9-3
学校が休みの日、当主の許可を得て、レーヴは再び帝都へ向かった。
前回の別れ際に、アンナリーズから頼まれた、衣類や化粧品を差し入れるためだ。
再会した彼女は、少しやつれていたが、目は死んでいなかった。
ヘンドリカの母が住み込むことになったことと、獣化の事実を伝える。
「なるほどね。生きた人間と黒灰石の融合か――。理屈上は確かにあり得るかもだけど、現実に試した神経を疑うよ」
「どうにか石を取り出せないかなって、考えてるんだけど」
「治癒のソーサラー頼みで、無理やり切ってみる、とか?」
「外側から何かのアビリティで壊せないかな」
「身体の内側にあるものを、どの力で壊すつもり?まさか火炎とか言うんじゃないよね」
「重力制御、とか?」
「あれは動く物の方向と速度を変化させる力なんでしょう?だったら、動かせない物には役に立たないと思うけど」
「確かに。だったら――」
そこまで口にしたところで、彼女は不機嫌そうにその細い指をレーヴの唇に押しつけたあと、胸に手を当てた。
「他の女の心配ばかりだけど。あんたには、もっと大事なことがあるんじゃないの?」
「ごめん。まだ助ける方法を思いつかないんだ。何かオレにできることある?食べたい物とか」
「とりあえず、お風呂に入れないことが耐えられない」
おそらくは何の含みも持たずに、ただ不満を言ったのだろうが、条件反射で、屋敷で見たあの情景を思い出してしまった。
「何であんたが顔を赤くするの」
相変わらずの鋭い指摘に思わず狼狽する。結果、ポケットから、普段そこにはない貝が落ちた。
ヘンドリカたちの婚約の儀の予備にと、フリッツが持っていた物で、一度目で成功したからと、無理やり押しつけられたのだ。
カランと心地良い音が無人の廊下に響く。
慌てて拾い上げたが、アンナリーズは真夏の太陽光線のような鋭い眼光でそれを睨んでいた。
帝国の女で、それが何かを知らない人間などいない。彼女は意外そうな表情をしたあと、謎を解き明かした名探偵のような笑みを見せる。
「なあんだ。そういうことなのか。別に恥ずかしがることじゃないよ」
「え……っと。何のこと?」
「今さら隠す必要はないでしょ。前に、わたしのそばから一生離れない、とかって言ってたから、もしかして、とは思ってたんだけど」
想定外の方向に、話題が急加速したのはわかった。
勘違いしている、と訂正しようとして、相手の追撃が圧倒的に先だった。
「いいよ、婚約してあげる。年も一緒だしね」
目線をわずかにそらせながら、そう言った。
まさかとは思ったが――。そんなに即決していい事案なのだろうか。
喜んで飛び上がるとでも思っていたのか、何の反応も見せなかったレーヴに、彼女は怪訝そうに小首を傾げた。
「何で棒立ちなの?」
「ええと。一つだけ聞いていいか。それって、オレがナヴァルの王子だから?」
「それはそうだよ」
そんな返事をするのだろうと思っていたが、相手は予想とは少し違う答えを返した。
「お父様が亡くなる前だったら、確かにそれは大きな理由になったかもね。でも、今は誰かの目を気にする身分ではなくなったんだ。だから純粋に、あんたが、レーヴがこの世界でわたしに一番必要だからだよ」
そう言ってはにかんで見せた笑顔は、これまで彼女と出会ってから目にしたどの表情よりもあどけなく、しばらく瞬きも忘れて見入ってしまった。
必要というフレーズが、頭の中で何度もリフレインして、やがて意味がわからなくなる。
「と、とりあえず、ここで儀式をするわけにはいかないわけだし――」
「婚約と婚姻は囚人であっても、認められている権利だよ。確か留置場の警護の兵士に、ソーサラーがいたはずだから、呼んできて」
いつになくテキパキした指示を与えると、廊下の先を指さした。
反論せず、言われるままにしたのは、ヘンドリカとジルドを見たあとで、過去に経験したことのない何かの感情が胸に残っていたからだと思う。
あるいは、重罰の可能性が残っているにもかかわらず、普通の男女が行う、ありふれた儀式に、希望を見出した彼女への敬意があったのかもしれない。
