教皇猊下
「――私の父は、重い病気に罹っていました」
震える声でノエルさんが告げた病名は、まだ治療法が確立していない不治の病だった。
全身に骨に響くような強い痛みを感じる。その激痛は大の大人でも耐えきれないもので、治療法もない中で薬師にできることは、痛みを取り除くため鎮痛剤を処方することだけだった。
「けれど、安全性が確立された強い鎮痛剤は、高価です。父は痛みから逃れるために飲酒をするようになりました」
以前落ち込んだ私のために、ナンシーさんがお酒を提案したとき、真剣な顔で「精神的に追い込まれた時の飲酒は危険です」と止めてくれたことを思い出す。
あの時の真剣な表情と今のお話から、お酒はノエルさんのお父さまや、ノエルさんを含めた家族の誰もを救わなかったのだろうと、察することができた。
「飲酒を止めるために、私は薬師の勉強を始めました。より強い鎮痛剤を作る内に最終的には麻酔薬に至り、痛みから逃れたがる父に乞われるまま投与しました。……たとえばソフィアさんがこの状況下に置かれたら、諦めずに必死で治療法を探したでしょう。その治療法が見つからなかったとしても、鎮痛剤は適量をお渡ししたと思います」
「……」
「しかし私はそのどちらの方法も選ばなかった。生きるために戦うお薬ではなく、楽に死ぬための薬を作り続け――父は、宣告された余命の少し前に亡くなりました」
その淡々とした口調から、ノエルさんがどれだけの罪悪感を覚えたのか肌で感じた。
薬師として生きると決めたのなら尚のこと、きっとその意識は今もノエルさんを苦しめるのだと思う。
「父の寿命を縮めた私は、いずれ必ず地獄に落ちるだろうと思いました。――そんな毎日の中救いを求めて、叩いたのが教会の扉です。神父さまに懺悔し信徒として過ごす毎日の中で大聖堂への出入りを許され、そうしている内に教皇猊下へのお目通りを許されました。……ソフィアさんは、ルターリア教の外典をご存知ですか?」
「え?……はい、簡単な内容のみですが」
先日ルーナちゃんと一緒に読んだ児童書が、ルターリア教の外典だった。
この世を滅ぼそうとする悪魔を、英雄である男性が封じ込めるというお話だ。
人々を癒す力を持った花の女神に傷を癒されながら戦ったその人は、不死の祝福を授かったのだという。
「あの外典は、事実なのだそうです。――現在教皇猊下として表に出てらっしゃる方は本当の猊下ではなく、はるか昔に神の祝福を受けて不死になった方が、いらっしゃるのだと」
「え……?」
「教皇猊下のご指示を受けて、神の教えの通り動けば、教えを忠実に守る信徒として認められれば本当の猊下に拝謁でき、父は天国で、最上の幸福の下、安らかに眠れると……」
「……ノエルさん……?」
にわかには信じがたいお話だった。
けれどノエルさんの震える声音や青ざめた顔、辛そうな表情から、少なくともノエルさんは本当にその言葉を信じているのだと、そう悟った。
(背後にいらっしゃるのは、教会だったんだ……)
ディンズケール公爵家は、代々国教の敬虔なる神の信徒なのだという。
ヴァイオレットさまが、ディンズケール公爵閣下が黒幕であることを否定したのは、文字通り『黒幕』ではなかったからなのだと、ようやく知る。
(……だけど、そこでどうして私が?)
ノエルさんを使って、明確に私を攫った。ディンズケール公爵が私に結婚を強要したのと、何か関係があるのだろうか。
(まさか私を攫って、誰かと無理やり結婚を……?)
