヴァイオレット・エルフォード
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「――いやだ。野良犬にでも入れ替わってしまったのかしら」
雑然とした小さな物置部屋の、その床の上で目を覚ましたソフィア・オルコット――ヴァイオレットは、周りを眺めて顔を顰めた。
「ここまで噂と違うなんて」
壊れた家具やガラクタが詰め込まれたこの部屋は、およそ人の住む場所とは言い難い。
しかし確かにこの少女は、ここで暮らしていたらしい。
おぞましいことに、ヴァイオレットが眠っている間にくるまっていた、穴の空いた汚らしい薄い毛布が一枚、それから本棚に詰め込まれた数々の本。
それから何故かベッドの上を占領している草花や、奇妙な用具の数々に、ガラスに収められた液体から暮らしの痕跡が見て取れた。
「――薬のようね。こんな環境下で師もなく、一人で。ふうん、さすがはアーバスノット家の血をひく娘。思った通りの変態ね。合格だわ」
代々王家に仕える薬師を輩出していた名門、アーバスノット侯爵家。
今は王宮薬師長を引退し、遠い領地に引きこもっているものの、現当主は今も新薬を次々に開発している。
三度の飯や宝石よりも調薬を愛し、地位や名誉に興味がない変人の家系だ。
本当に愚かだと、ヴァイオレットは思っている。
(旨味のある弱い生き物を、放っておく生き物がいると思っているのかしら)
だからこんな目に遭うのだ――とソフィアの姿を見下ろし、あまりの酷さに眉をひそめた。
令嬢の着るようなドレスではなく、使用人が着るようなお仕着せであることは百歩譲ってやるとして。
冬だというのに薄手の春物で、おまけに散々着古したのかあちこちにほつれや小さな穴ができている。サイズが合ってないのか足首が見えていて、もはやこの自分がこのような姿をしていることに、一秒も我慢もできない。
(まずは湯浴みね。それから軽食も用意させて、部屋も替えさせて、髪や肌に艶を出して、ドレスもとりあえずは百着ほどは欲しいし――、まったく、最低限の身だしなみだけで一日が終わりそうだわ)
ヴァイオレットは足音を立てない優雅な足取りで、部屋の外に出た。
◇◇◇
オルコット伯爵家に勤めて三年目の侍女、マリアは、今日も憂鬱な気持ちでこの伯爵家の長女の元へと向かっていた。
彼女が手に持つ食事は、かびた小さな黒いパンと、具のないスープ。
平民出身のマリアですら、このようなものを口にしたことはない。
(それでもソフィア様は、不満を仰らない)
可食部が少ない日はとても悲しそうになさるのだが、それだけだ。時折こっそり食べ物を差し入れると、目を輝かせて「ありがとう」と嬉しそうに微笑む。
胸を痛めつつも、一介の侍女が女主人に逆らえるわけもない。
実の父である当主ですら見て見ぬ振りをしているのだから。
小さくため息を吐きながら俯いたとき、前方から涼やかで凛とした声が響いた。
「そこのお前」
顔を上げて、ハッと息を呑む。
そこに立っていたのは、今まさに食事を届けようとしていたソフィアの姿だった。
(でも、何……? 何か様子が違うような)
綺麗な紫色の髪と瞳に、小柄な体躯。姿形はどう見ても、この屋敷の気の毒な長女、ソフィアなのに。
いつもふんわりとした微笑みを浮かべている筈の彼女が、今は感情の見えない静かな顔でこちらを見ていた。
こんな表情は、見たことがない。
冷えた威厳を孕む眼差しに、マリアの体は凍りついた。
「お前に声をかけているのよ。聞こえないの?」
「! は、はい!」
慌てて返事をすると、ソフィアが片眉をあげた。
「あら、耳は聞こえているのね。……まあいいわ、今すぐに湯浴みをしたいの。手伝いはお前でいいわ」
「えっ……」
今、何を言ったのだろうか。
困惑するマリアに、ソフィアが「愚図ね」と眉を顰めた。
「湯浴みの用意をしろと言ったのよ」
「ゆあ……あ、あの、しかし今から、ソフィア様はお食事の時間ですが」
早く食べなければ、こんなものでも取り上げられてしまうーーそのことは知っているはずだ。
しかし目の前の彼女は、マリアの手に持つ食事を見て、一瞬の沈黙の後冷えた眼差しを向けた。
「その生ゴミが、食事?」
「え……」
マリアの反応に、ソフィアは「そう」と、ゾッとするほど冷たく笑った。
「では、お前に下げ渡すわ。さあ、この場で食べなさい」
「えっ……」
「よく仕えている主人思いのお前に、この私が施しをしてやろうと言っているのよ。まさか自分でも口にできないものを、この私に差し出したわけではないでしょう?」
歌うような優雅な口調だ。それなのに、マリアは恐怖で手足が氷のように冷えるのを感じた。
ソフィアの声は冷淡だった。下手なことを言えば殺されると、マリアが思ってしまうほどには。
「ーーただ、今日は時間が無いの。お前がその生ゴミをゴミ箱に運ぶ途中だったと言うのなら、今回だけは今の発言は忘れてあげるわ。私がさっき言ったこと、覚えてるわね? 今すぐに用意をなさい」
「か……かしこまりました。大変申し訳ありませんでした」
頭を下げると、恐ろしさに震える手足が見えた。今目の前にいるのは、いつものソフィアではない。
何か薬の類を飲んで、正気を失ってしまったのだろうか。それくらいには別人だった。
「で、ですが……あの、湯浴みは、まずはイザベラ様の了承を頂きませんと」
「お前は何を言っているの」
心底不愉快そうにソフィアが言った。
「元子爵の娘の了承などどうでもいいわ。この私が入りたいと言っているのよ。お前は私の手足。返事は「はい」以外必要ないわ」