ありがとう
ヴァイオレット目線です。
あの事件から、二ヶ月が経った。
王城の回廊を優雅に歩きながら、ヴァイオレットはこの二ヶ月のことを思い出す。
妹である公爵夫人の殺害と、甥である王太子の殺害未遂が起こったこと。それも犯人が、英雄と呼ばれ高い国民人気を誇る大公だったことに、この国に住むすべての者が衝撃を受けた。
そしてその動機を聞いた者は、皆言葉を失った。
大半の者が大公に同情的だった。被害者の一人である王太子ヨハネスが、『大公の罪は王家が生み出したもの』と宣言し、先代の国王を痛烈に批判したことも大きかった。
かつて国を救った功績も考慮され、処刑ではなく幽閉されることになった。ヴァイオレットが改めて魔術封じの術をかけた塔の中で、これからの人生を過ごすことになる。
月に一度は神父であるモーリスが、彼の元を訪れるようだ。
周りからは破格の温情措置だと思われている。しかし大公にとっては温情ではないだろう。
大公は死刑を望んでいたはずだ。けれどそんなこと、易々と許したくはなかった。
(……お母さまを殺した上に、ずっとこの私を騙していたのだもの)
そう思うと同時に、自分の頭を撫でてくれた大きな手を思い出す。
ヴァイオレットは絶対に、伯父を死刑にはしたくなかった。
そしてヨハネスに毒を盛った実行犯であるリリーは、ヨハネスとの婚約は破棄され、領地にて三年の謹慎の措置となった。
本来であれば極刑に処される重罪だが、自身の領民を守るために助けを求めた先で大公に脅され、自身も毒物を飲まされていたこと。それから最後に危険を顧みず王太子を守ったことも考慮され、罪は異例なほどに減刑された。
――彼女の領地の民は皆、リリーを支持しているらしい。
おそらく彼女にとっては一番良い道だったのではないだろうか。
そんなことを思いながら、ヴァイオレットはしばらく訪れていなかったヨハネスの部屋の扉をノックし、開ける。
誰もいなかった。しかし風に吹かれたカーテンが、大きく揺れている。
近寄ると、テラスに立ったヨハネスが外を眺めていた。
視線の先を見ると、予想通り今日領地へと移送されるリリーがそこにいた。
数人の騎士に連れられ馬車に乗り込もうとしている彼女は、急に動きを止めて王城を振り返る。
長い長い間を置いて、深く一礼をした彼女は、今度こそ馬車に乗り去っていった。
遠目なので表情は見えなかったが、その視線はこちらの方を向いていただろうと、ヴァイオレットは思う。
彼女が去ったあと、大きく肩を落としたヨハネスが、部屋に戻ろうと振り返って驚いた顔をした。
「……ヴァイオレットか」
「自分の命を狙った女を見て感傷に耽るなんて、お前の頭って本当にご機嫌なのね」
「お前はどうしてそう人の心を抉るようなことばかり言うんだ!」
盛大に顔を顰めつつも、ヨハネスは侍女を呼び、ヴァイオレットに茶を用意するように伝えた。
出された茶を飲みながら、ヴァイオレットは少し痩せたヨハネスの顔をちらりと見た。
もう人生に楽しみなどないとでも言うような、随分と陰気な顔をしている。
近寄るだけで不幸がうつりそうだ。
「……そんな顔をするくらいならば、あの娘と婚約を破棄しなければよかったでしょう?」
「脅されていたとはいえ、罪を犯した女性が国母になることは許されないだろう。……私自身が彼女の行動を罪と思うかは、別として」
紅茶に目線を落としたまま、ヨハネスが言った。
「……それに父上に恩恵を受けていた貴族が、レッドグライブ伯爵令嬢を逆恨みしないとも限らない。実際に、大貴族が優先されて何が悪いと思う貴族は多いようだ」
この事件を受けて、現国王は王位を退くことになった。
英雄をあそこまで追い詰めた王家に対する不信や、知らなかったこととは言え、彼の妻子を死に追いやる手伝いをしてしまったこと――本当に知らなかったのか、と貴族の間でも疑問の声が多くあがった――ことは、勿論影響として大きかった。
しかし退位の決め手は、大公に脅されて王太子に毒を盛っていたリリーの存在だ。
品行方正で名高かったリリーが、脅迫される原因となった水害と食糧難。
あの時、食糧が逼迫している地域よりも、国王と懇意にしている貴族の領地へと、優先的に食料が回されていたことが決定打になった。
ヨハネスが調べて暴いたそれがきっかけで、リリーの減刑が認められたと同時に、国王の退位も決まったのだった。
「誠実な者も甘い汁を啜っていた者も、どちらも王家への不満を持つことになった。……しばらくは混乱するだろう。半人前の私では、彼女を悪意の視線から守りきる自信がない」
