これは。絶対に。気づかれてしまった……。
ひええっ……怖……。
ヴァイオレットさまが世にも恐ろしい微笑を浮かべている。
恐ろしい言葉に震え上がってリリーさまをちらりと見ると、彼女はやや青ざめた表情でヴァイオレットさまを――いや、ヴァイオレットさまと私を、交互に見比べていた。
その時、「大丈夫か!?」と焦ったような声と、バタバタと駆ける足音が聞こえてきた。声のする方を見ると、殿下とクロードさまがこちらに向かって走ってきているようだ。
声の主は殿下だった。
悪女二人に囲まれているリリーさまが心配になって駆けてきたのだろう。――体調も、辛いだろうに。
「……あの男、節穴のくせにこういうところだけ早いのよね」
いつの間にか私の隣に来ていたヴァイオレットさまが、私にしか聞こえないような小声でそう言った。節穴と呼ばれたあの男とは、まさか殿下のことだろうか。不敬がすぎる。
「仕方ないわね。お前、気をしっかりなさい」
折角私が磨いてあげたのだから、汚したら承知しないわ――。そんな小さな声と共に、ヴァイオレットさまが私の腕に触れて。
その途端、目の前がぐるぐると回る。意識が無理に引っ張られるような強い浮遊感に、思わずぐえ、と変な声が出そうになる。
――う、気持ち悪い……!
そう思った瞬間体がまた急に重くなる。よろけて倒れそうになった瞬間、何かが私を抱きとめた。
困惑したような顔つきのクロードさまだった。
私自身も混乱しながら「ありがとうございます」とお礼を言って――懐かしい自分の声に驚いて、思わずクロードさまの顔を見る。
彼の目に映っている私は、紛れもなく私――ソフィア・オルコットの姿だった。
「えっ……」
動揺してヴァイオレットさまの方を見ると、彼女は優雅な、何もなかったかのような顔をしていた。
しかし自分のお腹のあたりに目を向けて――今までで一番殺気のこもった瞳を、私に向けた。
ひゅっと息を呑む。
これは。絶対に。脂肪に気づかれてしまった。
クロードさまがヴァイオレットさまの視線を諌める声が聞こえるけれど、これに関しては完全に私が悪いので謝るより他に生き延びる手はないはずだ。
土下座しよう。そう思って息を吸った瞬間、殿下の少し困惑した声が聞こえた。
「……ヴァイオレット。なぜオルコット伯爵令嬢をそのような目で睨んでいる」
リリーさまの顔を覗き込み、彼女を気遣っていたらしい殿下も、ヴァイオレットさまの私への怒りように気づいたようだった。
「お前には全く関係のないことよ。――私は今、この娘に用があるの。お前にもその女にも用はないのだから、さっさと行きなさい」
「……その無礼な物言い。ようやく演技をやめたのか。気味の悪さが薄らいだな」
不快そうに表情を歪める殿下は、恐怖で泡を吹きそうな私の顔をチラリと見て、残念な生き物を見るかのような表情を見せた。
「……怯えているじゃないか。従兄として、お前に追い詰められている女性を見過ごすわけにはいかない」
「あら、これが追い詰めているように見えるのならお前の目はやっぱり節穴ね」
いえ、殿下の目は正常だと思います。
そう言いたいけれど言えないまま、私は賢明にも口をつぐんだ。
「節穴ついでにもう一つ教えてあげるわ。お前の可愛いその女、少し顔色が悪いのではなくて? 早く休ませてあげた方が良いのではないかしら」
そう言うヴァイオレットさまを睨め付けながら、しかし殿下が心配そうにリリーさまに目を落とす。
「殿下。ヴァイオレットと……オルコット伯爵令嬢には、私がついております。次に何か問題を起こした際にはまた投獄となる旨も、ヴァイオレットは知っています。何かありましたらすぐに捕らえますので、ご安心を」
「……わかった。頼む」
