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そこからさらに進んで、景色は再び草原となった。風の匂いが変化し始める。
長く歩いたことが功を奏したのか、体力的な疲労とは別に、体調はさらに快復した。
「あまり無理せず、少し休みましょう。これが最後の休憩になると思います」
広葉樹を背にして腰を下ろしたルノアは、地図を確認しながらそう言った。
「重力制御は難しいんだろうか」
水筒を受け取りながらそう言うと、彼女は軽く笑いながら首を振った。
「あれは希少なアビリティで、あなたには備わっていません。あったとしても、利用価値がほとんどありませんが。現に、師匠もほとんど使ってなかったです」
「価値がなくはないだろ。その細い腕で、オレを長時間持ち上げることなんてできないわけだから」
現象からの単純な推論を口にすると、乾いたパンを口に運ぼうとしていた動きを止め、口を半開きにした。
「アビリティを腕力と比較するなどと、思いつきもしませんでした。ですが、なるほど、そうですね。確かにあなたの言う通りです。発想がとても斬新です」
手にしていた物を口に放り込み、うんうんと二度うなずく様子を横目に見ながら、小石を投げた。途中で止めようとしたが、アビリティを発動する前に、地面に落下してしまった。
「だから無理ですって。使える人間でも、そんな精緻な制御はできないんです」
「これで最後にするから」
立ち上がり、そばの木を軽く蹴った。葉が数枚、ひらひらと舞う。その中の一つに狙いを付けた。
落ちるのは大地が引き寄せているから。だが、その作用を無効にできる気がする。
どうしてそう思ったのか。
気づいたとき、他のすべてが地面に落ちたあと、一枚だけ、絵に描いたように、空中で静止していた。
成功したのではと、急いでルノアに振り向いたとき、すでに彼女は口と目を大きく開け、驚愕の表情だった。
「それ、あなたがやったんですかっ?いったいどうやってっ?!」
「うまく説明できないんだけど、重力の気持ちがわかるというか、そこから解き放たれた経験があるような、ないような――」
目を閉じ、とても届きそうにない、記憶の底を探っていると、彼女は「なるほどー」と感心したように息をはいた。
「無詠唱であることを含めて、それらが蘇生による副産物かもしれない、ということですか。説明としては大雑把すぎますが――。今のところは、そういうことにするしかないですね。一度死んだくらいで、人はこうも変わるものなんですねえ」
「念のため言っとくけど、もう二度と死にたくないからな」
「まーいいじゃないですか。それにしても、師匠が世の役に立つところを初めて見ました」
彼女の師は、現役の頃は、国王直轄のソーサラー部隊を率いるほどの力があったらしく、引退後も部隊の顧問として、スタイルの研究をしていたそうだ。
「拙者にも気安く接してくれました。とはいえ、半分以上はエロ目的でしたけど」
これまでの雑談の成果なのか、明るくそう言った表情は、すっかり立ち直った、とまではいかなかっただろうが、初めて声を聞いたときと比べれば、ずいぶんと明るく感じた。
それからの道中、木切れや小石を見つけては重力制御を試してみた。
回数を追うごとに、上達する、というよりは精度が上がっていく感覚だ。
「あり得ません。大木で米粒に字を書くより難しいはずです。いくら王族とはいえ、拙者より出来の悪かった人間に、追い越されるのは不愉快ですね」
やがて太陽は地平線に近づき、空は橙色のグラデーションを帯びる。
「目的地まであとどれくらい?結構、クタクタなんだけど」
「余計なことに体力を使うからですよ。あと少しです。ここから、たぶん数キロいった先に海があって、そのそばに小さな漁村があるのです。戦略上、ほとんど意味をなさないところで、おそらく敵もまるで注目していないはずです」
「敵というのは、どういう相手なんだろう」
「それは……拙者にはわかりません。ただ、強力な武装集団であったことだけは確かです」
「王宮は、選りすぐりのソーサラーが護衛していたんだよな。つまり、物理攻撃はアビリティより強いってことか」
「いえ、それがそうではないようなのです――」
続きがあるのかと待っていたが、彼女はそこで立ち止まり、大きく背伸びをした。
「見えました!コベロスです」