入り口まで戻ると、歩哨の一人が蛍光する赤い指輪をしていた。
果たしてどんな反応を見せるのかと、おそるおそる事情を話すと、無精ひげを生やした彼は、おっくうそうに立ち上がり、黙ってアンナリーズの房の前までやってきて、紙とペンを差し出した。
二人がそれぞれに名を書くのを待って、白蝶貝の上にそれを重ねる。
「古より連綿と伝わる神の御言によりて、その霊験なる力を顕現せよ。ルミナス」
貝殻の上に手をかざしながら、おざなりな詠唱をすると、用紙の名前の部分が溶け落ち、それが貝殻に転写された。
兵士は無造作にそれをアンナリーズに押しつけ、あくびをしながら去って行った。
「あとは、わたしがここから出れば万事解決だ。そっちは任せたから」
貝殻の一片を差し出し、レーヴの背中を押した。
受け取ったそれを眺めながら廊下を歩く。きっと、今起きた事の重大さを理解していないことだけは確かだ。
すっかり通り慣れた官舎の廊下を、出口に向かって進んでいたときだった。
通りかかった部屋の扉が、蝶番をきしませながら開いた。
中から女が二人姿を見せ、それが皇女とユスティナだとわかり、慌てて壁際へと移動した。
軽く会釈をして二人が通り過ぎるのを待ったが、目の前に見える足が移動を始める気配がない。
やがて、片方から声がした。
「随分と足繁く通ってるみたいですわね」
顔を上げると、フェリシアがどこか気まずそうに顔をそむけた。
「審問会の日程とか、決まったんでしょうか」
「まだです。こっちにだって、色々と都合があるんですの」
どこか苛立ってそう言ったが、なおも立ち去る気配がない。
「どういう処罰になるんでしょうか」
他に共通の話題もなく、仕方なくそう言うと、相手は目を吊り上げた。
「わたくしを責めても無駄ですっ。裁定に関して、何一つの権限も持っていないのですからっ」
どうやら、今回の一連の出来事とその結果については、彼女にとっても不本意であるようだ。
「恩赦という手段は取れませんか?」
辺境伯と陳情の相談をしていたとき、彼が口にしていた単語だった。
だが、それはこの場面では禁句だったらしい。皇女は一歩近づくと、腕を組み、さらに声を高くした。
「無理に決まってるでしょうっ。罪人は他にも大勢いる。彼らを納得させる、どんな大義があるというのですかっ」
遠くで扉が開き、誰かが顔を覗かせた。
「そう、ですよね。わがまま言ってすみませんでした」
円満とは言えなかったが――帰るための口実にはなっただろう。
頭を下げ、歩き出したとき、追いかけるように背中から声がした。
「ちょっと待ってください――。明後日の午前中、エステルハージ卿の領地を通る予定なのですが、非公式で私的な移動ですので、もし気づいても、一切の出迎えは不要ですと、辺境伯に伝えておいていただけますか」
それまでとは打って変わって、低く沈んだ声調だった。どうやら言いすぎたと反省しているらしい。
振り返り、もう一度頭を下げた。
「承知しました。ご公務ですか?」
「いえ、そうではなくて――。父の容態が思わしくないのです」
そう言えば、以前、誰かがそんなことを話していたっけ。跡目争いが激化している要因だと。
「長らく心臓を患っているのですが――エトルリアに、腕のいい医者がいるという評判を聞き、つい先日、わたくしが直接先方に出向いて、診断を願い出たのです」
ああ、ヘンドリカを探していて、すれ違った日か。
父親の病気で、気分は最悪だった。そんなときでも、笑顔を振りまく、皇女としての矜持に素直に感心する。
「皇帝陛下が同行されるとなれば、行軍はかなりの人数になりますか」
「いえ。ティナの助言で、近衛だけを帯同した、ごく少人数の予定です。衣類も旅人を装った質素なものにしようと思ってますの」
そう言って、フェリシアは隣を見た。
「エトルリアは、帝国の中でも中央に対して敵愾心の強い区域ですから、お忍びのほうがいいだろうという判断です」
「承知しました。当主にそのように申し伝えます」
返事をしながら、小さな違和感を覚えたが、それが何に起因するのか、深く考えようとはしなかった。




