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夢を見ない男

作者: 瀬川潮

 男は、書籍が好きだった。

 その日もいつもの通り、息子が起き出したころ子供の朝食の準備に忙しい妻に「じゃあ、行ってくる」と声を駆けてから出勤した。かばんの中には、常に未読の文庫本が一冊あった。通勤バスで運良く座席に座ることができると、それを取り出す。手に馴染むのか、ほっと男の表情が緩んだ。しおりを抜いて、昨晩の続きを読む。何とかいう小説賞に輝いたことのあるそれは、山岳ミステリーだった。男は、今までまったく知らなかった登山の、経験者でしか分からない裏事情を交えた内容にすっかりのめり込んでいた。

「次は、市役所前。次は、市役所前~」

 物語は謎が解明され、あとはヒロインと主人公の別れのシーンを残すのみとなったところで、職場に着いた。男は残念そうにしおりを文庫本にもどし、下車した。

 男は、書籍が好きだった。

 夕方。勤務が終わると、いつものように書店へと足を向けた。百貨店の最上階にある、大きな大きな本屋だ。

 その日、何より重要だったのは、今朝読んでいた山岳ミステリーの文庫本を昼休憩で読了したことだ。この男、かばんの中に未読の文庫本が一冊ないとどうにも落ち着かない。自宅に帰れば未読の文庫本は数冊あるのだが、今、かばんの中にあるかないかが重要らしい。

 書店で早速、文庫本のコーナーに立ち寄る。

 趣味はミステリにSFだ。論理的で理に適った物語を好む。ホラーも好きなのだが、どうも怖さや恐怖を味わえないと読むのをやめてしまっている。実際に両親が亡くなり、葬儀の最後に棺桶に手向けの花を敷き詰め永遠の別れをした時ほどの恐ろしさ、ある日を境に親しかった人がいなくなるという恐怖は、小説では味わえなかった。

 その日は文庫本の新刊平台で立ち止まったが、すぐに場所を変えた。めぼしい作品はほとんど読み尽くしていたのだ。新刊の「デジタル社会塵傑作集1」に少し興味が引かれたようだが、手に取ってみることもしなかった。

 次に立ち寄った実用書の棚で止まった。

 目に付いた、棚差しの夢占いの本に人差し指を掛ける。

 そっと傾け抜き出し掛けて、手を止めた。やがて、すっと押し戻す。顔には、苦笑が浮かんでいた。

 男は、夢を見ない。

 夢を見たことがないからだ。

 夢といっても、一般に寝ている間に見るとされている夢だ。将来への希望や願いといった意味での夢は、見る。もっとも、結婚して幸せな家庭を築いて特に不満もなく生活している身としては、いまさら改めて見る夢などはない。つつましい男で、分不相応を望まない欲のない性格だ。息子がそれなりに立派に育ってもらいたいとは願うが、夢というほどのものではない。敢えて夢があるとしたら、「夢というものを一度だけ見てみたい」というなんとも欲のない夢だった。当然、夢を見ても目を覚ましたらすっかり忘れているという可能性も考えたことがあるが、自分自身、記憶力に自信があることと、たとえ目を覚ますと同時に見ていた夢を忘れるにしても、生まれてから一度も見た夢を覚えていないという方が不自然だとの考えがある。

「あるいは、私が起きているこの世界が夢そのものか」

 小さくつぶやく。仮にそうだとしても、男はこの世界で変わらず生きていくしかないという思いしかないが。それが分相応と考える性格でもある。

 男は、やっぱり文庫本のコーナーに戻ろうと身を翻した。その時、「よお」と声を掛ける者がいた。

 振り向くと、人はいない。ただ、本棚の本の隙間からぺらぺらに薄い小さな青黒い影が顔を覗かせているだけだった。穴が開いて奥の本が見える二つの目と口を釣り上がらせ、「けけけけけ」と笑っている。

「あんた、心に隙があるね」

 背中に羽があるようで、蝙蝠のような黒い羽をかさかさ広げながら笑う。

 男は驚いたが、この世界そのものが夢かもしれないと思った直後であったためか、この現実世界ではありえないような出来事を否定しなかった。加えて、この存在を外見から悪魔かそれに類するものと判断。さっと周りに目を配り、来客の誰もこちらで異変が起きていることに気付いている者がいないことを見て取った。この存在が他人の目には見えていないのか、ただ気付いていないのかはまでは分からなかったが。

「いいや、ないね」

 相手のペースに巻き込まれないよう、論理的で落ち着いた対応を見せ、冷ややかに言い放った。

「今あんた、『なぜこの悪魔みたいなのがこの世界にいるんだ?』と思ったね。オレがあんたの目に見えて、そう思った時点で心に隙があるのさ」

 かさかさとこの黒い切り絵みたいな薄ペらい存在は羽ばたき、本の間から抜け出してきた。先ほど手を掛けていた「夢占い」とその隣の「禁断のタロット占い(大アルカナカード付き)」の、ぴったりとくっついて隙間のない空間からだ。

「じゃあ、隙のないようにしよう」

 そう言って男は目を閉じてまぶたをマッサージしたり自分の目の前でパンと自らの手を打ち鳴らしたりしたが、その存在は消えなかった。ついにハエを払うように右手の甲を放ったが、舞い落ちる枯れ葉のように宙を翻り元の位置に戻るだけで触れる事すらできない。