終着点が確定したとわかった瞬間、あっという間に体が疲労感に襲われた。
一刻も早く、横になりたい。
前のめりで進もうとした、レーヴの肩を彼女は強く掴んだ。
「何?」
「これから人に会うにあたり、一つだけ、守るべきことを伝えておきます」
「うん」
「我々が王宮の生き残りであることはもちろん、ソーサラーであることも、絶対に、何があっても秘密です。敵の勢力がどこまで広がっているのか、見当もつかない。やつらは王族はもちろん、親衛隊や近衛も皆殺しにした、殺戮者なのです」
そう言われて、改めて着ているものに目がいった。なるほど、二人とも質素な衣類であるのは、そのせいか。
「わかったよ。見知らぬ人間は全員あちら側だと思えってことだな」
「しかり、です」
コベロスは、国境沿いの、山と海の間にある小さな村だった。
城郭などはなく、最初に目に入ったのは、木製のやぐらだ。骨組みそのものは朽ちかけ、強い海風に揺れていて、おそらく、長い間使われていなかったことが見て取れたが、半鐘の部分には真新しい打ちあとがあった。
村の中央を通る大路だけは石畳で、だが、それ以外は整備されていない土の地面だ。道の両側に、しっくいの外壁の粗末な造りの家が全部で二十軒ほど並んでいて、全体にさびれた雰囲気だったにもかかわらず、不思議と、人の往来は多かった。
「変ですね。確かに、立地的には水や食べ物には困らないんでしょうけど――。こんなに栄えている村ではなかったはずなのですが」
「若い男がほとんどいない。いるのは軍人ばかりだ。あれは王国の人たち?」
「いえ……。あの軍服は隣国のアントラーシュ帝国のものです。若い人がいないのは、徴兵されたせいでしょうが――」
やがて中央通りの中ほど、比較的大きな建屋の前で、ルノアは立ち止まった。
「ひとまず、宿を取りましょう」
建屋に姿を消した彼女を待つ間、改めて周囲を見回した。
家の多くは平屋だ。二階があるのは、宿屋を含めて数軒といったところ。道端のところどころにあって、揺らめく明かりで周囲を弱く照らしているのは油灯のようだ。人が井戸で水を汲み、それとは別に、細い用水路で、女が衣服を洗っていて、レーヴたちが村に入ったのとは逆側の外れには、停車中の馬車が見えた。
ずっとこの世界で生きていたはずなのに――そんな風景が懐古的に思えるのはどうしてだろう。
「お待たせしました。無事に部屋を確保できました。では、食事にしましょう」
酒場へと向かう途中で、生活水準について尋ねてみた。
「どこもこんなものです。王都や帝都のような大きな街は別でしょうけど」
「重力制御のアビリティがあるのに、馬車を使うのは、そのスタイルを持つ人がいないから?」
「それ以前の問題ですね。そもそも、ソーサラーの絶対数が少ないですし、赤燐光石はさらに希少です。黒灰石を霊石として使えるようになれば――いや、それでも移動手段には永遠になり得ないでしょう」
「黒灰石?」
「獣鬼が気化したあとに残る、黒い石のことです」
「あー……。あれのことか。霊石として使うって――」
「二つの石は、似て非なるものなんですよ」
黒灰石は、それ単体でスタイルが宿っているという。ただ、作用には大きな違いがあり、赤燐光石がスタイルを通してエーテルを外に解き放つのとは逆に、黒灰石は周囲のエーテルを取り込むのだそうだ。
「スタイルが元から宿ってるって、意味がよくわからないんだけど。誰が付与したんだよ」
「それは神様ですよ」
「神……?」
「ええ、そうです」
そんなバカな、と言おうとしたが、相手は完全に真顔だ。
「へ、へえ。ちなみに、それって、どんなスタイルなんだ?」
「はあ?獣鬼に決まってるじゃないですか」
ますます意味がわからない。
「上手く説明できてないですか?えーとですね、猿やイノシシなんかの動物の死体と、黒灰石が一緒になったとき、獣鬼が生まれる、と言われているんです」
「つまりこういうことだろうか。死骸にエーテルが流れ込み、鬼として生き返ることがある。その媒介をするのが黒灰石だ、と」
少ない情報を無理やりつなぎ合わせただけだったが、ルノアは大きく目を見開いた。
「驚きですね。拙者が話した内容より、詳しく、的確に要約してくれるなんて、便利すぎます。いつかエキスパートの試験を受けるときには、ぜひ殿下と一緒に勉強したいものです」
酒場に着いたのは、日がすっかり暮れた頃だった。空には星が瞬き始め、大きさの違う月が二つ、顔を出している。
