0-4
彼女が最初に向かったのは湖だった。そこで水を補給した。
意を決して、湖面に映る姿を見たが、その外見にまるで覚えはなかった。
良く言えば気品があるが、病弱と表現するほうがきっと的確だ。手入れのされていない髪は長い戦争のせいか。ルノアよりは少し若く見えるが、子供と呼べる年齢でもない。
早歩きするだけでも、軽く息が切れることを考えても、間違いなく、野山を駆け回るような人間ではなかったようだ。
そこから、長い時間移動した。
草原だったはずの地面は、いつしかほとんど土だけになり、丘から見えていたはずの山はいつの間にか姿を消していた。
体力的にはかなりきつかったが、追手がいるのであれば、弱音を吐ける状況ではないのだろう。
二度目の休憩のときだ。
岩に腰かけるルノアには、まるで会話をする気配がなかったが、どうしても確認したい疑問があり、おそるおそる声をかけた。
「一ついいか。オレを森の外れまで運ぶとき、何か特別な方法を使ったんだと思うんだけど。今、ずっと歩いているのはどうしてなんだ?」
また無視されることも想定していたが、予想に反して、相手は水筒から飲水していた動きを唐突に止め、首だけ振り返った。その眉間に深い溝を作って。
「拙者には重力制御のアビリティなんかありません。仮にあったとして、こんな荒れ地では十分なエーテルは存在しない。仮に満ちていたとして、歩くのが面倒だという理由で貴重な霊石を使えるはずがない。仮に石が豊富だったとして、我々を二人同時に――」
「ごめん、わかったから。無知で悪かった」
大急ぎで手を振ると、彼女は帽子の上から頭を抱えた。
「ああ、もう……。何だか拙者が悪人みたいじゃないですか。あのですね、アビリティはエーテルのない場所では使えないんですよ。そのエーテルは、動植物の生命反応の濃い場所に集まる。それで、今はどうです?雑草がまばらにしかないような、こんな場所で、いったい、どの程度アビリティが使えると思うんですか」
ルノアは不機嫌そうにため息をついたあと、右手を空に向ける。戦場で聞いたのと似た言葉を口にすると、直後に手の先に小さな明かりがともった。次に、左手をレーヴに向け、同じく何かの言葉を発して、今度は微風が起きた。
「せいぜい、これくらいです」
「光と風?そのアビリティは誰にでも使えるのか?」
素朴な疑問を口にしただけだったが、相手は表情を激しく歪めた。
また罵倒されるのかと身構えたが、彼女は一度下を向いて深呼吸をしてから、顔を上げ、自制するかのように、ゆっくりと答えた。
「そんなわけないでしょう。様式を持った、選ばれた者だけの力です」
「スタイル……は、アビリティとは別物?」
尋ねるばかりで気が引けたが、いつ一人になるかわからない状況で、情報を集めることは生き延びることに同義だと思う。
彼女は再び小さくため息をついた。
「……とりあえず、歩きましょう。日が暮れるまであまり時間がありません」
移動を再開しながら、三つの用語の説明を受けた。
「まずはエーテルですね。目には見えないですけど、この世界の至るところに存在しています」
「空気みたいなものか」
「イメージとしては、液体のほうが近いですね。生命のあるところに集まりやすい、すべての自然現象の源という感じでしょうか」
アビリティは、エーテルを光や風のような自然現象として変換、発現させるための能力で、スタイルはその手順書のような物だという。
料理にたとえるなら、エーテルはいわば万能食材だ。調理の工程がアビリティ、スタイルはレシピ集といったところだろうか。
「スタイルは生まれついて与えられますが、ほとんどの人は持っていません。だから特別なんです」
彼女が見せたアビリティは、光と風だった。他にも重力制御があり、確かレーヴ自身も、オークを倒すとき、火を使っている。種類はどの程度あるのだろう。
「今まで見てきた中であれば、重力制御がすごく使い勝手がありそうだけど。応用すれば、自由に空を飛べるってことになりそうだし」
だが、彼女はまたしても「はあ」と、深く長いため息をついた。
「石っころくらいに小さく、軽ければ、多少は思い通りに動かせるかもしれませんけど……。対象物が重くなるほど、操作の難易度が、急速に高くなるのです」
「でも、逃げるとき、オレを運んだんだろ。意識がなかったから、はっきりとはわからないけど、結構な距離と時間だった。違うか?」
