私のグリム先生
微かに揺れる薄い背中を眺めた。カタカタとキーボードを打つ音、何度も吐かれるため息。悩むように何度もかき乱された髪はあっちこっち好き勝手に跳ねまわっている。彼の左右にはいくつもの資料が山となり、そのうちのいくつかは雪崩を起こして床に散らばっている。
「先生、」
ほとんど呟くような私の呼び声に彼が振り向くことはない。サイズの合わない大きなヘッドホンを嵌めた彼にはきっと聞こえていないだろう。あのヘッドホンからは何の音もしていない。曰く、頭の中になだれ込む音と外から聞こえる音を分断するためだと。私にはその感覚がわからない。それはきっと凡人と天才の違いだろう。
「先生、」
返事をしてもらいたいわけでも、振り向いてもらいたいわけでもない。ただなんとなく呼びたくなった。それだけ。
何度か迷うようにキーボードと頭を行ったり来たりしていた両手がパッとキーボードに乗せられ軽やかに駆ける。何か思いついたのか、物語が頭の中でまとまったのか、先ほどまでの逡巡が嘘のように指先から物語が紡がれていく。私はそれをフローリングに座り込み、本を読みながら眺めていた。
小栗ムツ、といえば新人童話作家だ。大人気、というわけではないがデビュー当時からコアなファンが多く、静かにしかし確かにその道に根を下ろし始めている、手堅い童話作家。童話は童話でもアンデルセンやイソップなど、可愛い物じゃない。コンセプトは『大人の童話』で、グロテスクさや陰惨さが同居している。メジャーでもなく人気があるわけでもない狭い道、ジャンルである。それでも彼は世間から認められ、童話作家小栗ムツとして堂々と歩いている。
作家先生の本当の名前は、小栗潜。
彼と初めて会ったのは大学の時だった。のんびり楽しくやることがモットーな文学サークル。年に数回同人誌を作り、それ以外の時は駄弁ったり、物を書いたり、と。とにかく自由にやっていくそのサークルで小栗は酷く浮いていた。
「この程度のものを人の眼に晒すのか?」
心底信じられない、とでもいうように先輩に言ったその言葉のインパクトたるや。きっと一生忘れないだろう。のんびり自由に、そんなサークルに完璧主義な彼は向いていなかった。代えていうのであれば、彼は物語を書きに来ていて、他のメンバーは物を書き散らしに来ていた。見ているところどころか土俵さえもきっと違った。
いつかにサークルの中で進路の話をした。所属が文学部、ということもあり不透明な未来を皆無責任に適当に語っていた。一般企業、地方公務員、翻訳家、高校教師……、その中で小栗は一人「作家」になりたいといった。雑談でしかない意味のない会話の中で、彼だけが真剣だった。メンバーは彼を笑った。いい年して現実が見えていない。そんなものになれるのはほんの一握りだ。真面目に就活のことを考えた方が良い。そんな風に無責任に語る自分たちを棚に上げてみんな笑った。私も笑った。笑いたくなんてなかったけど、笑わなきゃ浮いてしまうとわかっていたから。笑いに晒されてなお、冗談だと誤魔化すでもなくただ無表情で手元の本に目を落とした彼が、歯を食いしばっていたことに気づいていたのは私だけだった。まるで鋭い刀で腹を切り裂かれるような気分だった。
小さなころから、少なくとも小学生のころから私は夢なんてものが言えなくなっていた。みんながアイドルになりたい、歌手になりたい、なんて子供らしい夢を語る中私は公務員になりたいと言っていたのを覚えている。私の中で夢を語ってはいけないと思っていた。できもしないことを語ってはいけない。現実に、地に足のついたものを語らなければならないと。物語を書くことが好きでありながら、私は一度だって作家になりたいと誰かに言えたことはなかった。
笑われてから、彼はヘッドホンを付けるようになった。確かその頃だった。笑われたことが直接的な原因かはわからないけれど、私にとってあれは凄まじい事件だった。
なんて声を掛ければよかっただろうか。なんて言えば、彼は歯を食いしばらずに済んだだろうか。何度考えても妙案は出てこなくて。私は酷く後悔していた。けれど同時にもしあの瞬間に戻れたとしても私は同じように笑うだろう。