飲食できる場所は、村に一箇所だけのようで、盛況だった。
客の多くは老人と軍人だ。
道に面したテーブルに案内される。旅の人間は珍しくないのか、誰も二人を気に留める様子がなかったのは幸いだった。
板の品書きを受け取ると、同伴者は指を滑らせながら、そんなに食べられるのか、というくらいの数を注文した。
「そういえば、お金、あるのか?」
「正直、多くは持ち合わせていません」
大柄で、無愛想な女の店員が去るのを待って、彼女は腰を持ち上げ、レーヴの耳元に口を寄せた。
「金貨、五枚だけです。師匠が最後に託してくれたものですから、大切にしないと」
庶民に流通している貨幣は金銀銅の三種類。銅貨五十枚で銀貨一枚。銀貨二十枚で金貨一枚ということだ。
「それ以外に、大金貨もあります。金貨百枚の価値ですが、国同士の交易で使われるもので、拙者たちが目にすることは、一生に一度もないでしょうね」
最初に運ばれてきたのは、飲み物だった。
彼女は木の器の中を確認し、黄金色の泡立っているほうを口にした。
レーヴの前に置かれたのは、果物を絞った飲み物のようだ。
「かはーっ」
半分ほどを一挙に飲み干すと、彼女は満足そうに息をはいた。
周囲にアルコールの芳香が漂う。
確か師匠が死んだことを、泣いて悲しんでいたはずだが――。
遠回しにそのことを尋ねると、ルノアは、「ふん」と鼻息を荒くした。
「いいですか、あの人は九十一歳で亡くなりました。普通の人なら、七十まで生きれば、長生きだというのにです。しかも、死ぬ間際まで、拙者の尻を触るような好色家だったんです。午前中、少しは悲しかったのは確かですけどね」
そう言って、もう一度、麦酒を口にした。
どうやら、師の思い出は、酒より軽いらしい。死んだ人間は、普通は生き返らない。悲しみで立ち止まったままよりは、今の彼女の態度が正解なのだろう。
最初の一杯がなくなりかけた頃、串刺しの肉料理が運ばれてきた。
「鶏肉です。あなたの好物だったのですが、いかがですか」
すでにかなりの空腹だ。好き嫌いなど、確かめる余裕もなかった。二人であっという間に平らげる。
二皿目の卵料理を完食した頃、彼女の頬は朱色になっていた。
「飲酒に年齢制限はないのか」
「特に決まりはありません。人によって、十歳で飲む者もいれば、三十で苦手にしている場合もあるでしょう。どうしてそんなことを気にするんですか?」
「どうして――。理由は説明できないんだけど、子供には害になる気がしたんだ」
「またそれですか。自分が誰かもわからないのに、教えてもいない希少なアビリティが使え、おまけにやたら頭が回る、と。ちなみに言葉は話せていますが、文字はどうなんですか?」
そう言って、品書きをレーヴの前に置いた。
「問題なく読める。麦酒一杯、銀貨一枚。食べ物は一皿、銅貨三十枚。飲み物のほうが高いのか」
「税がかかってますからね。まったく、酒くらい、好きに飲ませてほしいものです」
不満げにそう言うと、彼女はカップの中を覗き込み、最後の一滴をなめ取り、ちゅうちょなく、二杯目を注文した。
金は大切に使う、と言っていたような。
「蘇生でいったい何が起きたのか、あなたの頭の中身を見てみたいですね」
そう言った声調は、それまでより一段高く、口の回転も速くなっていた。
目覚めてからずっと感じていた違和感。胸に渦巻く突拍子もない疑問を告白するには、ちょうどいいタイミングかもしれない。
「馬鹿にしないで聞いてほしいんだけど……。実はオレ、誰かの生まれ変わりみたいなんだ。前がどんな人間だったのか、まるでわからないんだけど、王子でなかったことだけは確かだと思う」
そう言いながら、相手がいったいどんな反応を見せるのか、知らずに息を止めていた。
「なるほど、ですね」
だが、酔っ払いは、運ばれてきた二杯目を味わうことに集中していて、レーヴの不安には何の感慨も見せようとしない。
「何、その反応。信じたってこと?驚かないのか?」
「生まれ変わりは、当然あるんでしょう」
「それって、ここでは普通のこと?もしかして、君も――」
「いえ、前世の記憶なんて、もちろんありません。ただ、あなたが生き返る瞬間をすぐ横で見ていましたから」
レーヴは、崩れてきた日時計の直撃を頭に受け、一度息を引き取った。師匠が行ったのは、身体の治癒と、同時に魂を呼び戻すアビリティだったそうだ。
