聞き分けのない駒
同時刻、エルフォード公爵邸にある自室で、ヴァイオレットは本を読んでいた。
「――なんてくだらない」
ちょうど読み終えた本を、乱雑にテーブルへと放り投げる。
ヴァイオレットのこの仕草をあの本好きの娘――といっても読む本は大抵薬に関するものだが――が見たら、目を剥いたあとぷるぷると抗議しそうだ。
いかにも怯えているくせに、自分の信念に反する行為には震えながら抗議するソフィア。
あれが臆病なのかはたまた神経が図太いのか単純に愚かなのか、ヴァイオレットは未だに計りかねている。
夜会で額を弾いた時の間抜け面を思い出していたその時、コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。
「ヴァイオレット」
父の声だった。「どうぞ」と答えると、数秒の間を置いて扉が開かれる。
「本を読んでいたのか? ……これはまた、随分と意外な本を読む」
入ってきた父が、テーブルの上に放り投げていた本に目を向ける。
それは国教であるルターリア教の外典だ。
大聖堂の教えが記された聖書とは別に書かれたこの外典は、ルターリア教が辿ってきた歴史が書かれているとされていた。
内容は実にくだらない。
世界を滅ぼそうとする悪魔――これのモデルは魔術師だと言われている――をとある女と神の信徒が協力して倒しただとか、その姿に信仰を認めた神が永遠の命を授けただとか、まともな思考回路を持つ大人なら、誰だって失笑するだろう内容だ。
聖書にも言えることだが、こんなものに感銘を受けるのは、よほどの間抜けに違いない。
あらゆる分野において最高峰の教育を受けてきたヴァイオレットは、もちろん神学だって学んでいた。そのうえで断言する。神の――ルターリア教の教えは、非常にくだらない。
こんなものは時の権力者が神の名を借り、大衆にこう動いて欲しいという都合の良い戒律を並べただけのものだ。人の上に立つ者として大衆を動かす方法としては非常に使い勝手が良いことは認めるものの、信じる気などさらさらない。
そんなヴァイオレットに、父が微笑を向けた。
「神の教えなどくだらないと言っていたお姫様が、一体どういう風の吹き回しだ?」
「この外典は読んだことのない新訳です。くだらないと断言するためにも、きちんと中身は見なければ」
「さすがだね」
ヴァイオレットの言葉に、父が頷いた。
「くだらないかそうでないか、まず触れてから判断することはとても正しい。それに内容の是非はどうあれ、こういった書物には時の権力者が刷り込みたい教訓や、実際の歴史が見え隠れする。改変改ざんは大いにあるだろうが、それを念頭に置いた上で知っておくことは教養としてとても大事なことだ」
父の言葉に、ヴァイオレットは肩を竦める。
ヴァイオレットと父は不仲というわけではないが、親しい親子というわけではない。
ヴァイオレットが好きに振舞うことを許容しながらも、公爵家の名声や評判はけして落とさない手腕は認めているし、母が亡くなった時に『あれは事件ではない』とヴァイオレットを説得しようとしたことも、理解はできる。
未熟だった当時はいざ知らず、今となっては責めるつもりは微塵もない。
「一体何のご用ですか? お父様」
それでも無駄話を嫌うヴァイオレットがそう言うと、父は少し苦笑して「用ということでもないんだ」と言った。
「ただ最近、我が家のお姫様の様子が気になってね」
そう言いながら、父が柔らかな微笑を浮かべる。
父がこういう笑みを浮かべる時は、何か隠したい感情がある時だ。
「昔、お前が茶会で陛下の口を手酷く塞いだことを覚えているかい?」
黙って父に目を向けていたヴァイオレットに、父が穏やかな口調で言う。
「……あの馬鹿のヨハネスが、『一の無礼を万で返すな』などと、この私に説教をしてきた時のこと?」
「そうそう。ははは、あの口の塞ぎ方は、さすがに私もお前の母様も肝が冷えたな……」
苦笑しつつ、何かを思い出したように遠い目をした父が口を開く。
「あの時母様が心配して言ったことも覚えてるかい?」
「……さあ、全然覚えてないわ」
肩を竦めて、ため息を吐く。
「だけど私は自分にとって有益な情報は、すべて覚えている自信があるの。覚えていない以上その心配は、私にとっては何の意味もないものだったのでしょう」
「そうか。お前は強い子だからね」
ヴァイオレットの言葉に、父がまた柔らかく微笑んだ。
「そうそう、先日はかわいい娘から久しぶりに頼み事をされて嬉しかったんだが――、お前が目をかけているあの子は、とてもいい子だね。少々世間を知らなすぎるきらいはあるが、聡明で善良で、素直な子だ。……とても危うい」
「……」
「あの子はね、いつかお前の助けになれるよう頑張ると言っていた」
眉が寄る。
そんなヴァイオレットの様子を見て父が、困ったように笑った。
「離れた方が良いと言ったんだけどね。……想像よりも頑固で前向きな子だったのかもしれない。けしかけてしまったかもしれないな」
それから二言三言交わし、父が出て行く。
椅子の背もたれに体を預け、ヴァイオレットは小さくため息を吐いた。
「なんて聞き分けのない駒なのかしら」
――夜会でのあの娘の様子からして、行くか行かないかは五分五分だと思っていたが。
「駒は駒らしく、引きこもって大人しくしていればいいのに」
顔を顰めて吐き捨てながら、ヴァイオレットはもう一度、テーブルの上に放り投げた本を睨みつけた。