殿下がクロードさまの言葉に頷き、ヴァイオレットに「くれぐれも没落などさせないように」ときつい言葉を投げつける。
没落などさせないように、という注意の仕方を初めて聞いた。
まあ、もう没落しかかっているみたいだけど……。
そんなことは言えるわけがなく、私は「何かあったらクロードと、私に頼りなさい」と言う殿下に頭を下げたのだった。
◇
場所を変えて、私の部屋にきた。いや、元ジュリアの部屋と言ったほうが良いかもしれない。
何故かはわからないけれど、日当たりのよい広い清潔なこの部屋が、私の部屋になっているようだった。意味がわからなすぎて二度聞きしてしまった。
突っ込みたいところは色々とある。
この部屋のこととか、私の社交界デビューなのに、私はホールにいなくて良いのだろうかと言うことや、侍女の仕事であるお茶汲みを、ジュリアがギリギリと奥歯を噛み締めながら――それでも私の方を見ては少し怯えたような仕草で、完璧に美味しいお茶を淹れてくれることだとか。
しかし、今はそれどころじゃない。
お茶を淹れ終えたジュリアが部屋から出ていくと、私はお怒りのヴァイオレットさまに、「申し訳ありません」を繰り返していた。
「――たった、三ヶ月。たった三ヶ月で、どうしてこうも豚のように肥えることができるのかしら」
「申し訳ありません……」
「この私が野良犬のようだったお前をそこまで整えてやったというのに、お前という人間は」
の、野良犬……。
「よくもまあこの高貴な体を、こうも損なうことができるのね。この短い爪は何なの。気品が指先に宿ることを知らないの?」
「申し訳ありません……………」
「――ヴァイオレット。いい加減にしろ」
ヴァイオレットさまのお叱りに縮こまる私を見て、クロードさまが鋭い声を出す。
「彼女が太ったのは俺のせいだ。責めるなら俺を責めろ」
クロードさま……!
何という男前な方だろう。しかしながら、こんなに恥ずかしく居た堪れない庇い立てがあるだろうか。
ヴァイオレットさまが太ったのは、ダイエットなんて気にすることなく毎日三食を完食して、おやつと軽食まで食べきっていた私のせいである。毎日おやつの時間を首を長くして待ち望んでいたのだ。
そんな私の葛藤は気にせず、クロードさまはキッとヴァイオレットさまに怒りのこもった眼差しを向けた。
「しかしそれよりも、まず先に君の勝手で振り回されたソフィアに、謝罪と説明をするべきだ。君の代わりに投獄され辛い思いをした彼女に、何故謝罪も労いもない」
クロードさまが、怒っている。その怒りように驚いて顔を上げた。
怒った姿は何度か見たことがあるけれど、ここまで怒る様子を見たのは初めてだった。
「言っておくが俺は、君の入れ替わりをこのまま黙っているつもりはない。君にはきっちり塔に入る筈だった三ヶ月分と――無実の彼女を、突然自分の身代わりとして塔に放り込んだ罰。それはきっちりと受けるべきだ」
「……けれどお前は、まずはこの私の話を聞くことを選んだ。そうでしょう?」
クロードさまの怒りように全く動じず、ヴァイオレットさまは唇を持ち上げた。
「――お前の思う通り、私がこの小娘と入れ替わったのは節穴ヨハネスに毒を盛った人間を見つけ出すためよ」
ヴァイオレットさまの言葉に、私とクロードさまは同時に息を呑み目を見開いた。
そんな私たちを見て、ヴァイオレットさまは面白くなさそうに「あら、随分仲が良いのね」と片眉をあげる。
「…………岩より硬い石頭のお前が、まさか入れ替わりを信じるとは思わなかったわ。……種明かしをして、怒りや罪悪感で内心でのたうち回るお前の顔を見ることを楽しみにしていたのに」
まったく、楽しみを奪われたわ。
そう不快そうに眉をひそめるヴァイオレットさまは、やっぱり悪魔のようだな……と少しだけ思った。