「言ったろ。あんたの心に、隙があるんだよ」

 悪魔は言い放って、文庫本程度の大きさから広辞苑卓上版程度の面積に拡大し、男の視界に迫ってきた。声の響き、そして大きくなった目や口から、一気に圧力が放たれた。男の視界は狭くなったようで、周りの客にこの悪魔の存在が見えているか、自分が独り言をいっているだけのように見ているかどうかを確認することすら失念してしまっている。

「おっと、勘違いすんなよ。オレはあんたのおかげで出てくることができた。心の隙のおかげでな。感謝してるぜ」

 くっくっく、とさらに絵本程度の面積に大きくなりながら悪魔は笑った。

「ともかくオレはもう行くが、感謝の印に一つお前の望みを叶えてやろう。何でもいいぞ。……おっと、オレに関すること以外の望みなら、な。さあ、いってみろ」

 間髪入れず、顔を近付けて言ってきた。

「夢を……」

 雰囲気に飲まれ「夢を見ることができるようにしてくれ」と願おうとした。が、やめた。

 男は、思い出したのだ。

 幼少時にも、この悪魔にそっくりな悪魔に出会ったことがあることを。

 そしてその悪魔に、「夢を見ることができるようにしてほしい」と願ったことを。

 なぜ今まで忘れていたのかは、瞬間的に思い当たった。

 なにせ、願ったにもかかわらず夢を見ていなかったからだ。結果、悪魔に出会って願いをしたこと自体が夢だったのではないかと思ったからだ。いや、時間は日中で、ここではないがやはり本屋でのことだったので、ちょうど読んでいた絵本につられて思い描いた妄想だと思ったのではないかと判断したのだ。

「夢を、なんだ?」

 悪魔がさらに間近に近寄り選択を迫る。

「夢を……」

 男は、悪魔の術中にはまっていることを感じ取った。もう、大幅に逃げることは叶わないと悟った。

 同時に、この悪魔が「夢を見るようにしてほしい」と言わせようとしているのだと感じた。悪魔が基本的に狡猾であることは、幼少時に読んだ絵本にも書いてあったし、後に読んだ専門書の知識もそれを裏付ける。

 ただし、視覚に聴覚、雰囲気までも悪魔の術中に落ちた身であれば、すでに逃げられないことも理解できた。

「夢を?」

「……見」

 ごくり、と男はつばを飲み込んだ。

「言え」

 出かけた言葉を飲み込むな、と言わんばかりに悪魔は男を至近で指差した。男は全身に汗がにじんでいることを感じた。

「み、見た夢を現実のものにしてほしい」

 言い、直した。

 まったくの、思い付きだった。単語をつなげただけの感覚。それでも、言い切った後に反芻すると、まんざら悪い願いでもないと安堵した。なぜなら、男は夢を見ない。現実のものにする夢は、ない。

「分かった」

 言葉を聞いた悪魔は、口の両端を高々と吊り上げた。笑っている。我が意中になったとの、満足の笑みだった。

 ぞっとしながら、男は思いを巡らせる。

 夢は、見ない。これは問題はない。

 将来への希望、という意味の夢に取られたか。が、これもそう取られたとしても問題はない。特に希望はないのだから。

 ここで、男ははっとした。

 まさか、この世界が夢そのものだったということでは。

 おそらくこれだと判断した。

 悪魔が出てくるきっかけとなった夢占いの本に手を掛けたとき、確かにそう思った。

 これだ。

 男は顔をゆがめた。

 つまりこの世界は夢の中で、悪魔は夢の中の存在でしかなく、男が「夢を現実に」と願うことで現実世界に現出する、ということだ

「悩むことはない」

 悪魔が言った。まだ口は笑ったような形をしている。

「オレは、約束は守る良い悪魔だからな」

 男は、明らかにこの悪魔が自分の思い通りにことが運んだのだと確信した。

「じゃあ、望みは叶えてやる。オレが消えると同時に、お前の夢が現実となる。じゃあ、楽しみにな」

 そう笑うと、悪魔は次第に薄く、透明になっていった。

――大丈夫。私は夢を見ない。

「三十五年ぶりに会って、楽しかったぞ。今度は本当にお別れだがな」

 消える前、悪魔がウインクしながら一言残した。男は愕然とした。この悪魔は、あの時の悪魔と同一悪魔だったのだ。つまり、この出会いは計算づくのことだ。

「あ!」

 突然、書店の照明が落ちて暗闇になった。

「一体どうしたんだ」

 書店の本棚があるはずの位置に手をやり身を支えようとしたが、その手は空を切った。

「え?」

 支え損なってよろりと身を崩す男。脛を平台にぶつけたと思ったが、何もなかった。

「なんだ。おおい、店員さん」

 言葉は虚しく響く。繰り返しても、同じ。

 不安になりかばんの中の文庫本に手をやるが、持っているはずのかばんもない。もっとも、仮にあったとしても大きな問題ではなかった。入っているはずの文庫本は読了しているのだから。

 途端に落ち着きを失う男。

 まだ読んでいない文庫本の中身に閉じられているような感覚に押しつぶされ、ただただ頭を抱えて叫びつづけるだけだった。

 悪夢、だった。

 男は夢を見たことがないのではなく、いつもこの何もない闇の世界を悪夢と気付くことなく見続けていたのだった。

 三十五年分の闇が、世界を黒く黒く覆い尽くしていた。



   おしまい

 ふらっと、瀬川です。


 他サイトの比較的縛りのきつい競作企画に出展した旧作品です。2007年11月。

 縛りはなんだったか忘れています。

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