『千年の闇を統べる最強魔王、勇者に「かっこいい」と褒められただけでふにゃふにゃになる』
天を突く尖塔、紫煙たなびく禍禍しき玉座の間。
黒曜石の階段の頂で、魔王ゴルゴザードは身の丈を越える大剣の柄に手をかけ、深紅のマントを翻した。
「フハハハ! よくぞここまで辿り着いたな、身の程知らずの勇者よ! 我が名はゴルゴザード。千年の闇を統べ、星々の光すら喰らい尽くす絶対の支配者なり!」
轟くバリトンボイス。大気がビリビリと震え、シャンデリアの水晶が悲鳴を上げる。
その威厳、その漆黒の覇気、まさに人類の悪夢そのもの。
だが、大理石の床に仁王立ちする女勇者エレナは、眉ひとつ動かさずにふうと息をついた。
息を整え、すたすたと玉座へ歩み寄る。
「……あの、魔王様」
「ぬ? 命乞いか? よかろう、絶望の底で――」
「城の階段、手すりがピカピカに磨かれてました。あと中庭の雑草、ちゃんと根っこから抜いてあって、歩きやすかったです。すごく几帳面で、素敵ですね」
ぴきり。
魔王の筋骨隆々な肩が跳ねた。
「な、何を……急に貴様、たわけたことを……」
「それに、さっきの登場のセリフ! 声の通りがものすごく良くて、腹筋からしっかり響いてました。あれだけ威厳のある滑舌、日頃の鍛錬の賜物ですよね。かっこいいです」
「えっ……あっ、いや、日頃の発声練習は欠かしてないが……って、何を言わせるか!」
ゴルゴザードは慌てて大剣を構え直そうとした。
しかし、その頬はすでに朱に染まり、尖った耳の先まで真っ赤になっている。
「あと、そのマントの裏地、綺麗なベルベットですね。刺繍も丁寧で、センス抜群です」
「ほ、ほんとに思う? これ、王都の仕立て屋に特注したやつで……フリルつけすぎると威厳が損なわれるから、縁取りだけに抑えてもらって……って、そうじゃない!!」
ゴルゴザードの膝が、がくがくと揺れ始めた。
背筋をピンと伸ばしていた巨躯が、みるみるうちに脱力していく。骨抜きにされたタコのように、筋肉がとろけ、玉座の肘掛けにずるずるともたれかかった。
「だ、だめだ……褒められると……背中のあたりがむず痒くなって、力が……抜ける……っ」
「まあ! 照れると耳がピコピコ動くんですね。可愛い!」
「ふにゃあああ……っ! か、可愛いとか言うな……我は魔王ぞ……恐ろしい闇の王なのだぞぉ……」
さっきまでの覇気はどこへやら。
玉座の上には、顔を手で覆って身悶えする、ただの照れ屋な巨漢が転がっていた。
「よし、今だ! くらえ、魔王!」
エレナは腰の魔法ポーチから、白銀に輝く危険な球体を取り出した。
パチパチと火花を散らす、古代魔法の決戦兵器――ではなく。
「これでもくらえ! 『母上が持たせてくれたけど、茹で時間を完全に忘れて二十分放置した挙句、捨てるのがもったいなくて魔法で圧縮冷凍保存したソーメン爆弾』!!」
「な、長ったらしい名前の投擲物だな!? 待て、なんだその白いブヨブヨした塊は!?」
ボフンッ!
