1-2
いつの間に眠ったのか、乱鐘の音で目が覚めた。
まぶたが信じられないほど重い。
あと三日は寝ていたい。
どうにか片目の半分を開けたが、窓の外は暗闇だった。
夢で聞いたのかと思ったが、鐘は鳴り続けている。時を告げるのとは、明らかに別の音だ。
そう考えた瞬間、思い出した。より正確には、レーヴの記憶を参照できた、といったところか。
一時間は、昼夜が同じになる春分と秋分の、日の出から日の入りまでを十二等分して定められている。鐘は原則として昼間にだけ打たれ、夜に聞くことは平時ではあり得ない。
つまり、何か普通でない事態が起きている。
必死の思いで起き上がり、隣を見たが、ルノアはまだ深い眠りの中だ。
木窓を開けると、薄暗い街灯の中、大勢の人たちが、悲鳴を上げながら通りを走っているのが見えた。
その中には、住人を海岸のほうへと誘導している人間がいて、どうやらアントラーシュの軍人のようだ。
やがて扉を激しく叩く音がした。
「客人っ、早く逃げてっ。獣鬼だっ」
その声に、ルノアが目をこすりながら上半身を起こした。
「獣……鬼?」
彼女は操り人形のように、ふらふらと窓のそばに立ち、外を確認したあと、大きなあくびをした。
「こんな海岸沿いに、やつらが現れるなんて、信じられませんが……」
「とりあえず外に出よう」
荷物を手に、宿を出ると、軍人が腕を振り上げながら、絶叫していた。
「オークがいるっ。海側へ逃げろっ」
逃げ惑う村人たちとともに、指示されたほうへと進む。
「獣鬼は海が嫌いなのか?」
「ええ。硬殻種は、その名の通り、外皮の丈夫さが取り柄なのですが、海水に長く触れていると、腐食してくるのです」
軍隊の影響力の及ばない地域では、海沿いに集落を作ることが多いのだそうだ。
やがて、砂防林の広がる海岸線に出た。
着のみ着のままで集まっていた人の多くは、やはり老人と女、それに子供ばかりだ。
そして、彼らをたばねるように、凛とした態度で指揮していたのは、酒場ですれ違った女の軍人だった。
「また、お前たちか。縁があるな」
「オークが出たって聞いたんですけど、本当ですか。こんな海沿いの村に?」
「間違いない。我々がここに滞在している理由でもある」
ルノアの問いかけに即答した彼女は、隣国、アントラーシュの人間で、カトリア・エステルハージという名の将校だった。
その説明によれば、この春以降、国境沿いの山間部で獣鬼の発見が相次ぎ、その調査を進めているうちに、この村に行き着いたのだそうだ。
「本来であれば、王国の守備隊が対応すべきなのだろうが、今、王都が戦乱に巻き込まれているからな。我々、アントラーシュの辺境部隊が、村長の依頼を受け、ここに駐留、警戒していたのだ」
他国を守るというよりは、自国に獣鬼たちが押し寄せる前に、食い止めることが目的らしい。
海岸にいる軍人は彼女を含めて二人だけ。酒場ですれ違った巨漢の軍人を含め、残りは獣鬼を迎え撃っているのだそうだ。
これまで、何度か同じような事態になっているようで、村人たちの表情は、恐怖心というより、疲労感が上回っているように見えた。
だが、しばらくして、彼らが不安そうにし始める。
「今回はずいぶんと長いな」
老人の声のあと、兵士が一人、村側から必死の形相で駆けてきた。
「エステルハージ少尉っ」
「どうした」
「シルバーオークが現れましたっ。し、しかも二体ですっ。ジルド曹長が応戦中ですが、小隊は壊滅状態ですっ」
シルバーオーク、という単語に、群衆から悲鳴が起きた。
ルノアと目が合う。彼女は背伸びをして、レーヴの肩を強く掴み、耳元に口を寄せた。
「シルバーオークというのは――」
「通常のオーク百体に一体くらいしかいない。体格は五割ほど大きく、凶暴性や攻撃力はその比じゃない、だろ」
「えっ。記憶が戻ったのですか?!」
「眠っている間に、情報が少し整理されたみたいなんだ」
「そうですか。それは良かった、と言っていいのかどうか――」
「それで、どうする。オレたちも加勢するか」
カトリアが、兵士二人とともに、去って行く。
「無理です。こんなに大勢の前でアビリティは使えません。ですが、それ以外に、戦うすべを持ち合わせいません」
「遠くから、重力制御で獣鬼を追い払うのは?」
「あのスタイルは、確か生き物相手には使えないはずです」
「え……。そうだったんだ」
「精度も出ないし、とにかく使い勝手が悪いって評判です」
「そんな感じはしないんだけどな――。だったら、こういう方法はどうだろうか」
とっさに思いついた手段を口にすると、彼女は口を半開きにして、レーヴを見つめた。
「そんな発想、初めて聞きました。原理的には確かに可能かも――。ですが、訓練もなしにいきなりの実戦で使えるとはとても思えないのですが」
「シルバーオークを一体も倒していない状態で、小隊は壊滅状態だ。さっきの少尉がどれくらいの手練れかはわからないけど、迷ってるひまはないと思う」
ルノアは、これまで何度かそうしたように、驚いた様子でレーヴの目の奥をじっと見つめていたが、近くで泣いていた子供を一度見たあと、静かに頷いた。
「わかりました。拙者だって、王宮所属のソーサラーです。不出来な弟子に遅れを取る訳にはいきません」
少尉が去った方向に駆け出しながら、似たような英雄主義的な思考を、近い過去にも経験したような気がしていた。




