4話 サイラス・バタフィック侯爵
お兄様が帰ると聞いて、ホッと安心する。
本当に付き添いできただけで、すぐに帰るつもりだったみたいだ。
怪しまれないように、お兄様が会場を出ていったら、ちょっとだけ時間差を置いて、私もすぐに帰ろう。
今日は仮面をかぶっているせいか、喧嘩腰じゃなくて、普通に話すことができた。
小さい頃以来のお兄様との和やかな会話に、嬉しくて頬が緩んでしまう。
出口へ向かうお兄様の背中を見送りながら、私は夢見心地だった。
「こんにちは、お嬢さん。このパーティーへは初めてですかな」
「え、あ、はい……」
お兄様がいなくなった途端、急に男性に話しかけられてしまった。
ふくよかなその男性は、若い男女が集まるこのパーティーでは少し年齢が高いようだった。
仮面で隠せない口元には、特徴的な髭がたくわえられ、深い皺が刻まれている。
この髭、少し薄い髪の毛、お腹の出具合――。
この方、サイラス・バタフィック侯爵様だ‼
仮面を付けていても、こんなに特徴的な人を、間違うはずはない。
自分の家よりもはるかに上の家格の貴族の登場に、一気に緊張してしまう。
――で、でも。お互いに素性は明かさないルールですもの。怖気づく必要はないはずよ。
「よければ、お話しませんか。二人だけでゆっくりと」
「ごめんなさい、私今ちょうど帰るところなんです」
「ははは、少しくらいいいでしょう。どちらの家のお嬢さんかな? ――招待状を調べれば、身元は分かるんですぞ」
「……!?」
素性は明かさないルールじゃないの!? 招待状から身元が分かるって、なんで!?
「おや、侯爵様。今夜はその娘を?」
「ああ。可愛らしい小鳥が、自分から飛び込んできてくれた」
――え、なんで? どうして侯爵様だと、正体を明かすの?
これで侯爵様だと気が付かなかったという、最後の逃げ道が塞がれてしまった。
「このために、毎回莫大な金を払ってこんなパーティーを開いているようなものだからな」
「いやあ、おかげで我々も良い思いをさせていただいております。……君、このパーティーに来ておいて、何もないと思っていたとは言わせないよ? この方のお相手を務めるのは、大事な役割で、選ばれた娘だけなんだ。光栄に思いなさい」
「はっはっは。怖がらせるんじゃないよ。震えているではないか。どうせ逃げ道などないのだから、ゆっくりいこうじゃないか」
気が付けば、パーティーの給仕たちが何人か、周りを取り囲んで出口への道をさりげなくふさいでいる。
他の人たちは気が付いている人もいるだろうに、私たちの様子を全く気にすることもなく、おしゃべりを続けている。
――こんなパーティーを、何度も開いている人がいる。莫大なお金を払ってまで。どうして? なんのために? そんなの目的があるからに決まっているじゃない!
主催者は男女の出会いのためにこんなパーティーを開いているんじゃない。
自分が遊びたいから、開いていたのだ。
そしてそれを知っている招待客たちが、私を助けてくれるはずがない。
――いやだ!! あ、でも今ならまだ……。
髪の色を変えているし、声だって違う。
まだ私だってバレていない。招待状だって貰い物だから、強引に逃げてしまえば私だと分からない……。
--だめだ。
ある事実に気が付いて、血の気が引く。
私に招待状をくれた友達に、迷惑がかかる!
「お酒は飲んだことあるかな? これは特別に珍しいお酒で、そうそう手に入るものではないんだ。あっちへ行って、一緒に飲もう」
「い……いや……」
「ふふふ。そうこないと逆に面白くない。今日は当たりだな」
「これはこれは……侯爵様。本物の生娘みたいだ。こんな所へどうして入り込んできたんだか。いやはや羨ましい」
「そのお酒はあの幻と言われている? ぜひ私にも飲ませてください」
目の前が真っ暗になってしまったその時だった。
間近でお兄様の声が聞こえたのは。
帰ったんじゃなかったの!?
「おい君、なんなんだ。無粋じゃないか!」
強引に使用人たちたちの間を縫ってきた様子のお兄様に、先ほどから侯爵に話しかけているほうの男性が嚙みついた。
「失礼。とても珍しいお酒が見えたもので、どうしても気になってしまいました。私はお酒には目がないのです」
「ほう……」
バタフィック侯爵のほうは、お兄様の登場に微塵も動揺した様子もなく、どっしりと落ち着いている。さすがの貫禄だ。
「君は、このお嬢さんの身内かなにかか?」
「……いいえ、今日が初対面です」
「それは見上げた男気だな。--いいだろう、ありったけを持ってこい」
バタフィック侯爵が、使用人に手を挙げて合図をすると、何人かが素早く消えていく。
そして間もなく、お酒の瓶がいっぱいに並べられた銀のワゴンがやってきた。
「さあ、好きなだけ飲みたまえ。……お酒には目がないのだろう?」