気づけば彼に苦しいほどの憧憬を覚えていた。
堂々と恥ずることなく夢を語る彼が羨ましかった。誤魔化さずに生きていける彼の不器用さが眩しかった。彼の綴る物語は濃厚で息苦しいほどだったがめまいを覚えるほどに魅力的だった。
私は彼になりたかった。
それももしかしたら語弊があるかもしれなかった。私は彼に、あったかもしれない私の姿を見ていた。
もし私が、堂々と夢を語れたなら。もし私が周りのあざけりなどものともしない性格であったとしたならば。もし自分の書くものを信じられていたら。
私は彼のように、背筋を伸ばして、不要なものを削り落として、息のしづらいこの世界で立てていただろうか。
もしもの話より虚しいものはない。それは今まで私が生きやすくするために捨ててきたものなのだから。
半年ほどして、彼はサークルを辞めた。ある意味、当然だろう。彼はきっと文学サークルというものに期待していたのだろう。物語を書き、批評し、切磋琢磨できるような、そんな同じ穴の狢が集まったような場所を。しかしふたを開ければ、これだ。彼は一度だけ同人誌に寄稿し、辞めていった。
僅か半年の間だけだったが、私はこっそり彼に自分の書いた物語の批評を頼んだことがあった。サークルの中では批判というものがない。書けば書くだけ馬鹿みたいに褒めあう。そこにはなれ合いしかなく、向上心など小指の爪の先ほどもありはしない。それでも、私は必死に物語を書いていた。サークル内では上手だと言われていたがあてになんてならない。専業作家になれるとは思っていなかった。でも副業や、それか少しでも物語や本に関わる仕事に就けたら、と思っていた。今思えば浅ましいとしか言えないが、有体に言えば私は他のメンバーとは違う、と示したかったのだろう。私は本気で物語を書いてる。貴方を笑うつもりもない。そんな気持ちを一つの短編に乗せて、彼に渡した。
少しだけ驚いた風に目を丸くした後、黙って私の原稿を手に取った。無言の空間、恥ずかしさと緊張とで消えてなくなってしまいたくなった覚えがある。一分一秒が長くて、なんて言われるだろう、鼻で笑われるだろうか、苦笑いされるだろうか、罵倒されてしまうだろうか、それとも何か褒めてもらえるんじゃ……そんな妄想が浮上しては消えていく。それを何度繰り返しただろうか、原稿から彼が顔を上げて言った。
「話にならんな。」
あっさりばっさり、斬り捨てられた。鳩尾に鉄球でもぶつけられたんじゃないかというほどの衝撃。いや、予想をしていただけ幾分かマシなのだろうが。
それでも様々な意味合いを込めた渾身の短編に対して、あんまりな一言だった。悔しくて唇をかみしめそうになったけれど、格好悪い、といつものように誤魔化すように笑おうとした。だよねー。やっぱり才能ないよね。わざわざ読んでもらってごめんね。なんて、適当に言って。
「大体なんだこの主人公は。キャラクターが安定しない。こっちのキャラクターもそうだ。何のためにいるのか見えてこない。それと感情描写、比喩描写が下手。語彙力が足りてない。何より地の分の無駄が多い。必要のない描写が短編では鬱陶しいだけだ。」
つらつらと紡がれる言葉と共に原稿が突き返される。私の口から出るはずだった誤魔化しの言葉や薄っぺらな笑みは、一瞬にして行き場を失い消え去った。笑えるはずがなかった。本気で私の物語を読んで批評してくれたんだから。誤魔化せるはずがなかった。心からの言葉を私に向けているのだから。
彼の言葉には呆れがにじんでいた。けれどそこに馬鹿にするような、嘲るような色はなかった。それだけで私は、ひたすらに嬉しかった。一方通行と言われようと、自己満足だと言われようと。きっと彼からすれば私が書いたものも、他のメンバーが書いたものもどんぐりの背比べなのだろう。それでも彼は笑わないでいてくれた。
「……ありがとう、小栗君。」
「次はもっとまともなものを書け。」
じわじわと、鉄球を撃ち込まれたばかりの鳩尾が暖かくなる。礼を言った私を怪訝そうに見たが、今の私はきっと何が起きても何をされても耐えられる。
次も、読んでくれるんだ。