「ケガの治療はこれまで何度も目にしたことがありますが、続けて行ったほうは、その存在すら知りませんでした。正直、あなたが目を開けたとき、傀儡として操られているのだと、そう思ったくらいです」
ただ、現実はそうでなかった。であれば、蘇生とは、身体から遊離した魂を戻す手段にほかならない、というのが彼女の推測だ。
「もしそうなら、別の人間の魂が元の器に入る可能性もあるんじゃないですか。とはいえ、引き寄せられるのは、誰のものでも良かった、というわけではないのでしょう。年齢なのか、性別なのかは不明ですけど、今のあなたと、元のレーヴ殿下に、何かしらの共通点があったか、あるいは――真逆、ということもあり得ますかね」
「真逆?どういう意味?」
「人は自分にないものを求める生き物だと、師匠が言ってました。生まれ変われば、次は女にモテまくる人間になりたいって」
「なるほど、こうなりたいと思う姿、か」
「ちなみに、一つ前がどんな人間だったのか、少しくらいは覚えているのですか?」
「それがまるで……。ただ、この喋り方とか性格は、引き継いでる気がする。それくらいかな」
「なるほど。では、殿下の記憶は?いかがです?」
「たぶん、ある。何て言うか、すごく雑然としていて、探し物を見つけるのには、しばらく苦労しそうだけど。生きていくのに必要なことくらいはどうにか」
彼女が三杯目を頼もうとしたとき、店の入り口で、「今は満席なんだ」と、店員が二人連れの客を断るやり取りが聞こえた。
「そろそろ出ようか。お金もないんだから」
ルノアは一瞬、不服そうな表情を見せたが、レーヴの視線を追って状況を把握したのだろう、しぶしぶ手を上げた。
「すみません、お会計、お願いします」
その声に、立ち去ろうとしていた外の二人が足を止める。
中年の女の店員が皿を数え始めた。
「えーと、銀貨三枚と、銅貨六十枚――じゃなくて、銀貨四枚と銅貨十枚だね」
ルノアが巾着から、慎重に金貨一枚を取り出し、テーブルに置くのを見て、相手は眉をひそめた。
「あらら。細かいのないのかい?えーと、お釣りは……」
「銀貨十五と、銅貨四十枚」
そう言うと、店員は動きを止め、不思議そうにレーヴを見た。
「何だい、それ。本当かい?」
女は言われた通りに、硬貨をテーブルに並べる。皿と合わせて数え直したあと、「へえ」と感嘆の息をもらした。
「あんたら、ソーサラー?」
「いいえ、まさかっ。アビリティで計算はできませんよ」
ルノアは立ち上がって、大げさに否定した。
「あはは。そうだよね。にしもて、あんた、頭いいねえ。王宮で、財務卿になれるんじゃないかい」
そう言うと、口を大きく開けて笑った。
どうやら王都が敵の手に落ちたことは、この村には伝わっていないようだ。
「そっちのお客さん、ここが空いたよ」
店を出るところですれ違ったのは、アントラーシュの軍人二人だった。
一人は、クマのような大きな中年の男。子供の体くらいの大きさの、ナタのような武器を背負っている。
あとの一人は、軍服の上からも筋肉が発達していることのわかる、妙齢の女だった。
「急かしたようですまないな」
通り過ぎるとき、彼女はそう言って、軽く頭を下げた。
帰り道、ルノアは、軍人たちの来訪の意図をいぶかしがった。
「王都陥落を察知した隣国が、混乱に乗じて侵攻してきた、っていうのがあり得そうな展開じゃないのか」
「確かに。ですが、彼らから、そんな殺気は感じられませんでした――。というか、あなたは本当に殿下ではないのですねえ。さっきのお釣りもそうですが、そんなに速く計算したり、筋道立てて物事を考えられるお人ではありませんでした」
宿に戻り、部屋が一つであることを知った。
何かまずいのではと思ったが、ためらう間もなく、同行者は壁側のベッドに飛び込み、すぐに寝息を立て始めた。
一階で桶に水を汲み、部屋に戻る。ただ顔を洗うだけの作業が面倒な気がする。もっと便利な方法があるような――。とはいえ、何かを思い出せる気もしなかったが。
扉にかんぬきを差して、もう一つのベッドに横になった。
ここに至るまで、長い道程だった。
本当に生まれ変わったのか、おそらく、それを確かめるすべはない気がする。
誰かの人生を引き継ぐことの意味を考えようとして、明日、起きたあとにどう過ごすか、そんな簡単な予測すらできない現実だ。
今はただ、生き延びることに専念する以外にできることはないのだと、開き直るよりなかった。