その問いかけに、ルノアは面倒くさそうに、レーヴの胸元に手を伸ばすと、ペンダントを引きちぎり、手のひらに置いた。
「霊石を使ったんですよ。といっても、重力制御を付与したのは拙者ではなく師匠ですけどね。それだって、大雑把に地面から浮かせただけなんです。空中を自在に移動できるような力を発揮できる人間など、この世に存在しません」
そう言って、太陽に石を透かしたあと、遠くに投げ捨てた。
霊石は、正式名を赤燐光石という、希少な鉱物だそうだ。スタイルを転写することができ、アビリティの発動を、人の介在なしに持続することができる。
「つまり、こういうことか。霊石に転写した重力を制御するスタイルで、オレの体を継続的に浮揚させ、その上で風のアビリティで移動させた、と」
「その通りです。同時に二つのアビリティを使うことは理論的に不可能なのですが、霊石を使うことによって、利用の幅が大きく広がることになります」
「なるほど。だったら、そんな貴重な物を捨てたのはどうして?」
「使っていくうちにどんどん濁って、そのうち効力を失うのです。あれは、元々寿命が尽きる寸前の石で、もはや使い物になりません」
利用可能な時間は、石の大きさや純度、稼働させるアビリティの難易度などによって決まるのだという。
彼女は足を止め、カバンから中からフェルト地の包みを取り出した。開いた中にあったのは、高い透明度の、小さな赤い石が三つだ。
「あなたに使ったのを含めて、これが王宮に保管されていたすべてです」
「こっちの小瓶は?」
「ポーションとエリクサー。ちなみに、あなたが飲んだのは金貨二十枚もするエリクサーのほうです」
「なるほど、あの苦いのか……」
アビリティの中には治癒もあるらしいが、それで回復できるのは、体の傷までらしい。瓶の中身は、血液などを補給するための、ある種の栄養剤とのことだ。
「最後にあと一つだけいいか。オレは王国の王子で、君はそこの従者だったんだよな。その割には、何だか態度が冷たい気がするんだけど――。仲が悪かったんだろうか」
記憶がない以上、この先当面の間、彼女に依存することが避けられそうにない。であれば、可能な限り、わだかまりは解消しておくべきだという判断だった。
機嫌を損ねないよう、控えめにそう言うと、予想に反してルノアは、頬を赤くして、目を伏せた。
「いえ、決してそういうわけでは――」
そのまましばらく悩んでいたように見えたが、やがてあきらめたように目線を上げた。
「ただの――自己嫌悪です。八つ当たりです」
それから、何かを決意したように一度うなずき、静かに話し始めた。
ナヴァル王には三人の子供がいた。長男、長女、そして次男のレーヴだ。
長男にはスタイルがなく、ルノアは下二人のアビリティの家庭教師として雇われていたそうだ。
ただ、レーヴは驚くほど臆病で繊細だった。オークのような獣鬼と闘うことはおろか、優柔不断で、一人では朝に着る服も決められない。人見知りも激しく、彼女を含め、他人に心を開くことは決してなかったらしい。
「あれこれ試したんです。なだめたり、おだてたり。でも無駄でした」
当初は、自分の意思疎通能力のなさに落ち込んでいたが、やがてそれは相手が悪いのだと、そう考えるようになった。
「頭脳明晰で意見をはっきり口にする七つ上のお兄様、優秀なソーサラーだった三つ上のお姉様と事あるごとに比較されては、従者たちからも陰口を叩かれていました。それに便乗して、自分の責任を転嫁したかったんだと思います」
ソーサラーとは、アビリティを使う者を指す言葉らしい。
黙ったレーヴを見て、慌てたように続けた。
「すみません、何の取り柄もなかったわけじゃないんです。本はたくさん読んでいましたし、体力と度胸と意思疎通できる能力がわずかでもあれば、もう少しましになれたはずなんです」
だが、結局、一度も心を通わせることのないまま、レーヴは戦禍の中に散り、そして蘇った。
別人として。
「死んだときのこと、教えてもらえるか」
「姉上が、あなたを助けるため、近くの敵をすべて引きつけてくださったのですが――運悪く、逃げる途中で高度カレンダーの崩落に巻き込まれたのです」
「高度カレンダー?」
「時計塔にある、正午の太陽の高さで日付を決めるための、日時計の一種です。国に一つしかないので、現状、王都の人たちは月日を正確に確認することもままならない状況なのです」