暖かな陽だまりによく似た嬉しさが胸に溢れる。緩みそうな口元を引き締めながら、私は扱き下ろされた原稿を受け取った。
結局、半年で姿を消した彼に、次の原稿を読んでもらうことはなかった。
私は大学を卒業し病院の事務職として勤務し始めた。小説家になっている、なんてことはなかった。何度かコンテストに参加した。どれも一次審査は通るのだけど、受賞まで辿り着くことはついぞなかった。趣味にしては良い線行ってる。でもそれ以上にはなれない。まさに私そのものの評価。本気で夢を目指すことができず、それどころか口にすることすらできない臆病者。それでも私は性懲りもなく物語を書いていた。作家になりたい、とは言えない。けれど物語を書かないではいられなかった。それはもう私の習性のようなものだ。書かなけば、死んでしまう。たとえ評価されなくても、上手くはなくても、書かなければ生きていけない。
それからくだらないことに、心のどこかで夢見ていた。いつか私の物語が誰かに拾い上げてもらえるんじゃないかって。いつか誰かに気に入ってもらえるんじゃないかって。いつかどこかで、あの正直すぎる、才能に溢れた彼の手元へ届いてくれるんじゃないかって。
大学を卒業してから一年ほどで、私は彼を見つけた。正しくは彼が生み出した子供を、なのだろうけれど。本屋でたまたま見かけた「新進気鋭の童話作家!」という煽り文に引かれ手を取り、中身をちらりと読んでみた。そしてすぐに気づく。これは彼の文だと。考える間もなくそれを購入し家に帰ってから読みふけった。学生時代のものよりも、深く繊細。けれど彼らしさが残っていた。本の著者は小栗ムツ。彼の名前は小栗潜だったけれど、この著者が彼であると確信した。
彼は笑われても、馬鹿にされても、自分の夢を叶えた。
何故か視界が滲み喉が熱くなった。嬉しいのか、悔しいのか、羨ましいのか、それともそのすべてなのか。憧れの人は、憧れの人のままだった。
衝動のままにペンをとって書き上げた短編はまさに話にならないものだったが、廃棄する気にもなれなかった。
住む世界が違う。もはや次元すらも違う。私は彼に気づいた。きっと彼が本を出すたびに私はそれを集めるのだろう。けれど彼は私に気づかない。何でもない、一介の病院事務職員。彼が気づくはずもない。
会うことなんてきっとない。いやそれどころか彼は半年間顔を合わせただけのつまらない小説を書く女のことなんて記憶の片隅にすらないだろう。ああ、サイン会が何かあるのであれば行ってみようか。一ファンとして。デビュー前の彼を知るという変な優越感でも持って。
人事異動で県外に出ることになった。とくに地元にいたかったわけでもないので快諾した。場所は隣の県。都会とはまるで言えないが、田舎でもない。そこそこに人がいて、そこそこにお店があって、そこそこに充実している、そんな街。不満などは何もなかった。
引っ越し先の粗品をもって、マンションの隣人の挨拶周りをする。ふと、隣にかけられた表札に「小栗」とあり目を奪われる。そして自分の見っともなさに苦笑した。小栗なんてどこにでもある苗字だ。隣人が私の知る小栗である可能性なんてきっと天文学的な数字に違いない。馬鹿馬鹿しくなってためらいもなくインターホンを押す。ベルが鳴り、扉の向こうから足音が聞こえた。
「……はい、」
「こんにちは、先日隣に越してきた、」
顔を見て、言葉が止まる。
相変わらずサイズの合わないヘッドホン。少し跳ねた髪。スッと伸びた背筋。眼の下の濃い隈。
見間違えるわけもなく、
「安藤……?」
先に呼ばれた名前に、再び言葉を失った。
まさか名前を憶えていてくれるなんて、顔を覚えていてくれるなんてまるで想像もしておらず、青天の霹靂というにふさわしい事態だ。混乱と戸惑いの中に確かな喜びがあった。
「先日隣に引っ越してきた、安藤千里です。よろしくお願いします、小栗君。」
いつものように浮かべた人当たりの良い笑み。でもこの時ばかりは心からの笑顔だった。
それから部屋が隣であることを良いことに、彼の部屋に入り浸ることに成功した。最初は「次の話」を読んでもらう、なんて口実を付けていたのだけど次第にそれもいらなくなって、合い鍵すら渡されるようになった。
