活かされていない淑女教育
クロードさまと、お出かけをした翌日。
発注されたお薬を、王宮の端にある場所へと届けるお使いを終わらせた私は、ふう、と小さく息を吐いた。
王宮はとても広い。
万年運動不足の私は、この広い王宮内を歩きまわるだけで、ちょっと息切れをしてしまう。
しかし通りすがる方々は皆、きらびやかで重そうな服に身を包みながらも、涼しい顔で軽やかに歩いている。
さすがは淑女教育を乗り越えた方々だ。きっと落としてはならない本を、八冊は乗せて歩けるに違いない。
……私も頑張ろう。
うっかり忘れてしまっていたけれど、私は淑女修行中の真っ最中。
このような体たらくでは、次回は貴重な本の上に蓋の開いたインク壺を乗せられかねない。
頭の中のヴァイオレットさまがインク壺を掲げ始めたところで、私はその妄想を打ち消すように背筋を伸ばし、一歩足を踏み出した。
その瞬間。
「ソフィア?」
「ひいっ!」
後ろから声をかけられた。
噂をすれば影というのか、振り向けばそこにはヴァイオレットさまが、完全なる不審者を見る目つきで立っていた。
「ヴァ、ヴァイオレットさま……!」
「ただ声をかけられただけでそんなにも驚くだなんて、注意力が足りていない証拠ね」
冷ややかな目に射竦められ、「すみません……」と縮こまる。
そんな私に数秒圧のある視線を向けたあと、ヴァイオレットさまが静かに口を開いた。
「お前は一体、ここで何をしているの?」
「あ……ええと、今は発注されたお薬を、各部署に運んでくださるところへ届けてきたところです」
そう言いながら、空になったバスケットの中を見せる。
基本的にお薬は一人一人に合わせて処方するものだ。しかし中には診察が必要ないお薬もある。
たとえばちょっと寝不足な日のための、眠気や疲れをとるようなお薬や、寝つきの悪い日のための安眠できるハーブティー。そういった治療薬とまではいえないものは、人によって大きな調整の必要がないため、説明書を添えてお渡しをする。
そういったものを月に二度、発注いただいた量に合わせて持ってくるのだ。
大体こういうものは私のような新人薬師が作ることが多いのだけれど、ご指名があれば薬師長や副薬師長など、ベテランが作ることもある。
ちなみに私も、新人の割にはそこそこ指名をいただいている。しかし歴代のアーバスノットの中では指名数、最下位だそうだ。
なんでもアーバスノットの名前や陛下の命を救ったという功績と、毒物に精通した強欲悪女という噂が良い具合に打ち消し合っているのでは、というのがスヴェンやナンシーさんやノエルさんの見解だ。正直、なんともいえない気分になる。
気を取り直しつつ、私は「今日はこれでおしまいなので、今から街に出かけようと思っていました」と言った。
「お前が街に、一人で?」
ヴァイオレットさまが、意外なものを見る目で片眉をあげた後、納得したように頷いた。
「だから身嗜みも幼児以下のお前がそのようなものをつけているのね。髪留めの一つも持っていないと思っていたから驚いたわ」
そう言うヴァイオレットさまの目が、私の髪留めに向けられる。
これは昨日クロードさまにいただいた髪留めで、一人で街へ行くという初めての体験をする今日、気合を入れるために早速つけてきたのだった。
その髪留めにそっと触れつつ、私はちょっと照れながら頷いた。
「仰る通り、私はアクセサリーの類を持っていなかったのですが……昨日、クロードさまとお出かけに行きまして、就職祝いにと頂いたんです。ちょうど髪が乱れてしまい困っていたのですが、こちらを使えばとても簡単に留められるので助かって……」
「髪が乱れた?」
ヴァイオレットさまが、密かに眉を顰めた。
その表情に、淑女としてあるまじき地雷を踏んだことを悟った私は慌てて弁解をした。
「あ、あの、私は淑女である前に薬師でありまして、あの、最近は日頃から淑女として気をつけて歩く時間も少しは増やしていたのですけれど、し、しかし緊急事態ではそうもいかないというか」
「お前は一体何を言っているの」
ヴァイオレットさまが心底嫌そうな、かつ呆れきった顔をした。
「お前の全く活きていない心がけなどどうでもよくてよ。簡潔に報告なさい」
全く活きていない心がけ……。
「はい……あの、ものすごくはしゃいでしまったことと、怪我をして倒れてしまった方がいたので、咄嗟に駆け寄って処置をしたことが原因で結っていた髪の毛が崩れてしまい……」
「広場に怪我人が?」
ヴァイオレットさまの目が、一瞬怪しげにきらめいた。
その迫力に狼狽えつつ、「お仕事で失敗をしたと仰っていましたが……」と言いかけて、私はあの傷口のことを思い出していた。
「ただ、あの傷は……」
言い淀む私に、ヴァイオレットさまは「ふうん」と何かを検分するような目を向けた。
そうしてすぐに満足そうな悪い顔で笑い、「首輪をつけていてよかったわ」と呟いた。
「首輪?」
尋ねても、ヴァイオレットさまは微笑むだけで答えない。
思わずそっと首に触れる。そこには当然ながら、何もないのだけれど。
……嫌な予感がする。
「……あの、ヴァイオレットさま。私に何か、隠していることがあったり……しますか?」
「まあ」
ヴァイオレットさまがくすくすと笑いながら「おかしなことを聞くのね」と言った。
「! あっ、そ、そうですよね! すみません変なことを聞いて……」
勘違いだったことにホッとした私は、次のヴァイオレットさまの言葉にぴしりと固まることになる。
「何もかもを曝けだしている人間なんて、いるわけがないでしょう?」
ヴァイオレットさまが妖艶に笑いながら、「それでは、またね」と笑った。
ヴァイオレットの活躍お待たせしてます。
あと(たぶん)3話くらいで始まります!