投げつけられた白い球体は、魔王の眼前で破裂した。
瞬間、解凍された大量の白い麺が、もわっとした湿気とともに四方八方に炸裂する。
コシなど完全に死滅した、白く濁ったドロドロの物体。
水分を吸いすぎて限界まで膨張した小麦粉の成れの果てが、ゴルゴザードの顔面と全身にべったりと降り注いだ。
「ぶほっ!? ぐあっ……な、なんだこの……圧倒的な……圧倒的なまでの『コシのなさ』は……ッ!?」
鼻の頭に、でろんと一本のソーメンが垂れ下がる。
手で払おうとしたが、指先が触れただけで、麺は形を保てずにペースト状に潰れた。
噛む必要すらない。歯茎ですら押しつぶせる。
徹底的に角を失い、すべての反抗心を放棄した、究極の軟弱物質。
「す、吸い込まれる……我が威厳が……我が闘志が……この極限の柔らかさに呑まれて……」
「あ、ちなみに魔王様、お肌つやつやですね!」
「追い討ちぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
ダメ押しの一言がトドメとなった。
茹ですぎたソーメンの蒸気と、耳をくすぐる甘美な褒め言葉。
二重の脱力攻撃を受けた魔王ゴルゴザードは、骨を抜かれたスライムのように玉座から滑り落ち、床の上にぺたんと広がった。
「も、もうダメだぁ……戦うとか無理ぃ……」
「魔王様、降伏しますか?」
「するぅ……降伏するからぁ……その代わり、あと三回くらい『かっこいい』って言ってぇ……ふにゃふにゃあああーーーーーっ……」
大理石の床の上で、ソーメンまみれの魔王が完全に平らになって溶けていた。
こうして、世界はかつてないほど平和に、そして力の抜けた結末によって救われたのであった。
◇◇◇
世界征服を諦めた最強魔王、勇者に褒めてもらいたくて城をピカピカに磨き始める
魔王ゴルゴザードが勇者エレナに降伏してから、七日が経った。
世界は平和になった。
魔族と人類の千年にわたる戦争は終結し、各国の王たちは歓喜し、民衆は勇者の偉業を称えた。
一方、その頃。
魔王城では、世界の歴史を揺るがす恐ろしい計画が進行していた。
「……ふむ」
魔王ゴルゴザードは、玉座の前で腕を組んだ。
漆黒の鎧。深紅のマント。天を突く二本の角。
その全身から放たれる暗黒の魔力は、今なお一国を滅ぼすに十分な威力を秘めている。
「この床……まだ、くすんでおるな」
魔王は膝をついた。
そして、雑巾を絞った。
きゅっ。
「いかん。エレナが来たとき、床が汚れていては……」
魔王の脳裏に、あの日の光景が蘇る。
『城の階段、手すりがピカピカに磨かれてました。すごく几帳面で、素敵ですね』
「……すてき」
ぼそり。
耳の先が赤くなった。
「フ、フハハハ! そうであろう! 我は千年の闇を統べる魔王! 掃除ひとつ取っても完璧でなければならぬ!」
ゴシゴシゴシゴシ!
大理石の床が悲鳴を上げた。
魔王の腕力は、山を砕く。
その魔王が全力で雑巾がけをしているのだ。
結果。
床が鏡になった。
文字どおり、鏡になった。
磨き上げられた大理石は魔力によって結晶化し、天井のシャンデリアどころか、遠く離れた王都の星空まで映し出していた。
「よし!」
魔王は満足げに頷いた。
その背後で、四天王の一人、骸骨騎士デスガルドが震えていた。
「ま、魔王様……」
「なんだ」
「魔王城の床を磨くために、禁呪《万物研磨・終焉の光》を使用なさったと聞きましたが……」
「うむ」
「その魔法は、かつて勇者の軍勢三万を消滅させた禁忌の奥義では……?」
「だからこそ汚れが落ちる」
「そ、そういう用途の魔法では……」
「黙れ! あの娘が来るのだぞ!」
魔王の声が城中に轟いた。
デスガルドは思わず直立した。
「ゆ、勇者エレナが!?」
「うむ! 先日、手紙が届いた。和平協定の確認を兼ねて、明日の午後に訪問するそうだ!」
「なるほど……和平協定の確認……」
「そして、追伸にこう書いてあった!」
魔王は懐から一通の手紙を取り出した。
丁寧に封を切られ、何度も読み返された跡がある。
「『また綺麗なお城を見られるのを楽しみにしています』……とな!」
「…………」
「楽しみにしているのだぞ!?」
「は、はあ」
「我が城を! 綺麗な城を!」
「左様でございますな」
「これはもう、磨くしかあるまい!」
魔王は拳を握った。
デスガルドは天井を仰いだ。
千年仕えてきた主君が、勇者の追伸一行でここまで変わるとは。
恐ろしい。
別の意味で恐ろしい。
*
翌日。
勇者エレナは魔王城の門前に立っていた。
「わあ……!」
思わず声が漏れた。
城が光っていた。
いや、光っているというより、輝きすぎていた。
黒曜石の城壁は磨き抜かれ、太陽光を反射して七色の虹を放っている。
中庭の薔薇は一本ずつ高さが揃えられ、石畳には塵ひとつ落ちていない。
噴水からは澄み切った水が流れ、その周囲には小さな花々が可愛らしく植えられていた。
「すごい……前よりずっと綺麗!」
その瞬間。
ズドォォォン!!