彼の部屋は彼らしい部屋だ。無駄なものなどない。不必要なものの存在を許さないような場所だ。机の上は資料で無法地帯だが、そこ以外はいっそ生活感がないほどに片付いている。本棚には行儀よく本が並び、入りきらなかった本は床に片隅に並べておいてある。しかしそれ以外のものはない。
半ば押しかけ女房のようにこの部屋を訪れ家事をしたり勝手にくつろいでいたりしている。礼を言われたことはあるが文句は言われたことがないため、たぶん、問題ないのだろう。
ちらり、と友人に現状について話したことがあったのだが、恋人?と聞かれ私はあいまいにお茶を濁すしかなかった。
現状だけ言えば、恋人のように聞こえるかもしれない。状態だけなら半同棲といっても過言じゃないのだから。けれど私たちの間にそう言った甘いものはない。なかった気がする。
私は彼の物語が好きだ。彼の生きざまが好きだ。彼が、好きだ。
けれどその好きが、性愛のものなのか憧憬によるものなのかと言われれば憧憬の方がずっとしっくりくる。
彼もきっとそうだろう。私のことは嫌いじゃない。そうでなければ合鍵を渡したりしないし、仕事場に私をいれたりはしないだろう。
関係ははっきりしない。恋人かと言われれば、違う。好きです、付き合いましょう、といった契約をした覚えがない。
友人かと言われれば首を傾げる。友人で括るにしては愛しすぎている。
同級生かと言われれば違和感がある。私たちは私たち、学生時代の話はほとんどしない。
隣人かと言われれば異なる。隣人にしては距離が近すぎる。
物書き仲間かと言われれば座りが悪い。仲間なんていうには烏滸がましい
ファンと作家の関係かと言われれば疑う。それにしては親しすぎる。
愛しすぎて、現在を生きて、距離が近くて、差があって、親しくて。それでも私は、私たちの関係性を彼に問うことができていない。
何より、私は今以上にどうにかなりたい、どうにかしたいと思っていない。
私の仕事がないときに、彼の部屋を訪れ身の回りのことをしてやって、仕事をする彼の背中を眺めながら部屋で本を読む。たまに書いた物語を彼の元へ持って行って批評をもらう。脱稿して機嫌の良い彼と話をして。
穏やかで満ち足りた日常を送っている。これ以上何を望もうか。
しかしながら、それが私の悪い癖で。
満ち足りたふりをして、十分だと嘯いて、心の奥底深いところで、微かにそれ以上を望んでしまっているのだ。何か変えたいと、変わってしまいたいと思っている。
「ねえ、グリム先生。」
「何だアンデルセン。」
いつの間にかついた二人の間でだけのあだ名。もうくすぐったさもないままに呼ぶ。スランプを脱した彼の機嫌は、良い。
「書いたから、読んでくれる?」
いつもより少し長い短編を手渡す。どれだけ扱き下ろされても、私は彼からの言葉が欲しかった。どれだけの人からの批評よりも、彼からの言葉の方が私にとってはずっと重い。
彼が原稿を読んでいる間に、お昼ご飯を作ってしまおう。元気なうちに食べさせておかなければならない。一度集中してしまうとパソコンから離れない彼のことだ。しっかり食べさせたい。勝手知れたキッチンで動き回る私なぞ知らないように彼の眼は文字を追う。気を紛らわせるように何かをするのには慣れたが、初めて読んでもらった時からこの気恥ずかしさと緊張は変わらない。
心の準備とばかりにあらゆる罵詈雑言を予想する。今日はどのように罵られるのだろうか。ここのところは罵倒した後に多少のフォローが入ってる分、私も成長しているのだろう。今回は自信作だが、批評するのは彼だ。覚悟はしておいて損する物じゃない。
「アンデルセン。」
「……どうだった?」
びくびくしながら無表情な彼の顔色を伺う。第一声を待っている間もあらゆる妄想が降ってわいて消えていく。
「……悪くない。」
初めて聞いたその言葉は、微かに笑みと共に贈られた。
私の大好きな憧れの作家先生は、誰よりも私を喜ばせるのが上手だ。
読了ありがとうございました!
ノリと勢いの産物。もしかしたら二話目があるかもしれません。