けれど、今の私はヴァイオレットさまの体だ。
強制的に結婚をするには些か問題がありすぎると思うのだけれど、もしかしたら脅迫されてしまうのだろうか。
(――いえ、そもそも結婚が目的じゃなかったのかもしれない)
その目的は私が作る薬にあるのかもしれないし、もしくは一緒に見極めたと入れ替わりが実在するかも見極めたかったそうだし……だめだ、わからない)
必死で考えていたとき、薄暗い部屋の扉が開かれる。
入ってきたのは、たった今考えていたディンズケール公爵だった。
「……ディンズケール公爵閣下」
「やあ、オルコット伯爵令嬢。……思ったよりも悲壮な顔はしていないようだが。驚いていないところを察するに……全部話したのか?」
ディンズケール公爵の目が、ノエルさんに向けられる。怯えるように肩を跳ねさせたノエルさんを「ああ、問題はない」と宥めるように、優しい声を出した。
「君の信心は疑ってはいない。むしろある程度話してくれた方が、こちらとしても説明が省けて助かる。――オルコット伯爵令嬢には、本当の猊下の元へと案内しなければならないからね」
「……本当の、猊下」
「そんな奇妙な顔はしなくてもいい。……百聞は一見にしかずだ。さあ、一緒に行こう」
ディンズケール公爵が機嫌良く、私に手を差し伸べる。
「…………」
精一杯の抵抗のため、眉を寄せて一人で立ち上がる。そして無表情ながら、目に悲痛さを滲ませているノエルさんに目を向けた。
「話してくださって、ありがとうございました」
「……っ」
ノエルさんのお話に、思うことはたくさんある。言いたいこともたくさんある。
(だけどそれは……どうにかして、絶対に後から伝えよう)
眉を寄せたままの失礼な表情で、ディンズケール公爵に目を向ける。
ありったけの抗議を込め、キッと見据える。そんな私に、ディンズケール公爵は勝利を確信したような表情を浮かべていた。
◇◇◇
どうやらここは、地下だったらしい。
部屋から出ると、そこは窓一つない廊下――道だった。
地下特有のひんやりとした空気の中、目の前を歩くディンズケール公爵の後ろを、むっとした表情で歩いていく。
私の後ろを歩くのは、ノエルさんだ。
ディンズケール公爵がこちらを振り向きもせずに歩いているのは、教会の指示に従わなければならないノエルさんがいる限り、私が逃げることはないという確信によるものだろう。
それからこの長い道を光源もなく歩くのは不可能という、純粋な事実もあるはずだ。
ディンズケール公爵の持つ微かな蝋燭の灯りだけを頼りに、真っ暗な道をとにかく進む。
進んで歩くうちに、先ほどから匂っている腐臭のような匂いが、少しずつ濃くなっていった。
本能で感じる恐怖にへっぴり腰になりかけながらも頑張って背筋を伸ばしている間に、目当ての場所なのだろう扉の前にたどり着いた。
「ここにいらっしゃるのは、奇跡のお方だ。けして、粗相のないように」
そう言いながら、ディンズケール公爵が扉を開ける。
(……!)
腐臭――いや、死臭がする。
微かな光しか差し込まないその空間に、その方はいた。
その場所は、かつてヴァイオレットさまが高い高いをしたというその高さよりもはるかに天井が高かった。
地下だから窓はないと思いきや、その高い天井の付近に小さな窓がある。
そこから差し込む微かな光が、豪奢な寝台に横たわるその方を、淡く照らしていた。
(……!)
息を呑む。そこに臥しているその方は、まるで生きながらにして死んでいることを感じさせるような状態だった。
おそらく肌は、岩のように硬いだろう。しかし表面は、木の枝のように枯れている。
そうかと思えば別の部分は腐りかけ、死臭のような匂いが漂っていた。
この症状に近いものを、私は見たことがある。
(それよりもずっと、ずっと酷いけれど……)
ルーナちゃんと、同じ症状だ。
もしも彼女の症状が悪化の一途を辿ったら、こうなってしまうのだろうと予想されるものだった。
「――……来たか」
言葉を失う私に向けてその方が、何重にもひび割れたしゃがれた声を出す。
「忌々しい、アーバスノットの末裔が」
唯一生気を感じさせる爛々とした瞳とその声には、はっきりと激しい憎悪が含まれていた。
「……!」
「教皇猊下だ」
思わず怯んで後ずさる私の退路を塞ぐように、いつの間にか背後にいたディンズケール公爵が言う。
「この国が誕生する頃から生きておられる」
「この国が、誕生する頃から……」
それは年月にして、約千年。
どう考えても有り得なかった。人間が、そんなに長く生きられるはずもない。
けれども目の前にいる方は私が今まで見たことがないほどに老いさらばえていて、千年生きていると言われると信じてしまいそうになる。
(だけど……もしもそれが本当なら、これは祝福なんかじゃない)
極限まで老いても死ねない。
それはどう考えても、呪いの類だった。
「一体、どういうことなのですか……?」
掠れた声での問いに、答えたのはディンズケール公爵ではなく教皇猊下と呼ばれた方だった。
「すべての元凶の末裔が」
吐き捨てるような声音と、憎々し気な表情だ。お義母さまや異母妹からでさえ向けられたことのない憎悪に戸惑っている私に、教皇猊下は淡々と口を開いた。