城の最上階から凄まじい魔力が噴き上がった。
「フハハハハハハ!!」
窓が開いた。
魔王ゴルゴザードが、深紅のマントを翻して姿を現す。
「よくぞ来たな、勇者エレナ! 我が魔王城へ再び足を踏み入れるとは、よほど命が惜しくないと見える!」
「こんにちは、魔王様!」
「う、うむ。こんにちは」
「お庭、すっごく綺麗ですね!」
「ふにゃっ」
魔王の膝が折れた。
危うく窓から落ちかける。
「ま、待て! まだだ! まだ玄関も見ておらぬではないか!」
「玄関も見せていただけるんですか?」
「もちろんだ! いや、べ、別に貴様のために掃除したわけではないぞ! 魔王としての威厳を保つためだ!」
「そうなんですね。魔王様って、本当に努力家なんですね」
「ふにゃにゃっ!」
魔王は窓枠にしがみついた。
*
玄関ホール。
エレナは目を丸くした。
「うわあ……床が鏡みたい!」
「フハハハ! 我が暗黒魔法の真髄を見よ!」
魔王が胸を張った。
「《万物研磨・終焉の光》によって磨き上げた、究極の大理石だ!」
「魔法でお掃除までできるんですか? 便利ですね!」
「べ、便利……」
魔王は少し複雑な顔をした。
かつて世界を震撼させた禁呪が、便利なお掃除魔法扱いである。
だが。
「しかも、こんなに丁寧に……魔王様、すごいです!」
「ふにゃあ……」
どうでもよくなった。
魔王の肩がとろりと落ちる。
エレナはさらに廊下を進んだ。
「わっ、手すりまでピカピカ!」
「そ、それは我が自ら磨いたのだ」
「えっ! 魔王様ご自身で?」
「う、うむ……」
「偉いですね!」
「ふにゃああああ……!」
魔王は壁に手をついた。
その体が少しずつ縮んでいく。
漆黒の鎧が、かたん、と床に落ちた。
中から現れたのは。
身長三十センチほどの、黒くて丸い、ふにゃふにゃした生き物だった。
頭には小さな角。
背中には申し訳程度のマント。
耳だけがぴこぴこと動いている。
「……魔王様?」
「み、見るなぁ……」
ぷるぷる。
「褒められすぎると……魔力が……ふにゃふにゃになって……」
エレナはしゃがみ込んだ。
「まあ!」
両手を伸ばす。
ひょい。
魔王を抱き上げた。
「可愛いー!」
「ふにゃあああああああっ!!」
魔王は完全に脱力した。
エレナの腕の中で、柔らかな黒いお餅のように伸びている。
「魔王様、こんな姿にもなれるんですね!」
「ち、違う……これは……千年に一度の……魔力の乱れで……」
「抱き心地も最高です!」
「ふにゃにゃにゃにゃ……」
もはや言葉になっていなかった。
*
その光景を、四天王たちは物陰から見守っていた。
「……デスガルド殿」
「なんだ」
「我らの魔王様が、勇者に抱っこされておるのだが」
「見ればわかる」
「頭まで撫でられておるぞ」
「見ればわかる」
「しかも喉を鳴らしておる」
「……見ればわかる」
ごろごろごろごろ。
廊下に響く、奇妙な音。
かつて世界を震わせた魔王の咆哮は、今や猫のような喉鳴らしへと変わっていた。
「……我らは、これからどうすればよいのだ?」
四天王の一人が呟いた。
デスガルドは長い沈黙のあと、静かに答えた。
「……掃除だ」
「は?」
「勇者殿が来るたびに魔王様があのようになるのであれば、我らも城を綺麗に保たねばならぬ」
「しかし、我らは魔王軍四天王……」
