第538話
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2017年7月12日午前9時21分。朝の歌舞伎町を歩く。規模の大きな繁華街が広がっていた。月井も普通の感覚じゃ対処できないものを相手している。この街の悪は散々見てきた。まさに欲望の塊である。昔からそういったものと正対していて、感覚が麻痺している側面もあった。仕方ないことなのだが……。
無線が鳴り、応答する。一課の捜査員は、頻繁に無線連絡してきていた。物騒な街を歩きながら、連絡を聞く。大事な要件なら即座に現場へと駆け付けるのだが、そうじゃない場合、後回しにしてもらう。
午前10時15分。自販機でアイスの缶コーヒーを一缶買って飲んだ。辺りの暑さはうだるようである。東京は連日酷暑だ。ビルの木陰で休憩する。毎年、7月は地獄のように暑気が回っていた。警察官も人間だ。熱中症などで倒れたら、元も子もない。
カフェインを取り、疲労を癒す。昔は歌舞伎町交番にコーヒーメーカーをセットし、たくさん飲んでいた。一つは眠気覚ましだったのだ。服用していた安定剤の副作用で、眠いことが多々あった。当時、精神科医の南雲が経営していた、新宿メンタルケア第二クリニックに何度か行ったことがある。しかるべき治療を受けていたのだ。
新宿は夜間の騒音がひどい。20年ほど前も、不眠気味だった。夜、仮眠を取ってもすぐに目覚めることが続いていて、違和感を覚えていたのを思い出す。治療で不眠は何とか治り、晴れて一課に配属となったが、ノイローゼは続いていた。缶に口を付けて傾け、飲みながらそんなことを思う。断片的な昔の記憶だ。
南雲は月井の不眠症や精神疾患の症状を見抜き、当時普及していた安定剤などの投薬をして、適切な処置を施した。藪医者なら、見過ごしただろう。思う。腕のいい、ちゃんとした医者に掛かって正解だったと。それだけ南雲は名医なのだ。こんな大都会で悩み苦しむ人間を助けられるのだから……。
午前10時32分。木陰を出て、歩き出す。また太陽に照らされ、肌に汗や脂が浮く。昼食の取れる正午まで頑張るつもりでいた。街は常に動いている。息吹や呼吸音が聞こえていた。大勢の人間がいる場所なのだから……。(以下次号)




