第五話:実咲①
焼肉店の後、書店の前でサークルメンバーと別れた実咲は皆が駅構内へと消えたのを確認すると書店には入らずに来た道を引き返していた。焼肉店の前まで戻ってくると、一旦店を見上げる。『焼肉 かつらぎ』と掲げられた看板がまだライトの光を反射させていた。
実咲は視線を戻すと、再び歩き出した。
23時を過ぎたばかりだったが、人通りは多く、気を抜くとぶつかりそうになる。考え事をしながら歩くのは無理だなと諦めて、実咲は歩を速めた。
実咲が歩くにつれ、段々と人通りは少なくなり、やがてほとんど人とすれ違うことがなくなる。実咲が目的地に着いた時にはもう、辺りに人の姿を認めることはできなかった。
実咲はあの日桜が落ちたドブ川に来ていた。川べりを歩く。桜が落ちた場所は覚えていた。暗い川面を覗き込む。いるはずはないことは分かっていた。
だってあの日確かめたのだから。
実咲は桜が落ちた辺りをじっと見つめて、あの日のことを思い返した。
次はないから、そう捨て台詞を吐いて歩き出した香澄の後を追う前に、実咲は一度川の中の桜の様子を確認した。桜は「ううっ」と呻きつつ、頭をさすっていた。頭をかなり強く打ち付けたように見えたから心配だったのだが、その時は間違いなく桜は生きていた。
駅に向かって歩きながら、桜への文句を言い続ける香澄に真理と弘志が賛同する。実咲は話には乗らずに横目で彼らの様子を見ているだけだった。たまに思い出したように、賛同を求めてくる香澄にはちゃんと相槌を打ってやる。その香澄の行動は、実咲が香澄と桜のどちら側についているのか確かめたいだけなのだと知っている。
香澄の側にはいつも真理と弘志がいる。強い女に見えてその実、香澄は群れずには生きられない人間なのだ。誰が自分の味方なのかということを常に確かめずにはいられない性格だと実咲は知っている。
別に誰の味方でもないけど。
もちろん敵でもない。その都度その都度うまく合わせて、適当に生きていければそれでいいと実咲は思っていた。
駅に着くと、実咲は真理と弘志と別れて香澄と歩き出した。実咲は2駅先までは香澄と同じ電車だ。5分足らずで乗り換えるのでそれ程長い時間話に付き合うことはない。実咲にとってそれは救いだった。普段はそこまで話が合わないわけではないが、今回は香澄の口からこぼれるのは始終桜の悪口で相槌を打つのも楽ではなかったからだ。
乗り換えの駅で電車から降りると、実咲は香澄が乗ったままの電車が滑り出すのを確認してからいつもとは違う方向へと歩き出す。
香澄と乗ってきたのとは逆方向の電車に乗り直す。
香澄の後を追って歩き出した時から、もう一度川べりに戻るつもりでいた。
実咲にとっては戻る労力よりも、桜の体調を確かめるためあの場に残って香澄の反感を買うほうがはるかに面倒なことだった。
駅を出て、歩き出しながら実咲は思う。
香澄は詰めが甘い。
桜が頭を打った後、動くかどうかを見守っていたようだったが、それだけでは足りないと実咲は思う。香澄の捨て台詞に、桜は反応しなかったのだ。決して軽いダメージではなかったはず。あのまま動くことができずに今も川の中にいるかもしれない。最悪そのまま死んでしまっているかもしれない。少し想像力を働かせれば見えてくるリスクだ。もちろん、頭の怪我は大したことなくもう家に帰り着いているかもしれない。それならそれでいいのだ。ただ、どうなったかを確かめておく必要はある。自分の身に起こりうる危機的状況を最小限に食い止めるために。
桜が落ちたところまで戻ってきたが、そこに桜はいなかった。
死んでいないことは確認できた。
心の中で呟いて、辺りに目を凝らす。どこかで倒れているかもしれないからだ。薄暗い視界の範囲にそれらしい人影は見当たらない。さらに見回して、道路の黒い影に気づいた。水の跡だ。桜の落ちた付近の道路に大きく広がり、そこから実咲が歩いてきたほうへと途切れ途切れに続いている。桜が自力で川から上がり、歩いた証拠だ。恐らく家に帰ったのだろうと思われた。
問題なしか。
心配は杞憂に終わったわけだたったが、確認することはやはり大事だったと実咲は今思う。
焼肉店での他のメンバーの反応を見た時にもそう思った。他の三人はここで桜が死んでいる可能性を考えていたはずだ。
あの日この場所で桜は死ななかった。それは実咲の中で確定的な事実だったが、ここに桜は絶対いないという裏づけを得るため念のためにもう一度来てみたのだ。
桜の落ちた川の暗がりに視線を落としたまま、実咲はスマホを取り出した。
実咲にはもう一つ気になっていることがあった。
LINEを起動し、23時でバイトが終わっているだろう晃にメッセージを送る。
「晃、今大丈夫?」
スマホを手にしたまま歩き出す。程なくして返事が着た。
「大丈夫。バイト今終わったとこ。さきは何してた?」
さきは実咲のことだ。実咲の咲の部分を取ってるわけだが、実咲としては縮める程長い名前ではない気はしている。
「みんなで焼肉行ったよ。今帰り。それでさ、ちょっと気になることがあるんだけど」
「何?」
実咲は気になっていることを確認するためにメッセージを打ち込み、送信した。
晃の返答次第で実咲の考えていることは確実なものになる。
足を止めて、実咲は一度川のほうを振り返った。
無論そこには何もいなかった。




