あなたの負けよ
クロムウェル・グレースヒンメルは、確かに失意と絶望のうちに王位継承権を辞退し、この不毛の北の地へと引きこもった。
ただ、その時の彼にはただ一つ救いがあった。
愛する女性との結婚を許されたことだった。
花が好きな人だった。北の地に追われた彼に「あなたがいればいいのよ」と笑い、宝石やお金よりも魔術で咲かせる珍しい植物を喜ぶ人だった。
花のようなその人が、新しい命を授かったとき。
王太子となった弟と妹のオリヴィアが、たくさんの祝いの品を持ってやってきた。
◇
「兄上。義姉上のことは、本当に……本当に申し訳なかった。まさかあのようなことになるとは思わなかったんだ」
絞り出すような声で陛下が言った。
「北の地にいる義姉上が懐妊したのなら、体を温めねばならぬだろうと。そう言って父上は特別な茶葉を用意した。父からだと知ったら、きっと兄上は受け取らない。私たちはそう思って義姉上にだけ『父からだ』と言って渡してしまった」
そう言って陛下が、「……まさかあれが、子が流れる毒だとは思わなかったんだ」と目を赤くする。
申し訳なかった、と繰り返す陛下に、大公が激しい剣幕で口を開いた。
「私を嫌い抜いた父上が、私の子の誕生を喜ぶと思うほど、お前は愚かだったのか?――そんなわけがないだろう! あの時お前の妻にも懐妊の兆しが見えていた。本来であれば国王になるはずだった私の子が生まれたら、王位継承権に影響する。お前は、そう思ったんだろう! 王位につかなければ、こうして何もかも奪われ、踏み躙られてしまうからな!」
「違う! 私とオリヴィアにとっての父上は……悪魔のような人ではなかったんだ……」
涙声の陛下に、大公が「そうか」と冷たい声音で言い放った。
「――子を亡くし心を病んだ妻は、それでも亡くなる最期の時までお前たちのことは言わなかった。間抜けにも私がそれを知ったのは、父王の葬儀の時。……苦しみを味わわせられなかったのが、今でも心残りだが」
きっと、あの老いぼれは今頃地獄の底で悔しがっていることだろう、と大公は笑った。
「――次代の王は、ヴァイオレットだ。あの老いぼれが忌み嫌った魔力持ちが即位する。そのために、お前が可愛がっていた妹や息子が殺される気分はどうだ?」
「兄上……」
うなだれた国王陛下が、必死で大公に「お願いだ」と懇願する。
「どうか、お願いだ。ヨハネスや他の者には手を出さないでくれ。……私が悪かった」
「――私は、その顔が見たかった。後悔に苦しむ顔が」
国王の言葉にそう静かに呟くと、大公が私の首元に当てている手とは反対の手を、殿下にかざした。
「だが、本当に悪いと思っているのなら、お前も子を亡くさなければならない」
「――お願いだ、やめてくれ!」
「王位につかないものは踏み躙られても仕方がないのだと、教えてくれたのはお前の父だ」
そう言って大公が、何か呪文を唱え始める。
あまりに残酷な話に絶句していた私は、その声にハッとして、もう一度震える左手を握った。
――それでもやっぱり、いえ、だからこそ殿下を亡くすわけにはいかない!
大公に応戦するように呪文を唱え始めたヴァイオレットさまや、殿下を守るように立つクロードさまに意識を向けたところで――私はビタビタの実をいっぱいに握りしめた左手を、大公の口めがけて押し付けた。
「ーーっ! ガ、ハッ……!」
小さな実の一欠片でも、痛いほどに苦いビタビタの実だ。
さすがの大公も悶絶して激しくむせ、私はその隙をついて大公から離れ、無我夢中でクロードさまやヴァイオレットさまの近くに駆け寄った。
すかさずヴァイオレットさまが大公に向かって呪文を唱えると、美しい魔法陣が浮かび上がる。そこから大公の元へと、稲妻が迸った。
しかし顔を歪めている大公が手を払う。その稲妻が小さな粒となり、ばちばちと容赦なくあたり一帯に降り注ぐ。当たったら感電するのだろうか。怖すぎて、頭を抱える。
周りに当たることを避けたのだろう、ヴァイオレットさまが舌打ちをしてその魔法陣を消した。新たな呪文を唱えようとした時――私の足元が、凄まじい速さで氷漬けになっていく。
「――ソフィア!」
「うわ、冷たっ……え、あ、熱っ! 熱いです!」
ヴァイオレットさまが舌打ちをして、私の足に燃え盛る炎をぶつける。それでもなかなか溶けない氷に、服が焦げる匂いを嗅ぎながら私は半泣きになっていた。
そんな私に気を取られたヴァイオレットさまの右半身も、凍っていく。
「隙が出ている、ヴァイオレット」
まだ顔を顰めたままの大公が、殿下に指先を向けた。金色の閃光が殿下に向かって迸り、それをクロードさまが剣で弾き返したけれど、大公は「二度防いだら、その剣も持つまい」と言い、また閃光が放たれた。
クロードさまが弾き返したけれど――やはり剣は、音を立てて壊れてしまった。そんなクロードさまに微笑を向けながら、また指先を向ける。
「――もうやめて、やめてください!」
その時、先ほどまで座り込んで震えていたリリーさまが、大公の腕にしがみつく。放たれた閃光は斜め上に飛び、大公は腹立たしげに腕を振り払い、リリーさまを突き飛ばした。
「っ、離せ!」
大公がリリーさまを突き飛ばす。その瞬間、彼の体に巨大な鎖が何十にも絡みついて――重さに耐えきれないとでも言うように、彼の体が崩れ落ち、地面に膝をついた。
「――あなたの負けよ。クロムウェル・グロースヒンメル」
淡い金髪を風に靡かせ、ヴァイオレット様がそう言った。
「よくもまあ、ここまでこけにしてくれたものだわ」
ギロリと大公を睨みつけるヴァイオレットさまは、冷ややかな怒りに燃えていた。





