この塔から出たくない……
いつものお昼の時間よりも十五分ほど早く、クロードさまはやってきた。
「どうされたんですか?」
急いできたのか、心なしか息が上がっている。後ろ手に何か花束を持っているようだけれど、視線を向けた瞬間、私の視線を遮るように、花を持つ手を背中の方に動かした。
お花は意外と薬に使えるものも多いので、もしかしたら私に強奪されると思ったのだろうか……とちょっと切ない気持ちになりつつも、いつもより強張った表情のクロードさまに首を傾げた。
「気分が落ち着くようなお薬でもお出ししましょうか? ちょっと辛いですけれど、試作品ながらうまくできたカプセルがあるので……」
「……いや、大丈夫だ」
そう言いながらも、やっぱり顔色は優れない。しかしクロードさまはもう一度大丈夫だと言って、また口を開いた。
「殿下から君へいくつか伝言を頼まれている。……今、話しても?」
「殿下から? もちろんです」
「ああ、その前に……殿下が、君のミルクはよく眠れる他に体の痛みが軽減されたと言っていた。あれはよく効くんだな」
「体の痛み?」
驚いて思わず声を出す。殿下に体の痛みがあったことも初耳だったけれど、何よりあのミルクは快眠や精神安定作用が主な効能になる。鎮痛作用はないとは言わないけれど、ごくごく僅かだ。軽い頭痛が消えるかどうかも怪しい。
「殿下は体の痛みがあったのですか? どのような痛みで、他にどんな症状が……」
「それに関してはあまり詳しくは語れないが……後でまた、話をさせて欲しい。それよりも、本題に入ろう」
そう言ってクロードさまが、真剣な、何かを見定めるような目を私に向けた。
「君は予定通り、二ヶ月半後に釈放される」
「まあ……そうですか……」
わかってはいたことだけれど、とても悲しい気持ちで肩を落とす。
「ここから追い出されるのはとても悲しいですが……仕方ありませんよね」
「ここにいるのが君の罰なのだが」
「それはそうなのですけど、ここから出たらもうクロードさまにおはようとご挨拶することもなくなりますし、寂しくなります……」
もうあの美味しい食事たちに出会うことはないのだ。チョコレートももう味わうことがない。そう気落ちしている私を見て、クロードさまが何故か天を仰ぎ数秒目を瞑る。
そして気を取り直すように首を振り、また淡々と口を開いた。
「それから、公爵邸より連絡がきた。オルコット伯爵邸にて舞踏会が開かれるらしい。なんでも今まで社交界には顔を出さなかった長女が社交界デビューをするのだと。参加するならば俺を供につけろと、殿下から命令が下った」
「!!!!??????」
全く予想していなかった言葉に、言葉にならない言葉が出る。
「オルコッ……オルコット!? 長女と仰いましたか? 次女ではなく? ソフィア・オルコットですか!?」
「あ、ああ……」
「そ、そんな……!」
もしも入れ替わったのならば、確かにヴァイオレットさまが私の体に入っているはずで。だけど私の体である以上、きっと悪いことはできていないだろうな、大丈夫かな、この塔の中にいるうちは魔術的な何かが使えず、入れ替わりが解消できないのかな……そう、思ったりしていたのだけれど。
社交界デビュー。一体どうしてそんなことに。
あまり信じたくない事実にあわあわと震える私に、クロード様が「どうしたんだ」と狼狽する。
「オ、オルコットの長女は人が変わったようと言われていませんか!?」
「いや……最近顔を出し始めたそうだが、噂通りのご令嬢だと聞いている。ああしかし……ご家族がかなりやつれたと聞いたような」
「!!!!???」
ヴァイオレットさま、凄すぎでは!? あの状態から!? どうやって!?
生まれながらにして人の上に君臨するヴァイオレットさまの底力に心の底から慄きつつ、私は「この塔から出たくない……」と崩れ落ちた。
「!? ヴァイオレット!? ど、どうした!?」
クロードさまが慌てて私を抱き起こそうと手を伸ばす。彼が手に持っていた絢爛な花束が見え、私は(わあお花がきれい……)と現実逃避をした。
◇
「落ち着いたか?」
「はい。大変ご迷惑をおかけして……」
クロードさまが淹れてくれた紅茶を飲み、私はほうっと息を吐いた。驚きすぎてとんだ醜態を晒してしまった。私の人生の生き恥は、全部クロードさまに見られているような気がする。
「一体、どうしたんだ?」
「え、えっと、あの…………久しぶりの舞踏会、緊張するなあと……?」
「……そうか」
咄嗟にそう誤魔化すと、クロードさまが固い表情で深く何かを考え込んでいる。もしかしたらこれは久しぶりに「下手な演技をやめろ」と言われるかな、と懐かしさすら感じていると、彼は意を決したように手に持っている花束を私に差し出した。
「……レッドグライブ伯爵令嬢から、君に贈りたいと申し出があった」
「え? 私にですか?」
驚いてその花束を受け取る。真っ白で華やかな、ピオニーという名前の薔薇に似た花に、少し不釣り合いな野花であるアザミと、すみれの花がアクセントとしてまとめられていた。
「わあ、すごい……! どれも冬に咲くお花ではないのに、どうやって手に入れたんでしょう」
まじまじと花束を見る。どれも春から夏の終わりにかけて咲くお花だ。季節はまだ、冬なのに。
「ありがとうございますと、リリーさまに伝えてくださいますか?」
平手打ちをし土下座をさせた私に、リリーさまはなんという優しさを見せるのだろう。ジュリアのいう通り本当に天使だなあとほくほくする。いずれ何か、お礼を差し上げたいし、どうやって季節の違うお花を手に入れたのかもお聞きしたい。
「お花っていいですよね。綺麗で食べれて薬にもなって。この華やかなピオニーというお花は、異国では医薬の神の象徴とも呼ばれていますし、それよりもずっと遠い東の方の国では花の中の王者とも呼ばれているんですよ。あ、ピオニーの花は飾るだけですけれど、根は女性に優しい効能がたくさんあります! それにこのアザミは育毛剤にもなって……」
私がまた、つい効能について熱く語っていると、心なしか顔色を青くしているクロードさまが静かに口を開いた。
「……君は、その花が気に入ったのか? すみれも?」
「? もちろんです! 私の目の色と一緒ですし」
それより、やっぱり今日は顔色が悪いのでは。
そう言おうとした私は、次の瞬間――またもや驚きに目を剥いた。
クロード様が何故か私の前に跪いたのだ。
「えっ、ちょっ、クロードさま!? 一体何が……!」
「心から謝罪する。俺は何の咎もない君に、なんという事を」
「えっ?」
絶対私に土下座をしないだろうと安心していたクロードさまの奇行に若干泣きそうな私に、クロードさまが跪いたまま、何かを悔いるような表情で真っ直ぐに質問を投げた。
「そして、ひとつ聞かせて欲しい。今俺の目の前にいる君は――、誰だ?」