「そうよね。お前は自分のことさえ守れなかったものね」
「う……」
ヨハネスがうめいて、両手で顔を押さえた。
「…………その、的確に人の弱点を突く才能は何とかならないのかと思っていたが……裏を返せばお前はそれだけ人をよく見る観察眼も想像力もあるのだろう。……伯父上の言うとおり、お前が王位につけば全て丸く収まるかもしれないな」
「絶対に嫌よ」
「言うと思った。まあ私も、お前に王位を任せたら即戦争が起きそうで怖い」
そう言いながら、ヨハネスが手元の紅茶を一口飲む。
「……父上は、君と違って人の痛みや苦しみにひどく鈍感で、気づかない種類の人間だ」
そう続け、自嘲気味に「そしてそれは私も同じだ」と薄く笑った。
「……リリーを望めないのは、心から愛していた女性の苦しみにも気づけなかった己の鈍さもある。こんな私では、彼女の夫に相応しくない。何より彼女は私の妻にはなりたくないだろうしな……」
「お前、いくら事情があろうと自分を殺そうとした女への過大評価が過ぎるのではなくて?」
少し呆れた。
もしも自分が同じことをされたら、多少の地獄を見せなければ気がすまない。
リリーに心酔するようかけられていた魔術を解かれてもなお、ヨハネスはリリーを心から愛しているらしい。そもそもそこまで心を許していなければ、ヨハネスは女性からの贈り物は――菓子も含めて、受け取ることはなかっただろうが。
「そういえば、昔からお前は女の趣味が悪かったわね……」
ふう、とヴァイオレットがため息を吐いた。
「きっとこれからもあんな風に、清純の皮をかぶった虎のような女に騙されるのでしょうね……」
「見た目も中身も虎のような女に言われたくないが」
忌々しそうにそう言ったあと、しかしヨハネスは一瞬沈黙をし「……悪かった、ヴァイオレット」と言った。
「私とお前の距離が開く前、お前に蜂蜜を贈ったろう。風邪をひいたお前が喉が痛くて何も食べたくないと癇癪を起こしていたと聞き、思いついたのが蜂蜜だった。全てを知った今、伏せってるお前に酷なことをしたと思っている」
「……」
「それなのにあの時、大人気なく怒って悪かった。ごめん、ヴァイオレット」
そう真剣に謝るヨハネスに、ヴァイオレットは眉をひそめて「私も少しは悪かったわよ」と言った。
世話の焼ける兄のような男だが、彼もヴァイオレットの世話をそれとなく焼いてくれていたことは知っている。
「想像力が自分に足りないと気づいただけで、お前も少しは進歩したのではなくて」
「ヴァイオレット……」
「まあ、王になってもお前はぼんくらなのでしょうけれど」
――でもまた死にかけたら、助けてやってもいいわよ。
そう言うと、ヨハネスが「ありがとう」とふっと笑った。
◇
「ヴァイオレット」
部屋から出ると、クロードに声をかけられた。
「クロード。お前、今日は非番なのではなかったの? ……ああ」
正装姿に豪華な花束を持ったクロードを見て、おおよそを察したヴァイオレットの唇が弧を描く。面白いものを見つけてしまった。
「まあ、クロード。殿下があのようにお心を痛めておられるというのに、お前という人間は。少しは主人の傷心にも配慮するべきではないの?」
「ぐ……俺もそれは、散々悩んだ。時期尚早だとも思う。しかしこれは殿下からの提案でもあるし…それに、君もソフィアの噂は知っているだろう?」
「もちろん。早く手を打たないと、一刻の猶予もないと思うわ。あの娘、押しに弱そうだもの」
「やはりか……!」
クロードが頭を抱える。そんなクロードに「まあ良いじゃない」と微笑んでやった。
「うまくいかなかったその時は、仕方がないからこの私が結婚してあげてもよくてよ」
もちろん、そんなおぞましいことはしない。
ようやく婚約者候補からこの男が外れてくれたと言うのに、流石に嫌がらせのためにこの男と姓を共にする気はなかった。
「ソフィアはきっと笑顔で祝ってくれるでしょうね。『わあ、ヴァイオレットさまとクロードさまもご結婚ですか……!? おめでとうございます! なんだか嬉しいですね……!』と」
「やめてくれ……想像ができすぎる……」
うめくクロードを見て、とりあえず今はこのくらいで止めてやることにした。
どうせこのあと、からかいのネタがたくさんできるはずだ。
「冗談よ。さあ、行きましょうか。今日だけは一緒に歩くことを許してあげるわ」
「君は絶対に来ないでほしいのだが」
クロードの言葉はさくっと無視して、ヴァイオレットは歩を進めた。
次話が1章の最終話です。
20時に予約投稿しています。