「それがどうした」
デスガルドは雑巾を取り出した。
「主君の幸せを守るのが、臣下の務めであろう」
「……!」
四天王たちは顔を見合わせた。
そして、深く頷いた。
こうして。
かつて人類を恐怖に陥れた魔王軍四天王は、世界最高峰の清掃部隊へと転職した。
*
夕方。
エレナは帰り支度をしていた。
「今日はありがとうございました、魔王様!」
「う、うむ……」
元の巨体に戻ったゴルゴザードは、少し寂しそうに目を伏せた。
「……また、来るのか?」
「もちろんです!」
「ほ、本当か?」
「はい! 次はお菓子を持ってきますね!」
「お、お菓子……」
魔王の耳がぴこりと動いた。
「あと、今日のお城、本当に素敵でした!」
「ふにゃっ」
「魔王様が頑張ってお掃除してくれたの、ちゃんと分かりましたよ」
「ふにゃにゃっ」
「ありがとうございます。とっても嬉しかったです!」
「ふにゃあああああああっ!!」
ぼふんっ!
魔王は再び三十センチの黒いお餅になった。
エレナは笑いながら抱き上げた。
「じゃあ、また来週!」
「……らいしゅう?」
「はい!」
魔王の小さな耳が、ぴんと立った。
「……毎週、来るのか?」
「ご迷惑ですか?」
「と、とんでもない!!」
黒いお餅が飛び跳ねた。
「毎週来るがよい! いや、毎日でもよいぞ! 我が城は広いからな! 泊まっていっても構わぬぞ!」
「ふふっ。じゃあ、また来週ですね」
エレナは手を振り、城をあとにした。
魔王はその背中が見えなくなるまで、門の前でじっと立っていた。
そして。
「……デスガルド」
「はっ」
「来週までに、城をもっと綺麗にするぞ」
「御意」
「庭の花を増やせ。噴水も新しくしよう。客間には柔らかな絨毯を敷くのだ」
「承知いたしました」
「それから……」
魔王は少しだけ声を落とした。
「……褒めてもらえるように、我も頑張る」
デスガルドは一瞬、言葉を失った。
千年もの間、世界を征服することだけを考えていた主君。
その主君が今、たった一人の少女に褒められるために、一生懸命になっている。
骸骨騎士は静かに頭を下げた。
「……魔王様」
「なんだ」
「本日のお城も、大変見事でございました」
「…………」
魔王が固まった。
「……え?」
「床も、庭も、手すりも。すべて魔王様のお心遣いが行き届いております」
「…………」
「私も、誇らしく思います」
「…………ふ」
デスガルドは首を傾げた。
「魔王様?」
「ふにゃあああああああああああっ!!」
ぼふんっ!!
魔王は三度目の黒いお餅になった。
デスガルドは慌てて抱き上げた。
「ま、魔王様ぁぁぁ!?」
「で、デスガルドぉ……お前まで褒めるなぁ……」
「も、申し訳ございません!」
「……でも」
小さな魔王は、骸骨騎士の腕の中でもぞもぞと動いた。
「……もう一回、言って」
デスガルドは天井を仰いだ。
どうやら、魔王軍の新しい仕事は掃除だけでは済まないらしい。
こうして魔王城には、新たな掟が生まれた。
『魔王様を褒めるときは、一日三回まで』。
なお、この掟は制定初日に破られた。
理由は、四天王全員が魔王様を褒めたがったからである。
そして今日も、魔王城のどこかから声が響く。
「ふにゃあああああああっ!」
世界は、今日も平和だった。
――おしまい。