前を行くルノアは、そこで言葉を区切った。
「ちなみに――オレもアビリティを使えたりするんだろうか」
「え?さっき、オークを倒したのはあなたではないのですか?」
「やっぱり、あれがそうなんだ。あのときは、ほとんど無意識だったんだ。とっさというか、必死というか」
「ふむ。危機に瀕して、記憶の一部が戻ったってところでしょうか。もちろん、備わっていますよ。王族がなぜその立場になったか、という歴史です。スタイルを持つ子供の生まれる確率が、一般の人たちに比べて高い血筋だったのです。確認しましょう。エーテルは通常、その存在を意識することはありませんが、逆に言えば、意識さえすれば、いつでも掴み取ることができます。腕を前に突き出して下さい。水中で手を動かすと、抵抗がありますよね。そんな感覚です」
その言葉にはっとした。まさにさっき、似た感覚を経験したばかりだったのだ。
「では、詠唱して下さい」
「――何を?」
「ええっ?火炎を使ったんですよね?逆に、どうやったんですか?」
「確かこう――」
目を閉じ、あのときを思い出した。
空に向けて右手を上げる。
水の中にいるときのような――。そう考えた瞬間、何か懐かしさがこみ上げてきた。
同時に手のひらが熱くなる。さっきは、それを弾き飛ばしたんだっけ。
同じイメージを頭に浮かべたとき、すぐそばで「きゃあっ」と悲鳴が聞こえた。
慌てて目を開けると、隣にいたはずのルノアが帽子を飛ばし、尻もちをついていた。
上空では、大きな火の玉が、天に向かってかなりの速度で遠ざかっている。やがてそれは視界からはるか先で燃え尽き、周囲の雲と同化した。
彼女は口を開けたまま、それをぼう然と見上げていたが、やがて、はっとしたように立ち上がると、口をぎゅっと閉じ、厳しい表情でレーヴに向き直った。
「危ないじゃないですかっ――っていうか、何だって泣いてるんですか。殺されかけたのはこっちなのに」
そう言われて、手の甲で頬に触れると、涙のあとがあった。
「よくわからない。水を意識した瞬間、何だか悲しいような、懐かしいような、そんな気分になった」
足元にあった帽子を差し出すと、彼女は腰の草を払いながら、それを受け取った。
「はあ、何が懐かしいのか、さっぱりわかりませんが――。いや、それよりも、無詠唱でアビリティを使うとか、聞いたことないんですけど」
その力は、神代に創造主が戯れに使った超常現象が、系譜の最初だそうだ。故に、その発動には、今も古語が用いられるのだという。
それから、彼女が口にしたのは、目覚めてから何度か聞いた謎の言葉だった。
「古より連綿と伝わる神の御言によりて、その霊験なる力を顕現せよ、という意味です。ソーサラーは、神の力を一時的に借り受ける存在なのですよ――。と、それはともかく、先を急ぎましょうか」
それから、行軍を再開した。
アビリティを披露したことで、距離が縮まったのか、ルノアはそれ以前よりは刺々しさがなくなり、会話が少し広がった。
「拙者の両親は、北の国境沿いのエルミオニという小さな村の平民で、裕福というわけでもありませんでした。ただ、幸運なことに、拙者には子供の頃からスタイルの素養があり、領主のいる町で、アビリティを学ぶ機会を与えられたのです。当地から出た初めてのソーサラーだったこともあって、かかる費用は住人が協力して用意してくれました。その後、基本様式のアビリティを一通り扱えることが判明して、当時の教師からの推薦で、幸運なことに、王宮に招聘されるという栄誉に浴することができたのです。出仕したのは、九年前の太陽暦2852年、十歳のときです。本来であれば、四年ほどで教育係をお役御免になるはずだったのですが、殿下があまりに不出来だったおかげで、引き続き、お仕事をさせてもらえていたのです」
「十九歳か。オレより年下かと思っていた」
「は?拙者の背が低いって言いたいのですか?というか、あなたは自分の年齢を覚えているのですか?」
「いや――そう言われれば、知らないな。どうしてそう思ったんだろ」
「ちなみに十六歳ですが――そんなに素早く計算ができる人じゃなかったような」
首を傾げる彼女を見て、胸の中の違和感がまた一つ積み重なる。
死んで生き返るなど、それなりに異例のことだろう。
その手続きに何か間違いがあったとして、何の不思議もないのだと思う。




